全員が逃げている間も、周にぃは女性へと向けた視線を外さない。

 まず目に付いたのは、この暑い季節であるにも関わらず、汗一つかくこともなく平然とブレザーを着込んだその姿。次に、全てを飲み込みそうな漆黒の長い髪、“冷め”と“落ち着き”を足して二で掛けたような瞳、綺麗で整った目鼻と顔立ち。そして雰囲気。どこか暗い印象を与えながらも、また別のどこかで神聖な印象を与えている。そんな女性。

「おい、周」
(何? 周にぃ)
「お前、あいつのこと知ってるか?」

 自分の中にいる、誰よりも信頼できる者への質問。呟くような声で訊いたとは言え、このシンとした空気では向こうまで声が届いているかもしれない。

 だれそれでも、周にぃは訊かずにはいられなかった。

 そもそも周にぃは、昼休みまで起きてこない。また昼休みは起きているが、授業が始まると放課後までまた眠ってしまう。つまり彼がこの学校で知り合いと呼べる人物は、周二の幼馴染である伊沢彩陽ただ一人。それ以外の人物とは、積極的に関わらないようにしている。

(知ってるよ。僕は話したこと無いけど、遠くで見たことあるし。ほら、お昼休みに話した夏祭り。その神社の巫女さんなんだよ)
「なるほど……それじゃあ周、後はまかせて大丈夫か?」
(周にぃ……あの人と関わりたくないの?)
「ああ、まっぴらだ」
(わかった。周にぃがそこまで嫌がるなら、変わるよ)
「いや、お前も嫌なら良いんだけど」

 周にぃにとっての最優先事項は、あくまで周だ。その次に自分。その他はどうでも良い。もっとも“その他”の中に、何かが起きると周が悲しむ人物がいるのなら、その限りとはしない。

 それが彼、周にぃと呼ばれている、周二のもう一人の人格。

(ううん。周にぃより、嫌じゃないよ)

 周にぃにとっての最優先事項が周であるように、周にとっての最優先事項もまた周にぃである。その次に他人。自分はどうでも良い。もっとも“その他”には重さが存在し、重さとは“思いの重さ”に比例。重い程自分が助ける価値があるものとする。その裁量基準は自分の中の天秤に準拠する。

 それが彼、周と呼ばれている、周二のもう一人の人格。

「そうか、それは助かる。それじゃあ、変わるぞ」

 変わる為の言葉(キーワード)。瞬間、主人格は周へと変わった。

「今までのは独り言?」

 今まで黙っていた女性が話しかけてくる。やっぱり周にぃの呟きは聞こえていたのか。

「そんなところ」

 周にぃとの約束で、自分にとって親しいと判断できない人には正体を明かしてはいけない。

「そ」

 自分から訊いておいて興味がなくなったのか、女の子が憑いている樹の幹に触れ、新緑の葉を茂らせている枝を見上げる。

 周は話しかけようと思ったが、名前が分からないことに気付いた。

 無難なところで自己紹介から始めようかな……。

 そう思った周は、その女性に声をかける。

「始めまして、だよね。えっと……」
「藍島冬子。覚えておいて、赤城周二君」
「あれ? 僕の名前、知ってるの?」
「ええ。あなたは、色々な意味で有名だから」

 色々な意味で有名……藍島冬子もそれなりに有名なのだが、自分とあなたとは有名のベクトルが違うとでも言いたいのか。

「そんなことより、どうしてこんなところにいるの?」

 見上げていた顔を下げ、ようやく周と視線を交わしながらの質問。

「どうしてって……女の子が、困ってたから」

 普通の人には見えない存在をそのまま正直に言うものだろうか……。じつはこんなこと、今まで何度もあった。だからこそ「不思議君」のレッテルは強固なものになっていく。

「女の子? あなた、この霊体が見えるの?」

 だが藍島冬子は、他の人たちとは反応が違っていた。他の人なら「ああ……やっぱり不思議君だなぁ」と言わんばかりの表情を作ってしまうものなのだが、彼女は違っていた。

 表情はそんなに変わっていないのだが、雰囲気が目に見えて驚愕の色に染まっている。

「うん。ってことは、藍島さんも?」
「私はこれでも、神社の巫女だから」
「ああ、そっか。……ん? そういうものなのかな?」

 納得しかけたが、止まる。まぁ巫女=霊体が見える、なんて式、本来なら想像の域を出ない。もしこの式が全ての巫女に当てはまるのなら、お正月にバイトをしている巫女にだって霊体が見えることになる。

「私はちゃんとした教えを受けているから」
「そっかぁ……それで、その藍島さんはどうしてここに来たの? 校舎の影に隠れてるし、普通なら気付かないようなもんだけど」

 遠回しに、自分を助けに来た訳じゃないんだよね? という確認。

「ここに霊体がいるのが見えたから、除霊に」

 先程までと変わらず、静かに、さも当然のように言った。

「…………えっ?」

 思わず言葉が出ない周に、彼女は言葉を続ける。

「どんな霊体であれ、この世に存在させ続けるのはダメだから。悪霊になる前に除霊しとかないと」
「ちょ、ちょっと待って、藍島さん」
「何? せっかく自分が助けたのだから、除霊しないで欲しいとでも?」
「う、うん……まぁ、その……。……それにさ、そもそもこの女の子、そんなに悪い霊体なの?」
「そんなことはわからない。でも、霊体はいつか悪霊になる。そうなる前に、力の弱い霊体のうちに除霊する。幸いにも今は、霊体としての力まで弱ってくれている」

 と、手に提げていた黒いカバンから、数枚のお札を取り出す。

「これだけ力が弱ってくれているなら、これだけで十分」

 と、女の子に向けてそのお札を貼ろうと――

「ちょっと待ったああぁぁぁ!」

 ――した、彼女とお札の間に体を滑り込ませる周二。服が汚れるのも気にしないスライディングに、さすがに多少面食らった表情をする藍島冬子。

「何? 邪魔しないでくれる?」

 それでも声音が崩れないのはさすがと言うべきか。

「ごめん。でもさ、ちょっとこの女の子と、話させてくれない?」
「話? 霊体と話なんて出来るわけが無い」
「君の物差しで僕を測らないで欲しい。僕はこの子達と、会話も出来るし、触れることも出来る。だから少しだけ、話をさせて欲しい」

 藍島冬子の目を見つめながら、強い意志を灯しながら、訴えかける。

「……まぁいい。好きにして」

 と、とりあえずはお札を下ろしてくれる。

  それを見た周二は、安堵のため息を漏らして、後ろにいる女の子へと、あぐらをかくように座り直しながら向き直る。

 

 許可を出したからと言って、藍島冬子は周の言葉を全て信用した訳ではないだろう。今の彼女の思考がソレを物語っている。

 人が霊体と会話出来るなんて話……いまだかつて聞いたことが無い。自分のような除霊師がいくら力を蓄えようとも、霊体との会話なんて叶わない。霊体から会話しようとしてくれるなら話は別だが……ああして樹に取り憑き、もたれ掛かり、心を閉ざした霊体が相手では、会話なんて出来なくて当然。

 それなのにこの「不思議君」のレッテルを貼られ、周囲から忌み嫌われている男は、会話が出来ると言い張る。……まぁ、出来ないのに出来ると言っていた時には、普通に除霊すれば済むだけの話。多少時間は食うものの、今日は別に用事も……あるにはあるが、行きたく無いので全然構わない。祭りの準備なんて面倒くさいし、丁度良い時間潰しになる。

 まぁ、本当に出来るものなら……やってみて欲しい。私の中で積みあがっている常識を、覆してみて欲しい。

 そんな考えが、藍島冬子の中には渦巻いている。

 

「えっと……こんにちは」

 顔を下げている女の子に声をかける周。その声に女の子は、少しだけ顔を上げて色の無い瞳を向けてくれたが、すぐに顔を下げて見えなくする。

「どうしたの? こんなところで。良かったら話してくれないかな」
(……どうせお兄さんにも、わたしの言葉は届かないくせに)
「届くよ」

 諦めきった女の子の言葉に、周は言葉を返す。それだけで女の子は、再び顔を上げた。

 でも、さっきのような色の無い瞳ではない。

 希望の光を見つけたような、信じられないものを見つけたような、そんな瞳。

「僕は、君が何て言っているのかわかる」
(……本当に?)
「本当だよ。だから、どうしてここにいるのか、教えて欲しい」

 再び答えた周の声で、女の子は自分の声が届いているという真実に確証が持てた。

 

 霊体の声は、聞かそうと思っても聞こえない。向こうに霊感が無ければ聞こえないからだ。だからもしここで、この女の子が「自分の声を聞かせよう」と思って声を発すれば、霊感のある藍島冬子にも届くだろう。

 だが彼女が、届かせようと何度も声を発した場所には、霊感のある人がいなかった。だから、自分は一人ぼっちだと、自分は世界に見放されたと、そう思わざるを得なかった。

 想像してみて欲しい。自分の声が、周囲には聞いてもらえない絶望感を。

 自分の存在を、無きものとして扱われる虚脱感を。

 集団無視……なんて次元じゃない。集団無視には、目に見えた悪意がある。その悪意すらない。人の意思すら感じない、自分の存在そのものの全否定。

 人であった霊体が、ソレを辛く感じ無い訳が無いのだ。

 

 藍島冬子が、霊体はすぐに悪霊になると言った原因もコレに起因する。

 この、存在の全否定をされる世界に、絶望しない訳が無い。絶望しない霊体(ひと)がいない訳が無い。

 そして世界を憎み、自分を認めない人を憎み、悪霊となり、悪行を成して、人に存在を認めてもらおうとする。

 さびしさから憎しみを生み、その憎しみに支配されて、人を傷つける存在になる。

 つまり、さびしいから人を傷つける存在になるということ。

 それが霊体から、悪霊になるということ。

 

 

 

 女の子の話は実に簡単なこと。

 小学校に上がり立て、初めての夏休みを迎えようというこの時期に、車の交通事故で死んでしまったのだ。

 死んだ人間が霊体になってしまう理由は、死ぬ直前に未練を抱いてしまうこと。最も、死ぬ直前に未練を抱いていても霊体になれないこともあるが……大抵は未練が原因だ。

「それじゃあ君は、その、君を轢き殺した人のことを怒ってるの……?」
(ううん。別にわたし、車を運転してた人には怒ってないの。霊体(この体)になって、お母さんとか見てて分かったんだ。あの人、わたしを殺してしまったこと、とっても謝ってた。泣きながら、許してもらえる訳が無いけど、って言いながら、謝ってた。だからわたし、心の中ではあの人のこと、許してる。)

 もし霊体になる程の未練が「自分を殺した犯人への憎しみ」なら、この女の子が心の中でその犯人を許した時点で成仏していただろう。と言うことは、霊体になった未練は別にある、ということか……。

「それじゃあ、その、君がこの体になる前に、強く願ったこととか、思ったことって何?」
(……さっきも話したけど、わたし、初めての夏休みだったの。それなのに、友達と楽しく過ごしたり、友達と一緒に宿題したり、友達と一緒に絵日記見せ合ったり、そういうことが出来なくなった。車が体に当たって、体がとっても痛くて、目の前が真っ暗になる前に思ったことは“ああ、わたしは何で、友達と楽しい夏休みを過ごせないんだろう……”ってことかな)

 つまりこの女の子は、楽しい夏休みを過ごしたかったのか。

 ただ友達と、一緒に楽しく過ごしたい、一緒に宿題で苦労したい、一緒に思い出を共有したい。そんな小学一年生が持って当たり前な、叶って当たり前な願いを、この女の子は、叶える事が出来ず、願うことしか出来ない体になってしまったのか。

 なんて、理不尽。

 世界に蔓延する不幸に比べれば小さいが、だからといって、叶えなくても良い願いでもない。

 だからこそ、理不尽。

 その話を聞いた周は、心の中で、ゆっくりと、その話を噛み締めた後、口を開いた。

「わかった。それじゃあ僕と君は、これから友達だ」
(……え……?)
「幸いにも、僕達もそろそろ夏休みだ。だから一緒に遊んで、楽しもうじゃないか」
(でも……わたしの姿は、お兄さんにしか……)
「だからこそだよ。僕にしか出来ない……いや、そんなこと関係ない。僕がしたいんだ。僕が君と友達になって、一緒に遊びたいんだ。一緒に楽しみたいんだ。だからお願い。僕と、友達になって」

 そう言って女の子の前に、手を差し出す。

(…………)

 女の子は呆然と、その差し出された手と、手を差し出している周の顔を交互に眺めている。自分が何て言われているのか、自分に何を言っているのか、それがわからないような、そんな表情。

 「もちろん、僕がイヤだったら友達にならなくて良いけど」

 戸惑う女の子に、苦笑いを浮かべながら周はそう言葉を添える。その言葉を聞いた女の子は、理解する。突然目の前に現れた幸せを、自分は信じることが出来ていないんだということを。……いや、わかっているのにわかっていないというべきか。だって女の子は、明確に、自分の目の前に幸せがあることを知らないから。ただ純粋さだけで、本能的に、これから幸せになるであろうことを、理解しているだけなのだから。

 だから女の子は、大きく首を横に振る。そしてうれしそうに、でも泣きそうな表情をしながら、その差し出した手の上に、自分の手を乗せる。目の前に現れた幸せを、受け取るために。

 それは女の子が、取り憑く対象を、大樹から周へと変えた合図。

(ありがとう……お兄さん。ありがとう……)

 泣いている顔を見られたくないのか、顔を下に向けながらの言葉。その声音はとてもうれしそうで、“叶わない願い”と諦めていた願いを叶えてくれる周に、心の底から感謝しているようだった。

(ありがとう……ありがとう……!)

 嗚咽が漏れるのを我慢しながらの、お礼の言葉。

 嗚咽が漏れるのを我慢してでも発したい、お礼の言葉。

 頬に伝う、一筋の光。

 

 周にとって霊体の友達は、初めてではない。だから後悔なんて無い。……いや、そもそも周は、もし悪霊が自分の友達になろうとも後悔しないだろう。

 だって彼の中では、自分の価値など他人以下なのだから。

 

 

 

あとがき:
女の子の霊体との出会いの話ー
これから彼女はずっと周と一緒にいます
ま、霊体だから、他の人には見えないんだけど?
だからロリコンと思われる心配も無いんだけど?
そもそも周はロリコンじゃないんだけど

あ、藍島冬子が放置気味?
そりゃ仕方が無い
だって今回の主役は女の子だもの