空は青く、陽は高い。
“こうなる前”の時刻は、確か二時を少し過ぎたところだったはず。
だからこんなにも人々が行きかっているのだろう。
オフィス街の街並みはとっても「人」だった。
だがそれでも、その天井に等しく広がっている建物を覆う空は、平和を謳っているような気さえする。
……結論から言うと、ソレは全くもっての気のせいな訳だが……。
「待ち……やがれっ!」
確かに、世界単位で見れば平和なのかもしれない。
戦争が起きている国がある中、この国は特に、平和だと思う。
だって戦争が無いんだし。
それに治安も、他国から見ればむしろ良い方。
それはこの街だけで見ても該当する。
だから、世界単位で見れば、平和そのもの。
……こういう小さな事件だけは、後を絶っていない訳だが……。
「こんの! 引ったくり……! 野郎がぁっ!」
俺の前を走る、その辺にいそうな中肉中背の男。
ある時は人ごみを掻き分けて進み、またある時は横道に逸れて隠れるように進むその姿を見失わないよう、必死になって追いかけ続ける。
全く、服装も後姿も地味なせいでいつ見逃すか分かったもんじゃねぇ。
「はぁっ……! はぁっ……!」
叫んだせいで余計に息が切れてしまう。
……情け無い、と言う無かれ。
確かに俺は体力が無い方ではあるが、それでも、約十分間もその時その時出せる全力で走っていれば、さすがに疲れてくる。
しかも向こうの脚も俺と同程度なのか、全く差を縮められる気配が無い。
いや……正確には向こうの方が若干速いか。
ただ、人ごみの中を走って逃げる時は、向こうが掻き分けてくれた人の波があるから追いついて、逆に人気の無い所に逃げられると少しずつ差が広がっていってしまっている。
だから向こうとしては人気の無いところばかりを選んで逃げれば良いのだが……生憎とこの街には、裏通りばかりが続いているような場所は無い。
だから必然、差を縮めたり広げたりを繰り返す追いかけっこになってしまうのだ。
「くっ……!」
何かに躓いて、少しだけたたらを踏んでしまう。
だがこけることなく体勢を立て直し、すぐさま目の前の男を追いかける。
リズムが多少狂おうとも、これぐらいなら大丈夫。
……と、このタイミングを狙ったかのように、人気の無い横道へと逸れていきやがった。
さっきまで人ごみのおかげで差が縮まってたってのによ……!
躓いた時間プラス差を広げる時間で一気に勝負を決めようって算段か。
だがその手には乗ってやれない!
俺も意地を張って、同じ道に入って追いかける。
もしここが俺の地元なら、横道の出口に対する近道でも通ってあっさりと捕まえられただろう。
だがここは、バイト先で訪れていた二つ隣の街。
とてもじゃないが道なんて知るはずもない。
でもそれは向こうも同様なのだろう。
なんせ向こうにとってここが地元なら、俺はとっくに、あっさりと逃げられていただろうから。
つまりはまぁ、互いにとってアウェイなのだ。
この街は。
おかげでここ、さっきも通ったような錯覚に陥ってしまう。
最初は大声をあげて周りの人に助けを求めたもんだが……今のご時世、我関せずの人が多すぎて捕まえようともしてくれない。
ただ俺の声に視線を寄こし、次に前を走っていた男に視線を寄こして終わりだ。
今ではスタミナ切れも合わさって、人ごみに出た時に思い出したかのように、俺が声を上げているだけだ。
さっきみたいなのな。
……まぁ、それが無駄すぎて、余計に体力を消耗しちまってる訳だが……ホント、俺のやる事成す事、中途半端だ。
「桧! その道左!」
と、道に飛び込んだは良いもののとっくに見失ってしまってどうすれば良いのかを考えながら走っていると、頭上から俺の名前を呼ぶ女の子の声が聞こえてきた。
その聞き慣れた声に従い、俺は言われた通り左に曲がる。
それでもまだ、さっきまで前を走っていた男の姿は見えない。
「合ってんのか!? コッチで!」
走る速度を緩めることなく、声を張り上げて上を見る。
……う〜ん……白か。
立っているところを真下から見るという妙なエロティックさがより興奮度を高める。
俺の視力が悪いせいでシワまでクッキリ見えないのが無念で仕方が無い。
まぁ、電柱の上に立っているその姿のスカートの中まできっちりと見れる視力を持ってるのなら、ソイツはスナイパーになれる素質があるんじゃなかろうか……?
「合ってるに決まってんでしょ! 良いからキリキリ走りなさい! と言うかアンタ何見てんのよっ!」
「白の桃源郷!」
「よしっ! 後で死刑!」
しまった! 疲れていたせいで思わず正直に答えてしまった……!
「間違えた! 青空だった!」
「そもそも上を見るなって言ってんのよ! ちゃんと前見て走りなさい!」
「いや、それは危ないだろ!」
「上を見ながら走る方が危ないでしょ!?」
「いやじつは俺、顎の下に目があるんだ!」
「じゃあ後で顎を蹴り上げる!」
それは結局死刑宣告だ。
彼女の蹴りの威力はハンパ無い。
「いや、顎の下に目があるんだから、お前の白のパンツは見て無いって!」
「色答えてる時点で見てるでしょっ!」
「またもやしまった! これが誘導尋問か……!」
「違うし! って言うかあんた、速度緩めすぎだから! さっきまで息切れるほど走ってたのに今普通に声張り上げてんじゃん!」
スカートを抑えながらのその反論に最もだと思い、今度こそ本当に、前を向いて全力で走り出す。
せっかく彼女が助けてくれているのに、自分のエロさだけでフイにしてしまっては顔が立たない。
バカのレッテル、貼られるぐらいなら、一時ぐらい抑えてみせよう、この衝動。
そうして全力で駆け、再び人ごみでごった返した街並みの中を見渡して男の姿を見つけようと――
「っ!」
――しようとして右を向いたところにちょうど、さっきの男が駆けて来た。
おそらくは、時たま後ろを振り返りながら俺の姿を確認しつつ走っていたのだろう。
飛び出してきた俺への反応が遅れ、かなり動揺していた。
だからまぁ、その急ブレーキをかけて再び来た道を戻ろうとした男の腹に――
「ていっ」
――と肘を打ち込むことぐらい造作が無い訳で……。
あっさりと跪かせ、その手に抱えていた女物のハンドバッグを取り返すことに成功した。
こうして、オフィス街で起きたちょっとした小さな事件は、幕を閉じた。
……う〜ん……どういう道の構造でどういう逃げ方をしようとしたのか……彼女――ミィの示した方向は、本当に完璧だった。