何所に向かっているのか。
アルの中でのその疑問は、正直さっきの道の果てを見た段階で検討がついていた。
坂道を昇りきった先に広がる、その広い大地を。
丘の上を切り整えたかのような、その夕陽の光を浴びて橙色に輝く場所を。
「…………」
だがそれでも、実物を目の当たりにすると言葉を失う。
さっき店に向かっている時真正面に見えていた、小高い丘。
おそらくはその頂上こそが、ココ。
ミュウの言う通りこの街の中では一番高いのか、振り返りながら街を見渡さば、橙色に染まる、まるで人形用のものかと錯覚してしまうような、その美しくも小さく見える街並み。
街を守る対面の壁が見えているのに、人の流れは見えているのに、人一人が全く誰か分からない、そんな広がる街並み。
そんな光景だからこそ美しいと感じてしまう、そんな場所。
「ほら、あそこです。私達が住んでいる場所は」
声のした方を振り返ると、そこには丘の先を指差すミュウの姿。
その指先を追ってみれば、確かにそこには、一つの大きな建物があった。
柵で囲まれた小さな複数の畑。その先にある、天高く十字架を掲げた、大きな教会のような建物が。
街を守るためにある壁と同じ高さに備え付けられた十字架。教会の広さも、二人のいる真正面の位置から見る限りは、椅子が二列置ける程度の広さしかないように見える。
だがそれはあくまで「教会」の広さであって、「建物」全体の広さではない。
「あの奥の建物は……」
「じつは手前のは教会で、奥にあるのが私達の住んでいる場所なんです」
呟くようなアルの言葉にミュウは答え、二人して並んでその建物へと向かいながら、続ける。
「何でも昔は、修道女さん用の宿舎だったようですよ。三階まであって、二階から上は個室部屋が……確か、十六部屋ぐらいありましたかね」
「へぇ、そんなに部屋数があるのですか。あ、だから泊まる場所は大丈夫と」
「はいっ。毎日掃除してますから、部屋数も間違いないはずですし」
自信満々に小さく胸を張りながら答える。
その姿に微笑を返しながら、アルは一つ、思い出す。
この教会が昔、森の奥で収束する川の受け口――湖の水を汲み上げ、聖水と成し、再び街の中央の湖に流すという行為を、街を守るためにやっていたことを。教会に住む修道女の修行の一環として、そんな大事なことが行われてきたということを。
さしずめ注目した奥の建物は、その修道女達が住んでいた寮か何かだろう。
両脇から出っ張っているように見える、その建物は。上から全体を見ればTの字になるように建っている、その建物は。
「着きましたぁ!」
と、畑の群れを抜けた先、教会の正扉の前へと辿り付いた。
逸る気持ちをそのままに、五段ほどの階段を駆け足で上るミュウの後ろを、ゆっくりとした足取りでついていく。
そうして大人よりも高い、大きな扉の片側を開け、その教会の中へと躊躇いもせず入っていく。
「ただいま戻りました、先生!」
奥にいるのであろう先生へと、帰って来たことを声高々に宣言している彼女の後に続き、アルも教会の中へと足を踏み入れる。
もっとも彼女とは違い、ゆっくりと静かな足取りで、だが。
真正面にある大きな十字架、その上にあるカラフルなステンドガラス、十字架の前にある机のようなものは司祭のための教壇か。
全体的な広さは外から見て予測した通り、五・六人掛けの椅子が二列、真ん中に人二人が歩いてもまだまだ余裕が見て取れる大きな道を作った状態で、均等に十二脚――合計二十四脚設置されている。
また二階には人二人ほどが通れる通路が設置されており、教会全体もまた奥行きもあるため、意外にも人は収容できそうだった。
「ミュウちゃん! 帰って来たの!?」
そうして教会の中を眺めていると、一人の若い女性の声が、教壇の脇にある通路の奥から聞こえてきた。
大きな足音が慌てるように近付いてくる。
「先生!」
「ミュウちゃん!」
ミュウの呼びかけに応えるように奥から現れたのは、聞こえてきた声の通りの、頭のローブをしていない修道女のような格好をした、一人の若い女性。
腰まで伸びた長い髪に、おっとりとした瞳。心配しているのが分かる雰囲気の中に、穏やかな雰囲気が見え隠れしている。もしこのような状況でなければ、その穏やかな雰囲気のみで彼らを出迎えてくれたのかもしれない。
「ただいま戻りました!」
「戻りました、じゃありません!」
元気良く丁寧に挨拶をしたミュウに対し、当のその女性は怒りの形相で彼女をたしなめる。
「まったく、朝起きたら『夕方には戻ります』なんて書置きを残していなくなって! 私がどれだけ心配したと思ってるんですか!」
怒っているや叱っている……と言うよりも、大きな声を出しているだけにしか見えない。叱るのがよほど苦手なのだろう。女性自身の雰囲気で心配していたことは分かるが、やっぱり性分なのか、穏やかなその空気までは隠しきれていない。
「ちゃんとお昼ご飯は食べましたか!? 誰かに襲われたりしませんでしたか!? いえそれよりも、今までどこに行っていたんですか!?」
親しい仲だろうに丁寧な言葉遣い。これも性分なのだろう。もしかしたらミュウの丁寧な言葉遣いは、彼女の真似事か影響なのかもしれない。
「いえその、ちょっと第三区へ」
「宿屋街ですか? どうしてそんなところを?」
「えっと……にへへ」
「にへへじゃありません!」
「まぁ、少々お待ちください」
と、ここでアルが口を挟む。
「あなたは?」
「歴史探求者で旅人のアルです。まぁ、格好を見てもらえば分かると思いますが」
背負ったナップザックに左腕の盾と腰の剣、これが旅人でなければただの奇人変人の類だ。
「……旅人のあなたが、一体どうしたんですか?」
さり気なく、ギュっとミュウの手を取り、自分の方へと引き寄せてアルとの距離をとらせる。
……警戒している。
でも別に、アルの腹は立たない。
ミュウのことを大切しているのが分かるその行動だからこそ、別に腹は立たない。
むしろ大切にされていることが伝わってきて、嬉しい気持ちすら沸いてくる。
「いえ、彼女にちょっと街の案内してもらいまして。助かったと言うことでお礼も兼ねて、お送りさせてもらった次第です」
「街の案内……?」
「はい。どうも彼女、街で仕事を探していたようなので。是非ともと、こちらからお願いした次第です」
ミュウが襲われていた部分は削除した。
これだけ大事にしている子が襲われたとなると、気が気でなくなるだろうという配慮から。
「私、アルさんに助けてもらったんです!」
のに、あっさりと当の本人がぶっちゃけちゃいました。
頬をほのかに赤く染め、嬉しそうに。
「男の人たちに襲われてるところを華麗に切り裂いて助けてくれました!」
殴打はしたが切り裂いてはいない。
「泣いている私を優しく抱きしめて慰めてくれました!」
言い方にどこか卑猥さを感じるのは何故だろう。
「仕事を探していると言うと健全で楽な仕事を紹介してくれました!」
楽という自覚があったことにアルは何故か内心複雑な心境を抱く。
「だからアルさんは、私の恩人なんです! とっても優しい人なんです! 一緒にいると心がホワホワとするんです!」
どうも彼女の中でアルとの出来事が美化されているような……最後のはまるで恋する乙女のような物言いだった。
……まぁ実際そうなのかもしれないが、当のアル本人は、兄のように思われてるのかなぁ、と、どこか遠くに思っているだけなのだが。
冷静に思考を巡らせられるほど、自分の気遣いを無駄にされたことに対する驚きが抜けた訳ではない。咄嗟のことに対する思考が出来ないのが彼の欠点の一つだった。
故に、時間が足りなかった。
「ですから先生! どうかアルさんをここに泊めてあげて下さい! お願いしますっ!」
そうして最後に、勢いよく頭を下げた。
小さなツインテールが半瞬だけその場に残されたのではと錯覚してしまうほど、勢いよく。
「…………」
そうして下げられた頭を、女性はジッと見つめる。
引き寄せるために握った手を離してまで、丁寧に下げてきたその頭を、何かを考えるような瞳のまま、ジッと見つめる。
そうしてしばらく逡巡した後――
「えぇ、構いませんよ。部屋は空いていることですし」
――ため息とは違うニュアンスで大きく息を吐き出した後、さっきまで纏っていた心配そうな雰囲気を払拭し、おそらくはいつも通りの穏やかな雰囲気で、大きな声を上げることも無く、纏っている雰囲気通りの言葉でそう告げた。
「ただし」
と、喜びで顔を上げたミュウに待ったをかける。
「どうして働きに行ったのか。その説明してくだされば、の話ですけど」
続いたその女性の言葉に、今度はミュウが視線を逸らし、しばらくの間逡巡する。
自分の思いは黙って、アルを泊めないか……それとも、自分の思いを打ち明けて、アルを泊めるか……。
そう考えると、自然と、あっさりと、答えが固まった。
そしてチラっと、女性の方へと視線を向け……溜まっていたものを吐き出すかのように、意を決して、固まった答えを紡ぐ。
「その……今ついこの間、誕生日を祝って貰って、私も十五才――働ける年齢になってたじゃないですか。それなのに先生、危ないからと言って私を働きに出さなくて……この孤児院だって、経営が大変なのに、私に手伝わせてくれないじゃないですか」
「だから、働きに出たのですか? ここの経営が心配だから?」
「いえ、そうじゃないんです。ただ今日は、私と先生が出会って十年の記念日じゃないですか。だからせめて、その記念日のプレゼントぐらい、私が稼いだお金で送りたかったんです。確かに、私をもっと頼っても大丈夫、って意味合いもあります。でもプレゼントぐらい、自分で稼げるなら、自分のお金で送りたいじゃないですか」
「…………」
「だからこれ、先生へのプレゼントです! 今まで私を育ててくれた十年間の感謝の気持ちと、これからもよろしくという気持ちと、先生一人で抱え込まないで、もっと私を頼って下さいという気持ちを込めた、先生に身につけてもらうための、プレゼントですっ!」
そうしてワンピースのポケットに隠していた、アルから受け取っておいた例のプレゼントを、女性の前に突き出す。
「…………」
その姿を、女性は無言で見つめる。
プレゼントを受け取るでもなく、ただ無言で。
「……あの、先生……?」
そのミュウの言葉にようやく、ハッとした表情を作る。
どうやらさっきまでは、そのミュウの行動に思考が追いついていなかっただけなのかもしれない。
つまり、ただ呆気に取られていただけ。あまりのその行動に。
嬉しすぎる、その行動に。
だから彼女はハッとした後、そのまま柔らかな笑みを浮かべる。
柔らかな、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「……そうよね……ミュウちゃんも、もう大人だもんね……」
その、さっきまでの丁寧な言葉とは違う言葉の中には、大人になった、自分が頼っても大丈夫になったミュウの姿を、愛しんでいるかのようなものを感じられた。
「……分かりました。それじゃあこれからは、皆と一緒のお手伝い以外のものも、お願いすることにします」
そう、さっきまでの口調に戻り、穏やかで満面な笑みを浮かべながら、その差し出された、キレイに包装されたプレゼントを受け取る。
「開けても良いですか? ミュウちゃん」
「あっ、はい!」
元気の良い挨拶を聞きながら、そのあっさりと解ける包装を解く。
そうして現れたのは、例の、翠色のブレスレット。
幾重もの光を溜め込み、反射する、沢山の宝石が散りばめられた、キレイなキレイなブレスレット。
「……キレイですね」
「はいっ! アルさんが報酬としてくれました!」
「そうなんですか……ありがとうございます」
「い、いえいえそんな、正当な報酬ですので、お気になさらずに」
突然頭を下げてお礼を言われたので、思わずどもってしまう。
「ミュウちゃんも、ありがとう」
「うん! ねぇ、早速付けてみて!」
自分のことのように嬉しそうな表情で言ってくるミュウにうんと答え、早速左腕につけてみる。
それは暗に、ミュウのお願いを聞き入れるという、示し合わせ。
「……うん、やっぱりキレイ……」
上に翳し、教会の上を通過している夕陽に照らしてみる。
影になる部分は相変わらず翠のままで、陽が当たる部分はオレンジの光を放っている。
それがとても幻想的で、彼女は暫くの間、そのブレスレットに見入っていた。
◇◆◇◆◇
「それじゃあミュウちゃん、さっそくで悪いのですが、彼を泊めるための部屋を用意してきてくれますか?」
彼女のその言葉にミュウは元気良く返事をし、彼女が出てきた奥へと続く道へと消えていった。
ガラス張りの二階から、地上に届かぬ高さで、夕陽が射し込んでいる。
そんな教会に残されたのは、一人のシスターと、一人の旅人。
「……アルさん、でしたっけ?」
「はい、その通りです。して、失礼ですが、あなたのお名前は?」
「シャナルです。シャナル・ミルハルト」
「では、シャナルさん。僕にお話しがあるのではないですか? そのためにミュウちゃんを、先に向かわせたのでしょう?」
「……話が早くて助かります」
立ち話もなんですから、と、近くの長いすに腰掛ける。
一人分の隙間を開けて奥に座る彼女の、その開けてくれている隙間にアルも腰掛ける。もちろん背負ったままのナップザックは降ろして。
「じつは、今日ミュウにあったことを、話して頂きたいんです」
「やはりですか……まぁ、ミュウちゃんのことをあれだけ思っているあなたのことですから、気にはなっていたものの彼女自身に聞くことは出来なかった、と言ったところでしょうか」
「はい……ミュウちゃんの傷を――せっかくあなたが塞いでくれたであろう傷を、再び開ける真似はしたくなかったので……」
「ありがとうございます。あなたのような方に育てられているから、ミュウちゃんも、あれだけ真っ直ぐに育っているのですね」
そう心からの言葉を述べてから、アルは訥々と、ミュウとの出会いを話し始める。
路地裏であったこと。
複数の男に囲まれていたこと。
自分が助けだしたこと。
助け出してから、仕事をお願いしたこと。
その全てを。
…………。
「……なるほど。分かりました」
その話を聞いたシャナルは、一つ頷き、アルの方へと僅かに身体を向ける。
「ミュウちゃんを助けていただき、ありがとうございました」
そうして言うと、座ったまま頭を下げた。
「いえ、僕はただ、僕のやりたいようにやっただけですから。それにお礼なら、ここに泊めてもらうことで帳消しですよ。ですので、そんな風に頭を下げないで下さい」
「ありがとうございます」
頭を上げ、前へと倒れた長い髪を元に戻す。
「あなたにお仕事を紹介してもらえ、私も安心です」
「そうですか? もしかしたらこれら全てが、あなたの信頼を得るためのウソかもしれませんよ?」
「あら、あなたは大嘘つきなのですね」
「え?」
「だって本当に、このことに関して嘘をついているなら、今こうして明かすなんてことはしないでしょう? 今までの行為全てを疑われるなんて、デメリットの方が大きすぎますし。それなのにそうして訊ねるなんて……ホント、嘘つきです」
「……えぇ、僕は嘘つきです。ですからこのことに関しても僕は嘘をと――」
「少なくとも、ミュウちゃんに関しては嘘をついていないのでしょう? そうして訊ねたのは……そうですね、自分の話しを信じてくれることに対する自信の無さから、ですかね」
「っ……! ……へぇ、そう思うのですか」
「まぁ、孤児院の経営者となると、色々な人と接することになりますから。子供はもちろんのこと、こうして院を経営していけるための資金援助の方とか、ね」
「確かに、その通りですね。……ですが正直、僕は自分のような風貌をしている人の話など、一回で信じないでしょうから。ですから、気になったのです。どうして一回で、僕の話を信じてくれたのかと」
「ふふっ……顔つきのことなら、気にしないほうが良いですよ。顔なんかで人を見る人は、大した器を持っていません。まだ子供なんですよ。しかも、濁った心を持った、ね。あなたの、その真っ直ぐな瞳を見れないから気付けないだけなんですよ」
「……これは参りました。僕の瞳が真っ直ぐ、ですか」
「はい。ですから私も、あなたの話を一回で信じたのですよ。もちろん、ミュウちゃんが信じている、と言うのが大きいのは事実ですが」
「……ありがとうございます」
嬉しい気持ちから、アルの口から自然とお礼の言葉が出る。
と、ふとさっきの会話で気になるところがあったので、お話が変わって失礼ですが、と話を振る。
「先程、院の経営に際しての資金援助の話が出ていましたが……そのような方がいらっしゃるのですか?」
「あっ……。――。……はい。じつは、様々な区間の貴族様から、資金援助を受けております」
若干の、間。
そのことが気にはなったものの、シャナル本人が、そろそろミュウちゃんの準備も整ったでしょう、と立ち上がったので、続きを追求することは出来なかった。
「…………」
ミュウが消えていった教会の奥へと先導されながら、前を歩くシャナルの背中を見ながら、アルはさっき、間を開けた時のシャナルの表情を、思い浮かべる。
空気が一転してしまった、あの“間”の正体を探るかのように、さっきのシャナルの表情を、思い浮かべる。
そして、考える。
何か辛いことを隠すような、何か誤魔化さないといけないと必死になったような、その表情を浮かべた理由を。
その表情を、どうして浮かべることになったのか。
その理由を。