今思えば、夏祭りの時に引いた凶は、今のこの出来事を暗に示していたのかもしれない。
いつもはすぐに帰る周が、珍しく教室に残っている。時刻は五時になる少し前。すでに教室に人は残っていない。
そりゃそうだ。殺人鬼の事件で、部活動に入っていないものは早々に帰るよう言われている。現に周も、教室を見回りに来る先生を、隠れることで何度もやり過ごしている。
そして今日、朝のホームルームで、ついに部活動に入っている者も、強制的に五時には帰らされることになった。今までは、下校時刻の六時まで大丈夫だったのに、一時間も早められた。その原因は、とうとうここの生徒が殺されてしまったため。殺人鬼の手によって。
一昨日の夏祭り、その帰り道で殺されたらしい。
狙われた人数は五。殺された人数は四。殺されなかった人数は一。
その最後の一人は、何とか殺人鬼から逃げることが出来たものの、その時の恐怖からか、部屋から一歩も出てこないらしい。警察の事情聴取も拒否。……まぁ、精神的なことを考えれば当然の配慮だろう。
ちなみに、この情報を教えてくれたのは冬子。さすが殺人鬼と呼ばれている悪霊を、警察と共に追っているだけの事はある。大した情報網だ。
教えてくれた理由は、周にぃと協力関係にあるから。まぁ、そこまでしてくれるならと、ちゃんと周にぃは表に出させたのだが……。
と、五時を告げるチャイムの音が鳴り響く。それを聞いていると、周の脳裏に、今日一日元気が無かった彩陽の様子が蘇ってくる。
教室では話しかけられないからなぁ……様子は聞けなかった。
にしても伊沢の友達共、調子が悪いのに気付かなかったのか……? 誰も心配そうに声をかけてなかったけど……。
「ん? どうしたの赤城君。下校時刻はとっくに過ぎてるわよ。早く帰りなさい」
どこか淋しげなチャイムの音。その余韻がなくなる頃、見計らったかのように担任の先生が教室の中へと入ってきた。
三十代前半なのに、まだ若々しい顔つきの、女の先生。部活動に入っていない周が、まだ帰っていないことを咎めるような、少しキツ目の言葉。
でも今は、そんなことを気にしている時ではない。
「先生、伊沢の荷物を取りに来たんですよね?」
五時間目の途中からいなくなった伊沢。教科書やノートなどは、彼女の友人が気を利かせて机の中に仕舞っていたが、カバンはいまだ机の横にかかったまま。
こんな時間まで周が教室に残っていた理由とはまさにコレ。
どんな理由であれ、彼女自身が学校に残ったままなのなら、荷物を取りに来ることは明白。もしそうでなくても、担任の先生が取りに来ることも明白。だからこうして、待っていた。
そして現れたのは、担任の先生。それはつまり、伊沢彩陽はもう、校内にはいないということ。もしくは、教室へと訪れることが出来ない状況。
でも……それがどうだって言うんだ。もし担任が来たら、その担任に事情を聞けば良い。
「伊沢、どうかしたんですか?」
その周の問いに、担任の先生は少しだけ困った表情になる。下校時刻を過ぎていることに怒り、うやむやにしてしまえば良いものを……最近の先生にしてはかなり真面目な人なのだろう。
「その……ちょっと、早退することになっちゃって……」
言葉を選びながらの返答。ソレを聞いた周は、このまま聞き続けても先生を困らせるだけだし何より答えてもくれないだろう、とわかり、気持ちを抑えて大人しく引き下がることにする。
「……わかりました。どうして早退することになったのか、訊いたら先生が困りますよね?」
「…………」
困った表情のまま、無言。その返事ですらが、してもいいのかどうかわからないのだろう。
「お見舞いに行くのは……ダメですか?」
「ダメじゃない……と思う。だって担任の私が、家に上がらせてもらえますから。でも今すぐって言うのは、その、担任としてはやめてほしいところです」
「そうですか……それじゃあ、折を見てお見舞いに行くことにします。今日は先生が、伊沢によろしくお伝えください」
「はい、わかりました。それではさようなら、赤城君」
「はい。お手数かけました、先生」
そのまま自分のカバンと美喜の手をとり、教室を出て行く。
下校時刻が過ぎているのに見逃してくれたのは、先生自身が見逃してもらった自覚が多少なりともあるからだろう。あのまましつこく質問を繰り返していたら、下校時刻超過に対する反省文を書かされるところだった。
……お見舞いに、とは言ったものの、伊沢が体調を崩して家に帰っていないのは明白。
校長先生に呼ばれて体調を崩すなど、あり得ないから。呼び出され、何かがあって、仕方なしに家に帰らされた。そう考えるのが妥当だろう。
でもあの場はああ言っておかないと……体調を崩したと思っているフリをしとかないと、先生にも立場ってもんがあるし、何よりくだらないことで時間を食っちまう。
そんなことを思いながら、校舎から出る前に上を見上げる。吹き抜けから見える自分の教室、先程までいた教室から、先生の頭が見える。荷物をまとめ、教室から出てきたのだろう。
(それで、どうするんだ周)
(どうするの、周お兄ちゃん?)
心の中と繋いだ手から、同時に声をかけられる。
一部始終を見ていて尚、周にどうするか、どうしたいのかを問うような口調。
その二つの声に、周は決意を込め、言葉を返す。
「先生が帰ったタイミングを見計らって、伊沢の家に行かせてもらう。そんで伊沢本人に、何があったのか教えてもらう」
周が今のアパートに引っ越す前――中学校を卒業する前まで、伊沢彩陽と赤城周二の家は隣同士だった。
学校の最寄り駅から四駅ほど電車に揺られ、十分も掛からない時間歩けば辿りつく、一軒家が立ち並ぶ高級住宅街。子供が真面目に作ったブロックおもちゃのように規則正しく並ぶ家を歩いていくこと五分、四軒の家が立ち並ぶことで一つの壁となっているその場所の一番端、伊沢彩陽の家へと辿りついた。そしてその隣こそ、周が住んでいた家。
家を出たのが三月初頭だから、そろそろ五ヵ月か……数字にしてみると短いもんだな……。
そんな、どうでも良いと自覚できることを考えながら、彩陽の家が見え、尚且つ向こうから見えずらい場所へと移動する。
あくまで先にあの家へと訪問するのは担任の先生だ。その後でないと、彩陽と話している時に先生が来てしまう。先生には、後日改めて、と言ったのだから、守っていないのが知られると、結局先生を困らせてしまう。
彩陽の家からだいぶ距離を開けた家の塀、そこに背を預け、彩陽の家を眺める。
これだけの距離があれば、先生が周を見ても、すぐには周と気付かないだろう。逃げ道も十分にあるので、万が一近付かれても大丈夫。
そう言えば伊沢の家って、三階建てだったっけ。三人兄妹の末っ子。一人の兄と一人の姉。
確か二人とも、すでに大学生になって家を出たって、この前話してたっけ。部屋が多い分、両親と三人で暮らすには心許ないって……。
彩陽が周にその話をした真相は、家を出ると言っていた周を自分の家に招き入れるためだったとは、当の周本人は気付いていないのだが……まぁ、あの時は周にぃですら気付けなかったので、彩陽の言い方が悪かったと言う見方もあるか……。
伊沢の家……温かった。仲の良い両親、気さくな兄、一緒に遊んでくれる姉、そんな話ばっかり聞いてたと思う。
そりゃ率直に仲が良いって話は聞けなかったけど……親の文句を言う伊沢、兄のいい加減さに呆れていた伊沢、姉が自分のものを勝手に使うと怒っていた伊沢、それら全てが、本当に嫌っている感じじゃなかった。仲が良いからこそ発生する愚痴、みたいなものだった。
だから……温かった……。
……今でも覚えてる。両親が喧嘩した時、あの気の強い兄妹三人が泣きまくっていたのを。喧嘩しないでくれと、仲良くしてくれと、離れ離れになりたくないと、必死になっていた姿を。
だからこそあの家には、温かさがある。
切れそうになった絆を、何度も何度も修復することで、頑丈な絆と成しているから。
……そんな、自分と全く逆の家庭環境。羨ましくないと思ったことは、一度も無かった。輝かしい・眩しいという自分の気持ちが変わったことは、毎秒計算してもなかった。
だからいつも、伊沢から家の話を聞くのが辛かった。
でも、嬉しそうに話す伊沢を見るのは好きだったから……聞かずにはいられなかった。
そんな昔の感情を思い出しながら、隣の自分の家を見る。
周がいる場所からでは屋根しか見えない。が、それだけで彼の脳内には、家にいた頃の思い出が蘇る。
家の構図と間取り。それぞれの家庭独特の匂いと雰囲気。自分の部屋の姿。柱にある特徴的な傷。冷蔵庫の音。蛇口をひねった時の水力。……そんなどうでも良いことも含めた、ありのままの家の姿が、全て蘇る。
しかしそれは、温かさに満ち溢れていながら、自分にだけ温かくしてくれない、あの冷たい家の環境までも、蘇らせることになった。
それはいまだ、周の心に植えつけられている、悲しい言葉の思い出。
両親はとても仲が良かった。僕が目の前にいるにも関わらず、平気でキスをするほどに。
子供心にわかってた。テレビで見てたし、伊沢にも聞いたことがあるから。その行為は、互いが互いのことを好きだという証なのだと。
でも僕は……その行為を、両親からしてもらったことが無い。……生まれて始めて唇をつつき合うのがファーストキスだと言うのなら、相手は必ず両親のどちらかになるものだと思う。
ソレ自体はノーカウントだと言うだろうが、厳密な意味でのファーストキスは、きっと両親だ。でも僕は、厳密な意味でも、ファーストキスの相手は両親じゃない。
……当時はわかってなかったけど、ある事件でわかったんだ。
僕は、両親に愛されていないと言うことを。
そもそもこの時の僕は、自分の家庭環境が普通だと思っていた。
家で遊んでいても母親に声をかけてもらった記憶は無いし、仕事から帰ってきた父親に「ただいま」と言われた記憶も無い。
愛されていないとわかった時に気付いたことだけど、僕は必要最小限の会話しか、両親としたことがなかったんだ。
でも、ソレで普通だと思っていた。でも、普通じゃないとわかった。
ある日僕は幼稚園で、伊沢と一緒に親の話しをしたことがある。
最初は伊沢の愚痴から。そして自慢話へ。
その話を聞いているうちに、気付いてしまった。僕は伊沢の家と違い、愛されていないんじゃないんだって。
最初は伊沢の家が異常だとは思った。でも、話を聞いているうちに、伊沢の家で行われていることをされたら、とっても嬉しいだろうなって思って……。子供の頃なんてそんなものだ。羨ましい、嬉しいと思う方こそ、正しいのだと思う。
でも、当時僕が望んていたことなんて、普通の家庭では当然のことだって、今なら分かる。
父親に、「おかえり」と声をかければ「ただいま」と返してもらい、たまの休日は一緒に遊んでもらう。母親に、晩御飯はカレーが良いと言えばカレーにしてもらい、「おいしい」と言えば「ありがとう」と返してもらう。
そんな当たり前のこと。
今ならわかる、そんな当たり前のことを……当時は、してもらえなかった。
「おかえり」と言っても無視をされ、たまの休みはお母さんと出かけるからとお留守番。カレーが言いといえば無視をされ、「おいしい」と言えば舌打ちをされる。
そんな家だったから。
そして、普通じゃないと気付いて……僕は愛されていないということに気付いて、留守番を命じられたその日、家を出た。
自分のリュックサックなんてなかったから、父親の、ちょっと小さめのリュックを手に取り、買い置きのお菓子を詰め込み、家を出た。
行くアテなんて当然無い。ただ無目的のまま、歩き続けた。
「一人になって歩いていると、とても悲しくなって、何でか涙が出ちゃうの」
昔、喧嘩をして家を飛び出した伊沢を、僕達家族も手伝って探して、僕が見つけた時の帰り道。繋いだ手のぬくもりの中、彼女はそんなことを、泣きながら言っていた。いつも勝気なイメージしかなかった僕は、その泣き顔にとても衝撃を受けていたことを記憶している。
でも……家を出た僕は、何故か伊沢の言う通りにはならなかった。……当然か。だってその時の僕は、伊沢のように、後悔する思い出なんてなかったのだから。
飛び出して、これからずっと家に帰れないのではという、子供心な不安に襲われても、帰った場所に後悔する程の温かな状況なんて無いって、わかってたんだから。思い出が無いから。
……今思えば、ソレは悲しいことなのかもしれない。でも子供心じゃあそんなこと、わからない。
だから、泣かなかった。
それはたとえ、周囲が闇夜に染まろうとも。
歩き続けていた足を休ませるため、見たことも入ったことも無い公園のブランコに腰掛けて、空を眺めていた。
いつもは空が朱く(あかく)なったら帰っていたから、こんな時間になっても外にいる状況が、とっても珍しく感じていた。
不安なんて微塵もなく、あるのは、始めて体験した夜の神秘性に驚く心と、満月がとてもキレイだと感じる心。
そんな、金色(こんじき)に染まる月を眺めていると、声をかけられたんだ。見回りに来た警察の人に。
どんなことを答えたのか、明確には覚えていない。ただ、バカ正直に答えていたような気はする。それと、警察の人に声をかけられたのは初めてだったから、緊張していたことも覚えている。
全てを話し終えた後は、警察の人に保護された。
それから三十分ぐらいだろうか……両親が車に乗って、慌てて迎えに来てくれた。
迎えに来た両親は、僕の姿を見るなり、怒り出す……かと思っていたのに、突然泣き出した。
母親は大きな声で、父親は堪えるように。警察の話を聞きながら、両親は泣いてくれていた。
わんわんと、人目もはばからず、大きな声で泣いてくれていた。
その事実を目の前で見た僕は、ようやく、両親に愛されていると言うことに気がついて……僕も一緒に泣き出した。同じように、人目もはばからず、わんわんと大きな声で。
そして、謝った。
ごめんなさいごめんなさいと、何度も何度も。涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、一心不乱に。ソレは、心配をかけてごめんなさいと、愛されていないと疑ってごめんなさいと、色々なことを含めての謝罪。
本当の本当に、申し訳なくて、同時に愛されている事実に嬉しくて、嬉しい心と共に泣きながら謝った。大きな声で。
保護されていた交番に、鳴り響くほど大きな声で。
しばらくして僕は、車に乗せられた。
両親はずっと、警察の人にお礼を言っていた。見つけてくれてありがとうと、頭を下げてお礼を言ってくれていた。
後部座席に座り、その姿を眺めていたら、また涙が出てきた。歩いている時は一滴も流れなかった涙が、今は盛大に溢れ出た。
それは当然、悲しみなんかじゃなくて、喜びで。とっても嬉しくて。
自分を心配してくれたという事実が嬉しくて。自分の考えが間違えているという真実に、嬉しくて。
そして両親が車に乗り込み、出発した。謝ろうと、お礼を言おうと、ある意味相反する二つの気持ちが交錯していた僕の心。
そんな僕の心を、涙を、止めるかのように、助手席に座っていた母親が、言葉を発した。
ソレはいまだ、僕の心の中に植えつけられたままの言葉。
「まったく……これだから子供ってイヤなのよね」
あとがき:
彩陽の家の前まで行く話ー
それと周の過去が少しだけ語られる話ー
ちなみに、この過去話の段階じゃあ、周にぃはまだ中にいません
出てくるのはこっから先なんで、その辺の話はしばしお待ちを