昼に近い、明るい陽が照らされた森の中。
切り開かれて出来た、町と街とを繋ぐ街道。
その、一際周りが開けている場所で、一台の荷馬車が停まっていた。
……いや、停めさせられていた、と言うべきか。
暴れることも忘れて萎縮している二頭の馬。その周辺には六人のイカツイ男共。
ヒゲを蓄えてイヤらしい笑みを浮かべている者、筋肉を見せびらかすように上半身が裸な者……など、それだけで、彼らが野党や山賊の類だとわかるには十分な容貌をした者たち。その者たちの手には、曲刀(シミター)や槍など様々な武器が握られている。それだけでもう、一般人に恐怖を感じさせるには十分なその姿。
そんな男共の中に一人、恐怖を刷り込まれ、馬の近くで腰を砕かしたように座ってしまっている一人の男性。
一般的な服装をした、少しぽっちゃりとした中年男性。
男共に囲まれてビビッている……のもあるが、それだけではない。座り込んだ男性の首元、そこに直剣の先端が突きつけられているのだ。
その、仲間が荷台の中を漁っている音を聞いてニヤニヤとしている男こそ、この集まりの首領。
「どうだ! 金目のもんはあったか!」
仲間でありながら部下でもある、荷台の中を漁っているもう二人の存在に声を張り上げる。
「こいつはスゲェぜボス! 厳選するなんて勿体ねぇ!」
「この荷馬車ごと奪った方が儲けちまう程だ!」
屋根の付いた荷台の中から顔を出し、馬の近くにいる首領へと心底嬉しそうに報告する。
「そうかそうか……それじゃ、馬車ごと奪っちまうか」
剣を突きつけている男は、先程よりもより一層気持ち悪い笑みを顔に張り付かせ、そんなことを言った。
「そ、それじゃあ約束が違います!」
その言葉に反論したのは、剣を突きつけられている中年男性。首元にある死も忘れ、必死に懇願を続ける。
「荷物の一部を、お、大人しく、渡したら……た、助けてくれるって、言ったじゃないですか! 馬車も取らないって言ったじゃないですかっ! それなのに――」
「黙れよ」
「っ……!」
男性の言葉を遮るように、冷えた男の言葉。
その表情にあった笑みは剥ぎ落とされ、殺意を瞳に宿らせて睨みつけられる。そして首元に突きつけた剣を、少しだけ突き出す。
それだけで男性は、再び押し黙る。
自らの首に少しだけ沈んだ死を思い出し、再び恐怖と絶望が表情へと現れる。
「自分の今の立場わかってそんなこと言ってんのか? ああっ?」
突きつけた刃をそのままに、ヘタリこんだままの男性へと顔を近付け、その恐怖に彩られた瞳に直接、その殺意の瞳をぶつける。
「お前が今こうして息してんのは、俺の気紛れなんだよ。何だったら、殺してやっても構わねぇんだぞ?」
何が面白かったのかはわからないが、男の仲間たちから大きな笑い声が発せられる。
そしてその、静かな森の中で響く下卑な笑い声に誘発されるかのように、睨みをきかせてきた男も顔を離しながら大きな笑い声。
「わかったら黙ってろや」
その、再びニヤニヤとした笑みを浮かべながら男は言う。
だが……男性とて、ただ黙っている訳ではない。
その心の中には沸々と湧き上がる怒りがある。
体の奥を掻き毟るような、身体の奥から爆発しそうな、明確な殺意がある。
自分の命は確かに惜しい。抵抗すれば殺されるという恐怖も確かにある。
でもこの馬車とて、自分の命と同じ――いや、もしかしたらそれ以上に、大切なものなのだ。
命あっての……とは言うが、この馬車は今までの自分の苦労、その全ての集大成といっても過言じゃない。
何も無いところから始まり、十年もの間街から街へと渡り歩き、ようやく手に入れたこの屋根つきの荷台。
そしてこの大きな荷台を運べる力強い二頭の馬。
何も無いところから始めたその時に比べれば多くなった詰め込める荷物の量、毛並みにも牧草にも疲労にも気を遣って共に旅をしてきた二頭の馬。
……荷台も馬も、両方とも、大切な存在だ。
それこそ本当に……自分の命以上に。
……だから今まで、大人しくしていたんだ……。
身体を打ち震わす恐怖に身を委ねていたんだ。湧き上がりそうになる怒りを抑えてきたんだ。
荷台の中に積んである、買い付けた商品。それらの一部――内心じゃあ全部持っていかれても良いとさえ思っていたソレらを渡すことで、この二つは助けてもらえるはずだったのだ。
それなのに……コイツらは……!
「よしっ! それじゃあさっさとズラかるぞ! 誰か馬車を運転しやがれ! それ以外のモンは荷台の中だ! 一度シマに帰ってから荷物を選んで、馬車を引っ連れて街に下りる! その後は馬車と選んだ荷物を売って、酒でも買って盛り上がろうぜ!」
そんな男の声が、何処か遠くに聞こえる。
そんな男の声に反応する周りからの雄叫びが、無機質な音に聞こえる。
それほどまでにこの男性は、怒りに震えていた。
首元に死が突きつけられているのも忘れ、身体が男に飛びかかろうとしている。
それほどまでに、抑えていたものは大きかったのだ。
……でも、堪える。
今飛びかかろうとも、首元にある死を少し突き出されれば終わり。
だから今は、ただ機会を窺うのみ。
「それじゃあな、せいぜい長生きしろよ」
剣の腹で肩をポンポンと叩きながら、男はそんな言葉を投げかける。
そしてその後には、笑い声。
荷台へと向かいながらの男達と、死を突きつけていた男の、聞いてるだけで苛立ちの募る、気持ちの悪い笑い声。
そんなものを、男性の状況には不釣合いな程明るい森の中で、響かせる。
そして男性へと死を突きつけていた男も荷台に向かうため、後ろを向く。
その瞬間――
「ぐおっ!」
――男性が、死を突きつけていた男へと飛び掛った。
油断し、露になった背中へと、立ち上がりざまの強烈なタックル。
前へとツンのめり、顔から倒れそうになる男。
足元へと注意が向き、まったく注意の向いていないその右手に握られている直剣を、男性は急ぐように奪う。
……心の中で湧き上がる怒りの中、身を任せようと決めていた覚悟の中、ずっと考えていた手順。だからこんなにもスムーズにことが運んだ。
後はそう……自らの武器を奪われたことで動揺している、この目の前の男に向かって、握りしめたこの死を、突き立てるのみ。
突き立て、首領を殺されたことで動揺するであろうこの男達から、馬車一式を奪い返すのみ。
「っ……!」
それなのに、男性の腕は動かない。
何度も脳内で繰り返した手順。何度も覚悟をした行動。
ツンのめり、今だ体勢の整っていない、この男の背後から、心臓へ向かって、死を突き立てる。
たったそれだけなのに、いざ目の前という段階で、腕が震え、まったく動かない。
まるで金縛りにでもあったかのような、まるで自分の腕じゃなくなったような、まるで、手が石になったかのような……それほどまでに、男性の腕は、動かない。
……男性は、今まで人を殺したことが無い。
だからこそ、腕が動かないのだ。
たとえその相手が、自分の大切なものを奪おうとした存在であろうとも……。
「何してくれてんだよ――」
だが、“〇(ゼロ)”と“一(イチ)”に明確な差があろうとも、“一(イチ)”とそれ以上には明確な差が生まれない。
生まれる差はあくまで微細。ほんの些細な違いしか生まれない。
だからこそ、武器を奪われた男は――
「――テメェはよぉっ!」
――何の躊躇も無く、忍ばせていた投擲用の短剣を抜き放ち、振り返り様男性へ向かって投擲する。
人を殺したことがある人と、殺したこの無い人の差は大きい。
だが、一度でも人を殺し、それから何人殺したかなんてものの差はない。
一人であろうとも十人であろうとも百人であろうとも、“人を殺した”という根幹は揺るがない。ただ、殺人犯か大量殺人犯かテロ首謀者の違いが残されるだけ。
「ぐっ……!」
男の手から投擲された剣は、男性の右肩に深々と刺さる。
その衝撃で、せっかく奪い取った直剣を落としてしまう。
そのことに気付き、急いで拾おうとするも、真正面から迫る男の影。
「がっ……!」
男は投擲してすぐ男性へと駆け出しており、その勢いもそのままに、相手の顔を全力で殴りつけた。
そしてそのまま勢いに乗せて身体を屈め、地に落ちた自らの直剣を拾い上げる。
そうして、殴られ、尻餅をついている男性の首元に再び、拾い上げた直剣で死を突きつける。
「せっかく生かしてやるって言ったのによぉ……それをフイにするなんてなぁ」
笑い声の響く森の中、ニタリとした浮かべたその笑みは、人を殺せる悦びからか、それとも愚者を見ている優越感か。
「…………」
醜い声が何かを言っている空間の中、無言で睨み返しているのは、自らが殺される恐怖を誤魔化すためか、それともイザとなったら人を殺せなかった愚かさを呪ってか。
「何だその生意気な目つきは……本当に殺すぞ?」
「…………」
笑みを消し、再び冷徹の仮面を被った男の言葉。殺意を宿らせた瞳で睨みつけてくる。
だがそれでも、男性は睨みを解かない。
……自分で考え得る最善の手を打った。
そしてそれが、見事破られた。
自らの技量を考慮に入れなかった自分のミスがあったとは言え、破られた事実は変わらない。
だからもう、打つ手は無い。
だからこそ、覚悟が出来た。
全力を出して負けた今、男性が出来る唯一の抵抗手段は、こうして死ぬことに恐怖しないことだけ。そんな醜い姿を晒しながら、死んでやらないことだけ。
だからこそこうして、肩に刺さった短剣の痛みを堪えながら、相手を睨み続けている。こんな痛みはどうとでもないかのように振舞っている。
そうして生まれた、怯えも何も無い瞳で、男を睨み続けている。
そんな男性の態度に、男は小さく舌打ち。
「命乞いぐらいした助けてやっても良かったんだがな……」
呟き、首元に突きつけていた直剣を振り上げる。
「それじゃあ、さっさと死ね」
そうして勢いよく、振り下ろされる。
首の付け根から横腹への袈裟斬り。斜めに二つ切り裂かれるその軌道。
男性はそれを、両目を閉じて闇を蓄え、見えもしないのに視線を逸らす。
そうすることで、逃れられない現実から、少しでも逃れようとする。
醜い姿を晒さぬように死ぬと言っても、怖いものは怖い。
……もう十分だと、男性は心の何処かで思っていた。
こうして死が確定するギリギリまで相手を睨みつけ、強がっていたのだ。肩の激しい痛みもそのままに、ずっと……。
だから、後はもう、この迫る死を享受するだけで良いだろうと、そう思っていた。
恐怖心の中、そんなことを……。
「…………?」
だがいくら待っても、自らへと訪れる衝撃がやってこない。
さっきまで聞こえていた笑い声も、聞いているだけで苛立つ醜い声の雑音も、何もかもが聞こえてこない。
恐怖心がピークに達したせいで耳が聞こえなくなったのか……?
それとも、すでに死んでしまって、感覚が無くなったのか……?
確かに両目を閉じた時は、恐怖を避けることに必死で何も聞こえてこなかった。
でも今は、違う。
耳を澄ませばちゃんと、風が吹き、葉の揺れるサラサラとしたキレイな音を、この耳はちゃんと届けてくれている。それはつまり、周囲の声が止んだという、その事実を証明していることに他ならない。
とそこで、ドサリ、と音が聞こえた。
暗闇に染まる視界の中、何かが高いところから落ちたような音。自らの顔に何か液体がかかったような感触。
「なっ……!」
恐る恐る、闇を払拭して見てみる。
するとそこには、先程まで自分を脅していた男が存在していなかった。
だがその代わり、しゃがみ込むようにして存在している者がいた。
血で染まった、灰色のフード付きの外套。ソレに身を包まれた一人の人間が、右手に血の付いた刃を携えて存在していた。