午前十時。この時期にしては比較的涼しい方だが、それでも暑いことに変わりは無い休日。太陽さんは今日も元気に、自分の存在をアピールしている所存です。

 六畳一間、ボロい外観に反してトイレ・お風呂・キッチン完備のこの狭い部屋では、窓を閉め切っていたら蒸し風呂が一丁上がってしまう程の暑さ。

 その中でようやく周は目を覚ます。平日よりも遥かに遅い時間。

 

 ……身体が重い。周にぃったら、一体どれぐらいの運動したら、こんなに身体に疲れを溜めさせる事が出来るんだ……。

 

 心の中で軽い愚痴を零しながら、疲れている身体に鞭打って上体を起こす。

 でも、そこまでで限界だった。

 膝を折って立ち上がろうにも、膝の言うことが聞かない。自分の物じゃない感覚とまでは言わないが、膝の上に重りを乗せられているかのように自由が利かない。

 ……まぁ、それも仕方の無いことだろう。周が一度、いつも通りの時間に起床した時でさえ、周にぃはまだ外にいた。家に帰っている途中だったのだろうが、それから家に着いた時刻は午前八時。身体の休息時間は実質二時間しか取られていない。

 

 ……仕方が無い。寝直すか。たぶん周にぃも、この調子だと起きるのはだいぶ遅くなりそうだし。

(あ、周お兄ちゃん、おはよう)

 一人結論を出し、寝直そうとした矢先に自分を呼ぶ声。身体の疲れで軽く忘却していたが、今はこの家に美喜ちゃんという同居人がいる。

 

「うん、おはよう、美喜ちゃん」
(ちょっと待っててね。すぐに用意するから)

 寝直すから今は遊んであげられないことを謝ろうとしたらそんな言葉をかけられた。

 用意? と、首をかしげながら、呑み込んだ言葉を吐き出す事もなく、その用意とやらが整うのを大人しく待つ周。

 台所に向かい、手にお皿を二つほど持って帰ってくる美喜。ちゃぶ台に置かれたソレは、目玉焼きと軽く焼かれたソーセージ、キャベツとトマトとキュウリで作られた簡単なサラダだった。

「えっと……これは一体?」

 再び台所へ向かった美喜に、目の前のソレがどうして存在しているのか理解できないのか、思わず指差しながら訊ねていた。その周の疑問に美喜は、当たり前じゃない、とばかりに答える。

(朝ご飯だよ)
「朝ご飯って……誰が作った?」
(えへへ〜……わたしが作ったんだ)
「えっ?! ウソっ?!」
(もうっ! ウソじゃないよっ。これでもお母さんのお手伝いしてたんだから、これぐらいなら出来るよ)

 こんがりと焼かれたトーストを乗せた皿と空のマグカップ、買い置きの牛乳パックもちゃぶ台の上に置き、布団と向かい合うようにちゃぶ台を挟んで座る美喜。

「ああ、えっと、ゴメン」

 思わず素の反応を返し、機嫌を損ねてしまったことを詫びる周。

 ま、その気持ちも分からないでもない。まさか七歳の女の子が、火と包丁を使った料理が出来るだなんて思わない。しかもこれ、一昨日の買い物の時に買っておいた、余り物の材料で作ってくれているのだから驚き。

「それにしても、どうして朝ご飯を作ってくれたの?」

 すでに物体に触れられるようになったのは、昨日の遊園地でわかっていること。でもまさか朝食まで……周が気になるのは当然だろう。

(今日の朝ね、周お兄ちゃんが帰って来た時に言ってたの。たぶん朝ご飯が作れない程疲れるだろうから、簡単で良いから作ってくれ、って。何も無いところに向かって言ってたけど、もしかしてアレが、一昨日話してくれた周にぃさん?)
「ああ……うん、たぶんね。僕は今日、この部屋で目が覚めたのは初めてだから」

 周自身、そんなことを言った記憶は無いので、たぶんそうなのだろう。

 それにしても……朝食を作れないだろうと予測できるなら、自分で作ってから寝ればいいものを……。彼自身が料理を出来ないとはいえ、七歳児にやらせるのもどうだろう……。

「それじゃあ、さっそく食べようかな」

 疲れて朝食が作れない。その言葉を聞いて朝食を作っただけでなく、布団のすぐ隣にちゃぶ台を移動させ、布団の上からでも食事が採れるようにしている小さな気配り。美喜は間違いなく、生きていたら立派なお嫁さんになっただろう。周もそれは知っているが……当然口には出さない。

 と、ちゃぶ台の上をいくら見渡しても、食べるために必要な箸やフォークが無い。

「ごめん、美喜ちゃん。箸かフォーク、持ってきてもらっても良い?」

 申し訳なさそうに言う周に、美喜は(ふっふっふ……)と不敵な笑みを漏らす。もっとも、七歳の女の子がそんな笑い方をしても、ただ可愛らしいだけなのだが。

「どうしたの、美喜ちゃん?」

 そんな美喜の様子に疑問を感じ、訊ねる。すると美喜は、周のその言葉を待ってました、とばかりに勢い良く立ち上がり、髪をふぁさっとかき上げ、両手を胸の前で組んで、威張るような表情を作る。……まぁ、彼女がそんなことをしても、やっぱり可愛らしいだけなのだが。

(じつはね……周お兄ちゃん、わたし、新しいことが出来るようになったのっ!)

 バーーーーーン!! という効果音がバックに書かれていそうな程の勢い。そんな元気な美喜に反し、周はいつも通り。

「新しいこと? この朝食も、僕から見たら十分新しいけど……」
(チッチッチ……甘い、甘いよ! 周お兄ちゃん!)

 人差し指を立て、左右にフリフリと振りながらの言葉。……まぁ、同姓でも抱きしめたくなる程の相変わらずな可愛らしさしか見当たらない動作な訳ですが……。

(そんなの、初孫のわたしが生まれて来た時のおじいちゃんの反応ぐらい甘いっ!)
「その状況をもし覚えているとしたら、美喜ちゃんの記憶力は相当だと僕は思うけど……とりあえず……えぇっ! な、なんだってっ?!」

 美喜の言葉にいつも通りの反応を一通り返した後、とりあえず乗ってあげることにしたらしい周のワザとらしい言葉。まぁ、新しく出来たこととか、覚えたてのこととか、そういうのを自慢したくなる子供心を無闇に踏みにじることも無いだろうしな。にしても……本当にワザとらしい驚き方。周の演技の才能はゼロと見て間違いない。

(ふっふっふ……今のこのわたしの実力は、すでに宇宙を破壊するほど!)
「そ、そんな……! そ、それは……一体……!」

 ……ま、当人達は満足してるから良いか。

(そこで指を咥えて見ていれば良い!)

 そう言うや否や、台所を見つめだす美喜。……と、流しに立て掛けたままのフォークが独りでに宙に浮く。誰も手に持っていない。文字通り、重力を無視して宙に浮いている。

 そしてゆっくりと、こちらへと進んでくる。それはまるで、風船が流されてこちらに向かってきているほどの、ゆるやかな速度。

 その間美喜は集中しているようで、一言も喋らない。むしろ“話しかけるな”オーラを発している。

 そうしてゆっくり、ゆっくりと宙に浮きながら進んでいたフォークが、ようやく周の前に置かれる。フォークに視線を合わせていた美喜も、自然周と向き合う形になる。

「スゴイ……! スゴイよ! 美喜ちゃん!」
(えへへ〜……結構頑張ったかな)

 素に驚いている周の賛辞に、額に大粒の汗を浮かばせ、照れながら答える美喜。疲れきっているのか、さっきのような演技口調でも無い。……この場合、歩いて取りに行った方が早かったことはツッコまない方が良いんだろうな……。

「なんでこんなことが出来るようになったの?」
(うんとね、目玉焼き作ってる時にフライ返し手に持つの忘れてて、でも火から目を離しちゃいけないってお母さんに言われてて、だからここまで飛んできてくれないかなぁ、って思ったら、出来ちゃった!)
「へぇ……スゴイねぇ。美喜ちゃんは」

 手を伸ばして頭を撫でてやりたいところだが、今は膝を立てることですら辛いらしい。まぁそれでも、その周の言葉だけで美喜は満足してくれたようだが。

 

 それにしても……ポルターガイスト現象を、初歩の物体移動だけとは言え難なくこなすとは……冬子が知ったらビックリするだろう。

 この現象は、霊体になってから相当集中力をつけて、ようやく出来るようになるもの。それをこうも容易く……子供の集中力と言うか、純粋さと言うか、本当に恐ろしい。

 このままメキメキと力をつければ、音の発生・発光・発火なども、すぐに使えるようになるだろう。……と言うかそもそも、そんなことが可能になるまで霊体のままでいる霊体も数は少ないのだが……。

(後ね、後ね、もう一つ出来るようになったことがあるんだ)

 美喜はうれしそうに言うや否や、ジャンプする。そして着地……しなかった。宙にフワフワと浮いたまま。これまた重力の法則を無視した行為。

「おぉ! スゴイスゴイ! ……あ、そっか。どうやってあの高い台所で料理したのかと思ってたら……」
(うん。こうやって浮いて料理したんだ)

 周の言葉にニッコリと微笑み、地面に足を着け、再び同じ場所に腰を落ち着ける美喜。

 

 子供が料理するには高いし、この家には子供用の踏み台も無いのに、どうやって料理したのか気になったけど……そうだったのか。霊体だから火傷の心配も無いし、指を切ったりもしてないだろう。

 

 とりあえず、美喜が料理をするのに心配することが無いと知った周は、少しだけ安心した。

「そっか。そこまでして作ってくれたんだ。本当にありがとう、美喜ちゃん。それじゃあ今度こそ、いただきます」

 運ばれてきたフォークを手に取り、手を合わせて軽く目をつぶり、軽くお辞儀をする周。そんな彼に美喜は、照れたようなうれしそうな表情をしながら「召し上がれ」と返す。さて……と、彼は考える。

 

 トーストや目玉焼き、焼かれたシーセージが微妙に冷めているのは、結構前から用意してくれてたってこと。いつ起きても大丈夫なように、早めに準備していてくれた。……なんだか、うれしいな……こういうの。

 冷めたらおいしくないかもしれないけど、なんだか、電子レンジで温め直した方がもっとおいしくなくなる気がする。妄言なのは知ってるけど、なんだが温め直したら、せっかく作ってくれた美喜ちゃんの真心が、どっかにいっちゃう気がする。

 ……なんでだろ。でも、そう思うんなら、このままの温かさで……真心がこもったままで、頂こう。

 

 微妙な嬉しさを噛み締めながら、まずは目玉焼きの白身を一口サイズに切って、フォークで突き刺して口へと運ぶ……。……ジャリ。

「うん。殻が入ってるね」
(えっ?!)

 指摘したのにそのまま気にせず飲み下し、次にソーセージへと手を伸ばす……。……ムニ。

「うん。焼き加減が足りないのかな。ちょっと冷蔵庫の冷たさが残ったままだね」
(あ〜……ごめんなさい)

 そのままトーストへと手を伸ばし、頬張る……。……モソ。

「焼いてからの時間が経ちすぎたのかな。耳が固い」
(…………)

 最後に、千切られたキャベツと、一つ一つの形が微妙に違うキュウリと、四分の一ずつに切られたトマトを乗せたサラダを口に運ぶ……。……シャリ。

「野菜の味しかしない。ドレッシングとか、そういう味付けをしてないね」
(……へぅ〜)

 全てのミスを指摘され、うな垂れて落ち込む美喜。そんな美喜に周は「でも……」と言葉を続ける。

「とってもおいしい。作ってくれてありがとう」
(おいしいって……そんなのウソだよ。アレだけ言っといて)
「調理上のミスと味は違うよ。だってこの料理には、美喜ちゃんの愛情を感じる。それがそのまま、この料理全部をおいしくしてくれてる。だから、おいしい」

 その周の言葉に、落ち込み、俯いていた顔を、美喜はうれしさの余り反射的に上げる。

(……え?)

 でも口から出た言葉は、喜びの言葉ではなく、驚きの声。

「どうしたの? 美喜ちゃん」
(……どうしたの? 周お兄ちゃん)

 訝しげに思い訊ねてみると、同じ言葉をそのまま返された。だから周は、自分の状況を先に伝えた。

「ん? 何が? 僕はどうもしないよ」

 顔を上げた美喜の目の前。愛している、大切な、兄の様な存在に切り替えた周の頬に――

(それじゃあ……どうして、泣いているの?)

 ―― 一筋の、涙。

「え?」

 美喜の言葉を聞いた周は、フォークを持っていない左手で、自分の両頬へと交互に触れる。確かに右頬が微かに湿っており、指先には冷たい感触まである。その冷たい感触がした部分を、目の前まで持ってきて見る。

 水一滴分ほど、濡れていた。

「あれ? どうしてだろ」

 自覚してから、次々と両目から流れ出てくる涙。

 ソレを手で拭いながらの言葉は、自分が涙を流している理由が分からないのか、それとも、誤魔化しのための言葉か……。

(そんなにおいしくなかったんなら、無理に食べなくても――)
「違う!」

 下げられそうになった食器。思わず大きな声を出してまで止めてしまう。

「あっ……その、大きな声を出して、ゴメン……」

 思わず出してしまった大きな声で驚かせてしまったことを謝る周。美喜は悪くないということを説明しようと、そのまま言葉を続ける。

「その、さ……じつは僕、僕のためだけに作ってくれた、他の人の手料理を食べるの、初めてなんだ。だから、その……うれしくて」
(他の人の……手料理?)

 

 それだけで泣くほど感動するものだろうか?

 

 そう考えた美喜は、瞬間、もしかしてと思い至る。至り、口から言葉にして問う。

(周お兄ちゃん……お母さんに作ってもらったこと、ないの?)

 夏祭りの時にも感じた疑問。もしかしたら周お兄ちゃんは、何らかの事情で、お父さんとお母さんに愛されなかったんじゃないのかという、疑問。

「うん、じつは、そうなんだ。母親はいつも、僕のために、料理はしてくれなかった。僕のはあくまで、父親のついでだったんだ」
(ついで……)

 嗚咽を我慢しながらの、涙を流すのを我慢しながらの、途切れ途切れの周の言葉。

 その言葉を聞いた美喜は、呆然と呟くことしか出来なかった。何の言葉もかけることが出来なかった。

 だって今の言葉は、両親が健在しているのに、愛してもらえなかったという、事実そのものだったから。

「だからね……こうして僕のために料理を作ってくれたのが、たぶん、とってもうれしかったんだ。……ううん、とってもうれしい。だからさ、お願い。お皿を、下げないで」

 そう言うと周は、止めていたフォークの動きを再開する。所々の失敗が目立つ、正直美味しく無いであろう料理。ソレをおいしそうに食べ始める。幸せも一緒に噛み締めながら。

 その姿を美喜は、ただ黙って見ていることしか出来なかった。自分の料理を喜んで食べてくれるうれしさ、周が育ってきた環境の悲しさ、その双方を噛み締めながら。

 

 

 

「ごちそうさま。おいしかったよ、美喜ちゃん」

 フォークをお皿の上に置き、コップの中に牛乳を注ぎながらの周の言葉。すでに涙の後も消え、さっきの出来事は夢だったのではと錯覚してしまう程の、いつも通りの笑顔を浮かべながらの言葉。

 ソレを聞いた美喜は、決心する。

(お兄ちゃん、お願いがあるの)
「ん?」
(わたしに、料理を教えて)

 自分の料理を食べてくれている、周の姿を見ながら考えていたこと。あの失敗した料理をおいしそうに食べてくれている、周の姿を見ながら思いついたこと。

 

 おいしく作れるようになって、周お兄ちゃんに食べてもらう。そして心の底から、喜んでもらう。

 ……わたしは、お母さんとお父さん、二人にいっぱいの愛情をもらった。だから今も、楽しい人生を歩めたことに感謝している。お母さんとお父さんのおかげで、わたしは生まれて来れて良かったって思えてるよ、って、胸を張って言える。

 ……だから、わたしの言葉は周お兄ちゃんに届かない。幸せな人が不幸な人を励ますほど無意味なことは無い、ってマンガで言ってたし。

 ……だから、そんなわたしが周お兄ちゃんのためにしてやれることは、これしかない。

 だってわたしは、周お兄ちゃんのその悲しみを、柔らげてあげたいんだもの。赤の他人の失敗料理を、涙を流しながらおいしいと食べてしまう程悲しんでいる周お兄ちゃんを、助けてあげたい。

 だってそれが、わたしを助けてくれた、周お兄ちゃんへの、数少ない恩返しになるだろうから。

 

 そう思えたのは、美喜が両親の愛情を受けて育ったからだろうか。それとも純粋に、周のことが好きなだけだからだろうか。

(もう今日みたいな失敗をしたくないからさ。お願い)

 本心を隠し、今日の失敗を悔いるように言う美喜。そんな美喜に、腕を組んで考えるように答える周。

「う〜ん……それぐらいなら全然構わないけど……僕なんかで良いの? 言っとくけど僕も、そんなに上手くないよ?」
(全然良いよ。それに、周お兄ちゃんだからお願いしたいの)
「ま、そこまで言われたら、断る理由は無いかな」
(やった〜〜〜!!)

 両手を挙げて喜びを表現する美喜。その姿に微笑を返す周。……上手くいって良かった、と心の中で安心しながら、周が食べ終えた食器を重ね、まとめて手に持ち立ち上がる美喜。

(それじゃあパパッと片付けちゃうから、お兄ちゃんは寝転んでてね)

 

 

 

あとがき:
美喜の作ってくれた朝食を食べる話ー
まぁ失敗まみれなのはご愛嬌

ほんのちょっぴりだけ周の過去が話された感じかな
「自分のためだけに作られた手料理」ってのが、周にとってはとても特別な存在なのだと、それだけでも伝われば良いかな