日頃の彼女からは想像できない程の声量。その声は周にぃのみならず、男の注目も浴びることになった。……否、浴びることが出来た。
敵はここにいるぞと、教える意味での声。こうすることで、男の注意を自分に向けることが出来るから。
そうして注意を向けさせられた男の視界に映ったのは、薙刀を構え突撃してくる、小袖に紅袴という巫女装束に身を包まれた、長い髪を一つに束ねている女性。
……敵だと、瞬時に理解した。
自分が殺そうとしたあの対象を助け、自分に殺気を向けてくるこの対象を、敵と言わずして何と呼ぶ。
だからその、自分の斜め前から突進してくる女性に対して、構えた。
冬子は自らの武器の間合いに入るや否や、上段からソレを振り下ろす。
男のナイフより遠い間合い。戦闘においては遥かに遠く感じる程の、離れた間合い。そこから放たれる攻撃を、男はナイフを横に構えて受け止める。
ギンッ! という金属同士の自己主張音。
ここから力比べか……? それとも次の斬撃が……?
そう考える男の予測は、双方とも見事外れる。
冬子は柄の中頃を握っていた右手を離し、一歩踏み込み、柄の尾を握っている左手を高々と上げた。男のナイフを支点に薙刀の刃が下がり、男の背中に触れる。
……それだけ。それだけなのだが、男は悪霊。尚且つ薙刀は清められし存在。
故に……それだけなのだが、ダメージを与えるには十分すぎる要素。
「がぁ!」
苦痛の声を上げ、男は転がるように冬子から離れる。
大したダメージは無いはずだが、まさかダメージを与えられると思っていなかった彼には効果絶対だった。
最初にいた路地の向かいの路地、その付近まで逃げる。
今はそれで十分とばかりに、冬子の狙いは次の対象に。
……彩陽。操られている彼女は、男が痛みで転がるまでただ立ち尽くしているだけだった。おそらく冬子の次の行動によって指示を出すつもりだったのだろう。
その、虚ろな瞳をして立っているだけの彼女に、冬子は薙刀の持ち方をそのままに、間合いを詰め、踏み込んで突きを繰り出す。
薙刀最大間合いの突きを。
だが彩陽はその攻撃を横に跳ぶことで避ける。
男が指示を出しているからだろう。転げている割に大した奴だ。
そうして隙だらけに見える冬子に反撃しようと、彩陽が冬子に迫る。
だが次の瞬間、彩陽の体は真横に吹き飛んだ。周にぃとの距離を開けるように。
冬子が薙刀を、突きから横凪ぎに派生させたのだ。間合いを詰めてきていたため、刃ではなく柄が当たってはいたが、遠心力が盛大に加わったその攻撃は、少女の体を吹き飛ばすには十分な威力があった。
もっともその行動は冬子にも無理があったのか、振るった後には薙刀を手から零していた。……無理も無い。ただでさえ相当な重量があるのに、柄の先端を片手で持ち、全長二メートルはある武器を振るったのだ。腰の回転で振るったとは言え、ぶつけた瞬間のその握っていた手に伝わる衝撃は半端じゃない。だからこそいつも両手で振るっているとも言える。
「無事? 周二」
薙刀を拾い上げ、壁に叩きつけられたままの周にぃを解放するために、服に突き刺さった二本の短剣を回収する。
「大丈夫、無事だ。ありがとう」
壁にぶつけた頬をさすりながら答える周にぃ。その様を見た冬子は、心配そうな雰囲気を醸し出す。
「ごめん。咄嗟だったから、短剣を投げるしか助ける方法が思いつかなかった」
最もその表情はいつも通りの無表情で無感情。声もいつも通り平坦で淡々としてはいたが。
「ああ、いいよいいよ。死ぬよりは全然マシだから。それよりも冬子、どうしてここに?」
先程雄叫びを上げたのが幻聴な気さえする冬子の言葉に、周にぃはそんな疑問を返す。
「たぶん、あなたと一緒」
「俺と一緒? ってことは、冬子も伊沢彩陽の家に?」
「そう。彩陽に容疑がかけられた話を聞いた時から、周二と別れた後立ち寄る予定だった。手掛かりがあると思って。でも、手掛かりは無かった」
「ってことは、とっくに家に行ったのか?」
「ええ」
「……ん? 手掛かり“は”ってのは、どういうことだ?」
「……彩陽を見張っていた警察の死体が四つあった」
「ああ、それは僕だよ」
遠くから生意気な子供っぽい口調の声。あの男が立ち上がりながら発した声。その声はなおも、言葉(ことのは)を紡ぎ続ける。
「その人を連れ出すために邪魔だったんでね。殺させてもらったよ」
その声に呼応するかのように彩陽も、相変わらずの瞳でのっそりと立ち上がる。
「……彩陽は、操られている」
その姿を見た冬子は、自分で確認するかのように呟く。
「……あの男は……何?」
「何って……本人は“殺人鬼”と名乗ってるけど」
「殺人鬼……なるほど。それなら納得できる」
何に納得できるのか、冬子の呟きに答えを出してやった周にぃにはわからない。何故ならソレは、冬子など除霊師にしか見えないものだから。
冬子など除霊者は、霊体の存在を色彩と濃度で見ることが出来る。
冬子の場合、青に近い程霊体としての輝きがあり、黒に近い程悪霊としての淀みがある。後はその濃度により、どれだけ霊体を吸収してきたのかを知ることが出来る。
例えば美喜。最初学校の桜の大樹で出会った時は、青が微細量混じった薄い黒色をしていた。濃度はゼロ。それはつまり、悪霊に限りなく近い霊体ということ。だから悪霊になると思い、除霊を試みようとした。
だが今――周に取り憑いた今は、目を瞑ってしまうほどの眩しい青色をしている。それはつまり、完全に霊体として存在しているということ。だから除霊を試みようとしなくなった。
……そして肝心の、あの男の存在の色。
まず目に付くのは黒。深淵を写し込んだかのような黒。
次に濃さ。闇を吸収したような……いや、闇そのものと言っても差し支えない程の濃さ。
今の美喜が、陽を反射する程真っ青に透き通る海だとすれば、この男は深淵の闇に支配された地獄、ソレが凝縮されたような色をしている。
それほどの濃度の黒さを見たことがないから、今まで見てきた悪霊にはいなかったから、冬子が戸惑った。
だが……あの殺人鬼なら、納得はできた。
既に殺された人数は二桁を超えているから。それほど吸収してきたなら納得できる濃度だったから。
にしてもまさか……どれだけ吸収してきたのか分からないほどの……濃度を見ることになるなんて……。
その濃さは、冬子に動揺を与えるには十分だった。
理由は簡単。
濃度が高ければ高い程、単純な力が増幅するから。それは、悪霊に憑依された素体の運動能力増加とはまた別の、悪霊自体の力の増幅。
だからこんなにも冬子は、動揺する。
深く、闇よりも深い、どれだけ吸収してきたのか分からない程の濃度が、眼前(そこ)にはあるから。
こんなの、私たちじゃあ勝てない……何とかして逃げる方法を……でもそれだと、彩陽を見捨てることに……それだけはイヤ……それじゃあどうすれば? 彩陽の操りだけを解除すれば良い? でもそれには時間がかかる。その隙をあの男が逃すわけが……でもだからって、私が勝てないと思っている相手と周二を戦わせるのは……。
「冬子、彩陽を頼む」
男の濃度に驚愕し、恐怖し、どうするべきか悩んでいる冬子にそう言葉をかけ、周にぃは男の方に向けて一歩、前へ出る。
「周二、どうするつもり?」
「あの男の相手に決まってんだろ」
歩いていく周にぃの背中にかけた言葉は、そんな当たり前の返事が素っ気無く返されただけだった。
その返事を聞いて冬子は動揺する。激しい不安に駆られる。
だって相手は、とんでもない人数の人間を殺してきた悪霊で、憑依されているあの男の力も無理矢理上げられていて、悪霊としての強度も高くて、清められた武器を持っていない彼ではその悪霊を殺すことも出来なくて、勝てる見込みがまったくなくて……。
「なぁにまかせろ。俺が気絶させてきてやる。その後はその薙刀で滅多刺ししてやりゃ良い。だから俺があの男を倒すまでに、彩陽を傷つけないように無力化しといてくれ」
言葉が暴れ回っていた冬子の心に、落ち着くように沁み込む周にぃの言葉。
それは、何も知らないからこそ発せられる、無謀な言葉。
それは、何も分からないからこそ発せられる、愚かな言葉。
でも何故か、無謀で愚かと知りながら、その言葉は信じるに値する力があった。
「……わかった」
だから冬子は、何も言わない。あの男の強さをあえて言わない。
だってあの男がどれほど強くても、彼に勝てる訳ないと、そう思えたから。
思えたからこそ、教えても無駄だと、わかったから。
だから冬子は、力強い返事しか返さなかった。こちらは任せて欲しいと、こちらは大丈夫だと、相手に伝えたかったから。
そうして伝え、構える。
どうして先程の言葉を信じてしまったのか、その真意はとりあえず、心の片隅に置いて。
ゆっくりと立ち上がった彩陽に、冬子は薙刀を構えて対峙する。
そんな冬子の心情は、相変わらずの無表情とは裏腹に、穏やかではなかった。嵐のように荒ぶれている。そしてその自分の心に、自分のことながら僅かばかり動揺している。
謎の荒れと僅かな動揺心。
今の冬子はソレに支配されていた。
だがそんなこと、操られている彩陽の知ったことではない。
虚無を見つめるような虚ろな瞳をそのままに、冬子に襲い掛かる。常人より速い……が、周にぃよりも遥かに遅い。
ギンッ! という音と共に、包丁から繰り出された攻撃は弾かれた。
だが続けざま、彩陽はあらゆる攻撃を繰り出してくる。
天からの斬撃、中心を狙った刺突、横一文字に凪がれる包丁。
だがそのありとあらゆる攻撃は、ことごとく届かない。
躱し、弾き、受け止める。
だがそれでも、彩陽の攻撃は止まらない。
おそらく、彼女を操っている男は気付いているから。
冬子も彩陽に攻撃出来ないと。
だからこんなにも、隙だらけで無謀な攻撃ばかりしてくるのだ。
そんな攻撃を全て、コトも何気に捌く冬子。
……男の誤算はおそらくここ。
確かに、操られている彩陽の運動能力は常人よりも上がっている。日頃の彩陽からはまったく想像出来ないほど速いし、力もある。だから反撃が出来ない冬子に、隙だらけだが力強い攻撃を続ければ押さえ込めると、そう思っているのだろう。
だが冬子は「戦闘者(バニッシャー)」だ。
常人よりも速くなり、常人よりも力が上がる憑依された素体を相手に戦う……時には、純粋な悪霊にも対抗するための存在。それが彼女だ。
故に、操ること程度での運動能力増加では、冬子を打倒することは不可能。
「戦闘者(バニッシャー)」という存在を知らなかった男の、誤算。
そんな金属同士の協奏曲の中、冬子は考えていた。
自らが奏者本人であるにも関わらず、観客席にいる一の客人の様な冷静さで、考えていた。
どうしてこんな、自分でも分からない気持ちになっているのかを。
だがその答えは、攻撃を捌いている内に、あっさりと導き出された。曲を奏でる内、彩陽の虚ろな瞳を見ている内に、ひょっこりと出てきた。
……簡単なことだった。ただ、自分を対等に扱ってくれた彩陽を侮辱されているのが、気に入らないただけだった。
そう……子供の頃以来だった。
あんなに普通に、話しかけてもらえたのは。
私、藍島冬子は、自分で言うのも何だけど特別な人間だった。
除霊術を学ばされるという意味でも確かに特別だったけど、それは“特別”ではなく“特殊”に分類される。私はあくまで、“特別”なんだ。
でもその特別性は、子供の頃はまったく気にならなかった。
生まれついての性分なのか、私は常の表情と声音が無だった。
それでも周りの皆は、私と遊んでくれた。そんなことが何なんだと、気にならないでいてくれた。……子供の頃は。
この特別性が仇となってきたのは、中学に上がった時。
自分達の小学校とは別の小学校、そこと一緒に勉学を共にするようになってからだ。
……最初は、どうということもなかった。私の周りにいた友人も、新しい人たちとどう接して良いかわかっていなかったから。
でも、そんなのは僅かばかりの期間だけ。互いに歩み寄っているのなら、いずれ触れ合うのは道理。
でも私はその性格から、誰とも仲良くなれなかった。
だからと言って悲観はしなかった。
言ってしまえば、こんなことは良くあること。要は、時間が掛かるか掛からないかだけ。
時間が経てば、仲良くなれる。
私から歩まず、向こうからの歩みしか待っていないから、時間がかかるだけ。……最初は私もそう思っていた。
ここにきて、私の特別性が仇となった。
私の“特別”とはいわゆる見た目。
子供の頃から他の女子より抜きん出た身長、その身長にピッタリの胸の膨らみ、一本一本が輝いているかのような錯覚をしてしまう長くて艶のある黒い髪、無表情に塗られた顔は大人びた雰囲気を醸し出し、自然と整っている眉は二重の瞼と共に双方とも一層栄えさせ、腕と脚の肌は弱いもののその代償としての色はまさしく雪原。
その“特別”と言える程までに昇華している見た目は、立ちどころに同姓との溝を作った。
歩み寄る程度では私に触れられない、飛び越えないと私には触れられない、大きな溝を。
子供の頃は、見た目のことなんてどうも思わない。だからこそ、仲良くなれた。
でも年を重ねてしまうと、その見た目は敵を作ることになってしまった。
女の人は、自分より遥か上の美人がいるとひがむもの。
それが悪いことだ何て思わない。自分に無い才能をひがむことを、悪意だなんて定義しないから。その才能に当たる部分が、私にとっては見た目だっただけの話。
ただ、それだけ。
それだけなのだが、気が付けば、小学校時代の友達もいなくなっていた。新しい友達との関係を、大切にしたいから。
そして何より、その新しい友人に言われ、私の特別性に気付き、同じようにひがみ始めたから。
可愛い、美人、なんて言葉を同姓に投げかける時、大抵女の人は思っている。
自分よりも劣っている相手の部分を。
……常に何処か勝てないと気がすまない。それが女性と言う生き物。
例えばソレは、自分勝手な性格だったり、化粧の甘さだったり、男を漁る手の早さだったり……何でも良い。ただ、自分よりも劣る部分を見つけたがる。
でも私には、その欠点が無い。
だからこそ仲間ハズレにし、自分達でその完璧超人の欠点を作ろうとする。自分を安心させるための欠点を、作り出す。
もちろん、そんな女性がいないのも事実。でもそういう女性は、既に自分と言う存在を確立している。だから、周りにあまり溶け込もうとしない。自分の周りさえ良ければ良いと、自分の存在を認めてくれれば良いと、そう思っている。
でも、そんなのは少数だ。中学時代はそんな人たちいないに等しい。
そもそもそんな女性は“特別”と称される私から離れようとする。こんな厄介者がいなくても、自分と言う存在を確立出来ているのだから。
だからこそ、欠点を作られた。
それほどまでの美しさ。
この、羨みを通り越して憎しみしか湧かない程の美しさを、“特別”と言わずして何と呼ぶ。……なんて言い方、まるで私がナルシストみたいね……。
……でも違う。勘違いしないで欲しい。これは本当に“特別”なこと。
だってこれは、呪いだから。
……同姓に嫌われる呪い、とでも言うのだろうか。
……曾御爺ちゃんが背負ってしまった業。私の次の代で終えるらしいが、お父さんの時は私よりも酷かったらしい。理由も無く同姓から嫌われていたのだから。まだ理由が定められているだけ、呪いが薄くなってきているのだろうとも言っていた。
そして理由があるから、自分でどうにか出来るだろうとも。
一番手っ取り早い方法は顔を潰すこと。最初はそう思っていた。
……二度、自分の顔を包丁で突き刺した。
一度目は刺し方が甘かったのか、顔には傷痕一つ残らなかった。
だから二回目は滅多刺しにした。
眼球を抉り出し、鼻をぺちゃんこに潰し、唇を裂くように切り裂いた。
激しい痛みに襲われながら、痛みに叫びながら、これだけすれば絶対顔が潰れるだろうと思って。それなのに……搬送された病院でも絶対傷痕が残ると言われたのに……元の顔に戻った。担当の先生が驚愕してたぐらい、キレイサッパリ元に戻った。だからこの方法は無理。
次に、私から皆と親しくなろうとすれば良い。呪いを打ち負かす程の関係を築けば良い。
でも……そう思った時、気付いた。
どうして私のことを陥れようとしている連中と、仲良くしないといけないのかと。
向こうが開けた溝を、どうして私が埋めないといけないのかと。
向こうが私のことを嫌いなら、それで良いんじゃないかと。
確かに、子供の頃の楽しかった思い出は取り戻したい。でも、そうして無理して取り戻して、それが本当にあの頃と一緒かと聞かれると、違う気がした。
埋め立てた大地(ばしょ)は、元の大地にはならない。
だからもう……このままで良いかとも思った。
私は、対等に扱われなくて良いかと。
だからより一層、無感情で無口調になっていった。……おそらくこの無感情無口調すらも、同姓と親しくなる機会を奪うための呪いだったのだろう。
でもこれはこれで、人を遠ざけるのに便利だった。
異性に声をかけられただけで物理的な攻撃が増えたあの時は、人を遠ざける必要があった。
自分が怪我をしないため。
相手が勝手に声をかけてきたのに、自分に被害が及ぶのは割りに合わなすぎたから。だから正直な話、この部分の呪いは助かっている時もある。
……そうして過ごしていくうち、皆、私から離れた。
無感情無口調な事、顔を自分で潰そうとした事、肌の弱さで夏でも長袖の服を着ている事、除霊術師として戦闘訓練をさせられている事、それら全てが合わさって、誰も私に関わろうとしなくなった。
顔は良いけど謎の行動が多すぎると、気味が悪すぎると、噂されるようになった。
そうして、今の私が出来た。
滅多に表情が変わらない。滅多に口調も変わらない。
そんな私が。
そんな私を彼女は、対等に扱ってくれた。
孤独と言う孤島に追いやられた私と、対等になろうとしてくれた。
ライバルという関係ではあるけれど……うれしかった。
中学のことが尾を引き、高校でも誰も話しかけてくれない私相手に、対等に勝負を申し込んできた。
私のことが全校生徒に知られてる、なんて自惚れは無い。でも噂程度なら耳にしていると思う。それなのに……。
……それだから、私はこんなにも、心の中が荒れているんだ。
孤独を孤独と感じない程、孤独な自分に慣れてしまっていた私の心を、いつの間にか解きほぐしてくれていた彼女。
そんな彼女が操られていることが、我慢ならないんだ。
だって対等になるために、私の周りにある溝を気にせず話しかけてくれている彼女を、溝の中に突き落とそうとしている。
私自身、自分から歩み寄らない性分だけど、溝ギリギリまで歩み寄ってくれている人を――対等に扱うために溝を挟んで話しかけている人を、見捨てるほど人間は腐ってない。
だからこんなにも、荒れている。
自分の心を知った冬子。
その中は既に決意だけ。
荒れた心への動揺心なぞ微塵も無く、荒れた心に従う決意のみが存在する。
「はぁっ!」
決意は力となり、冬子に刃を振るわせる。
協奏曲はもう終わり。ここからは、冬子一人の独奏時間。
そこに躊躇いは一切無く、そこにあるのは救いたいという想いのみ。
……男にはもう一つ、誤算があった。それは冬子の武器。
清められし武器は、人体になんら影響を与えない。元来、霊体存在を絶つためだけに存在する武器であるが故、斬られたと脳が認識することで“斬られた際の痛みの錯覚”は引き起こしてしまうが、所詮それだけの存在なのだ。
よって冬子は、彩陽を斬ることに躊躇しない。
今まで攻撃が出来なかったのは、自分の気持ちの整理をする時間が欲しかっただけに過ぎなかったのだ。
だから、隙だらけに振るわれている包丁、その握っている腕を斬ることなぞ造作ない。
「があぁ!」
彩陽の声で発せられる痛みの声。
腕を半ばから斬り落とされるよう、三日月のような軌道を描いて振るわれた刃。
それは返す刃で、彩陽のもう片方の肩を斬り落とした。
「ああぁ!」
だが実際は落ちていない。あくまで落ちた時と同じ痛みを錯覚しているだけ。
膝を立てるように倒れた彩陽に、追撃で背中から心臓目掛けて薙刀の刃を突き刺す。
「……っ!」
次に悲鳴が上がることはなかった。
ゆっくりと、まるでビデオのスロー映像のようにゆっくりと、彩陽は立てた膝を倒すように倒れた。
その光景を冬子は、ただ眺めるのみ。
操るための快楽感情が消えていくのを、いつもの表情でジッと眺めるのみ。
でもその心の中は、すでに晴れていた。
自分と対等な存在である彩陽を助けたから。その心は穏やかで晴れやか。
そんな中冬子は、ポツリと、風の音で消え去りそうな程の小さな声量で、呟いた。
「……ありがとう」
滅多に見せない、年相応の柔らかな笑みが、そこには浮かんでいた。
あとがき:
冬子の過去話ー
ホント、一読するとただのナルシストですなぁ……まぁ、仕方が無い
タイトルの「ジョリョク」は言わずもがな「助力」
これは冬子が助けに来てくれたのもありますが、彩陽が冬子をいつの間にか“助”けていた“力”、という意味合いの方が強いです
今回は前回みたいに、特に詳しく書くような内容は無いかな……
うん、たぶん大丈夫だろう、うん