走る。疾る。どれ程の距離を進んだのかも忘れる程に。

 茶色く染めた長い髪をなびかせたその女性――木美奈子(たかぎみなこ)は、どうして今、自分がこんな状況に陥ってしまったのかを考える。

 

 数人の友人とのカラオケを楽しんでいた時、突然店員がやってきた。誰も料理を頼んでいないし、誰も飲み物を頼んでいない。そもそも店員の手に、その類のものが持たれていなかった。だからどうして来たのか、誰もわからなかった。

 時刻は午前二時。その店員は、皆に身分証明を求めてきた。確認に来る時間としては遥かに遅いが、すでに未成年は帰らないといけない時間になっている。故に、未成年であるかどうかの確認。

 美奈子の年齢は見た目不相応に、まだ十七才。いくらモデルのように眉が整っていようとも、いくらモデルのようにクッキリ二重であろうとも、まだ十七才。いくら顔を上手に化かそうとも、それだけは変えられない。たとえ自分の中では、すでに大人であろうとも。

 だから店を追い出された。都会の店ならわざわざ確認なんて来なかっただろう。でも今日は、中学の同級生ということもあり、この都会ぶろうと頑張っている田舎の店にしてしまったのが仇となった。全員が店を追い出され、他の店に行く興も削がれてしまったので、本日はそのまま解散。仕方なしに美奈子は、自分の家に帰ろうと思った。

 別に、自分の家が嫌いな訳じゃない。でもどうしても、帰るという行為の気が進まない。世間一般でいう反抗期というやつだろうか。それとも、父親のいないあの家庭環境がそうさせているのか……。それともやっぱり、美奈子自身がお金を稼げているということに起因するのだろうか。

 彼女は十七才という若さでありながら、自分の体を売ってお金を稼いでいる。もっともそのことを、母親は知らないだろう。教えてもいない。だから知らない……と思う。一人の男と一晩寝るだけで、十万ものお金が手に入る。相手なんて関係ない。それがたとえ、脂ぎった中年親父でも。それがたとえ、女とヤレることだけが目的の男でも。金さえ入るのなら、誰とだって寝る。それが彼女だ。年齢不相応に育った体と、不相応に見えるよう化けた美しい顔。それが彼女の資金源。不幸だなんて思っていない。むしろ、こうすることで稼げる世の中に感謝しているぐらいだ。

 

 そんな彼女が今、必死に走っている。走るのに適さないブーツのまま、疾り続けている。

 肺が壊れそうなほど呼吸を繰り返し、心臓が破裂しそうなほど脈打っている。

 それでも尚、彼女は走り続ける。

 運動が得意でない彼女が、これほどまでに全力で走り続けられるのは恐怖心故か。

 

 一人で歩いていた、暗い夜の帰り道。夏の夜であるにもかかわらず、黒いウインドブレーカーのようなジャージを着た男が、目の前から歩いてきた。

 今日は結構暑いのに……なんて格好してんだろ。ダッサ。

 その時の彼女の心境はこんなもの。男とは道路を挟んでいるため、すれ違いざまに声をかけられることもない。だから安心しきっていた。でも――

「すいません」

 ――すれ違ってすぐに、頭から男のことが離れようとした直後に、声をかけられた。真後ろから。

 反射的に距離を開けながら、振り返る。街灯の光が届かない場所で声をかけられたせいか、顔が見えない。

「君、いくら出せば――」

 ここまで聞いて美奈子は、ああ、自分と寝たいんだなぁ。なんてことを、いつも通り、考える。

 まぁ家にも帰りたくないし、お金も手に入るし、別にいいかなぁ。なんてことも、考える。

 男の次の言葉を聞くまでの、ほんの僅かな時間。それはもう、考える、なんて言葉じゃなく、反射的思考、という言葉がピッタリな程に。でも――

「――俺に血の噴水を見せてくれるんだい?」

 ――その反射的思考は、無駄に終わった。美奈子が男の言葉を理解するより速く――

「えっ……?」

 ――脇腹に、ナイフが突き刺さっていた。痛みはなかった。衝撃だけ。

 でも、自分の脇腹にナイフが突き刺さっていると理解した刹那、その箇所に熱が帯びてきた。

 熱い。

 そしてその熱は次第に、痛みへと変わってきた。

 痛い。熱いし、痛い。

 あまりの衝撃に、言葉が出ない。

 男がナイフを引き抜く。腰が砕けて、座り込んでしまう。刃の長さが最低でも三十センチあろうかというそのナイフ、ソレが自分の体内に、根元まで食い込んだという衝撃。そして恐怖。いきなり自分が、通り魔に襲われたという恐怖。衝撃と恐怖が同時に襲い掛かり、言葉が出なかった。叫ばないといけないと、人を呼ばないといけないと、そう頭は理解しているにもかかわらず、声が出なかった。

 男が、引き抜いたナイフを振り上げる。ダメだ。このままだと死んでしまう。

 逃げないと。逃げないと。逃げないと! 逃げろっ!

 体に信号を発した。衝撃と恐怖で震えていた足、そして砕けた腰。それを今度は、同じ恐怖で、しかしそれ以上の“死”という恐怖で奮い立たせ、必死に立ち上がり、足を動かして逃げた。

 家に。家に帰れば大丈夫。警察と救急車を呼べば、自分は助かる。

 美奈子の脳内にはそのことしかなかった。さっきまで自分が家に帰りたくないと思っていたのがウソのよう。今はまったく逆で、ただ早く、速く、疾く、家に帰りたかった。

 この角を曲がった二軒目。そこが自分の家。

 早く、速く、疾く!

 焦る気持ちを抑えようともせず、角を曲がり、美奈子は……立ち止まった。

 自分の家の、一軒家の、門扉の前。そこにさっきの男が、立っていたから。

 ありえない。だってあいつは、自分の後ろにいたはずだ。私を襲った場所からここに来るまでの道を、私は最短距離で走ってきた。だから私より先に、私の家に着くには……私を後ろから追い抜くか、遠回りの道を、私より遥かに速く走り抜くか……。でも果たして、そんなことは可能なのだろうか? もしかしたら目の前にいるアレは、私が見ている幻なのでは……。

「やあ、案外速かったね」

 そんな美奈子の考えは、あっさりと打ち砕かれた。幻が、声をかけてくるはずが無いのだから。

 

 それからの彼女は、ただひたすらに走り続けている。

 目的地なんてない。

 ただ、目の前にある死の恐怖から、逃げたかった。

 だから足掻く様に、走り続ける。

 

 ああ、どうして自分はこんな目にあっているのだろう。何か悪いことでもしたのだろうか? 体を売ることが、神の怒りを買うことだとでも言うのだろうか? そんなことは無い。もしそうなら、私と同じようなことをしている人全員が、こんな怖い目にあっていることになる。じゃあ、私がした悪いことって何? こんな……こんな怖い目にあわないといけない程の悪いことって何?

 ……ああ、そうか。……お母さん……。

 お父さんと離婚してから、女手一つで私を育ててくれたお母さん。それなのに私は、あの人のことを鬱陶しいと思い、キツく、辛く当たっていた。それだけで十分だ。神様の怒りを買うには。自分を産んで育ててくれている親に、感謝しない。それだけで十分だ。

 もしこの出来事から無事に逃げれたら、お母さんに謝ろう。感謝しよう。そしてもう、お母さんが生んでくれたこの体を、売ろうとなんて考えないでおこう。だからどうか、神様お願い。私を無事に、逃がしてください。お母さんに謝りたいんです。感謝したいんです。私なんかを産んでくれた母さんと、ちゃんと、お話がしたいんです。

 死にたくない。死にたくない。まだちゃんと、謝ってないのに。やっと私にとって大切なものが何かわかったのに。だから神様、どうかお願いします。身勝手な願いなのはわかっています。都合が良すぎるのも承知しています。

 でもどうか、助けてください。

 

 足が絡み、転倒する。何処をどう走ったのか覚えていない。人通りが多いところへ逃げようとしていたのに、なぜか度々目の前にあの男が現れて、道を何度も変え、こんなところまで逃げてきたのは覚えている。人気の無い、こんな場所に……。

 ……誘われた。自分は、罠に引っかかったんだ。

 転倒したまま立ち上がれず、荒い呼吸を繰り返しながら、彼女は朧気な意識の中、そんなことを考える。

 そして自分の後ろから、足音。

 逃げないと。

 そうは思うも、すでに彼女の体力は限界。立ち上がることすらできない。体を起こすことすらできない。

 と、視界の端に、自分の携帯電話が映る。倒れた時にポケットから出てきたのか……。

 ……そうだ。どうして今まで気付かなかった。助けを呼べば良いんだ。

 携帯電話に手を伸ばす。が、ソレに手が届く前に、ソレが何者かに踏み潰された。視界を少しだけ、上に上げる。そこにはやはり、例の男が立っていた。

 男はしゃがみ込み、美奈子の顔を覗き込む。だが美奈子から男の顔は見えない。

 すでに体力が限界を迎えている彼女。脇腹を刺され、出血多量なのも合わさって、その視界はもう、半分以上が黒かった。だから、見えなかった。

「助けて……」

 辛うじて、そう言葉にできたと思う。その言葉が、男に届いているのかどうかは別にして。

「お願い……助けて……」

 涙を流しながらの懇願。

 自分の中に、未練が生まれた。自分の中の、大切な存在がわかった。自分の中で、今までの愚かさがわかった。

 だからもう、助けてくれと、泣きながらの懇願。

「お願い……助け――」

 でもその言葉は、男に届かなかった。

 無常にも、男は美奈子の首を切断した。

「あ……ご……めん…………お…………かあ………………」

 誰かが助けに来てくれるとか、そんな奇跡も起きず、美奈子はただ、未練を抱いたまま、息絶えた。

 

 

 

 吹き出る血を眺めながら、そいつは嘲う。

 女の死の直前なんてどうでも良い。ただ、切断面から、噴水のように吹き出る血を見るのが、大好きだった。

 だから嘲う。楽しいものを見ているから。

 自分に血が付くのは気に食わない。だってそれは、他人のものだから。他人の血なんて汚らわしい。自分の血が、自分の血のまま吹き出る。それがそいつの美学。

 だから嘲う。自らの美学通りに事が進んだのだから。

 最初はただ、自分を救ってくれなかった人への復讐。それがいつの間にか、血が噴水のように吹き出る、この瞬間が楽しくなってきた。

 狂っている。それは自分自身も自覚している。

 でも、それならこの世界は狂っていないというのだろうか?

 答えはノー。この世界は狂っている。

 だからこの狂っている場所に、自分という狂っている存在。それはマイナスとマイナスがプラスになるように、これこそが、狂っていない証なのではないだろうか?

 狂っている場所に、狂っていない存在。それこそが、狂っているのではないのだろうか?

 そう考えた時期もある。だがもう、関係ない。

 何人もの血の噴水を見ているうちに、関係なくなってきた。

 今はただ、この楽しい出来事を、本能が命じるままに、楽しめば良い。

 それが今の、狂った自分の考えと答えだった。

 

 

 

あとがき:
あとがきシステム復活ー
それと良くわからないとりあえずな第一話ー
でもこれ、実質プロローグみたいなもんかな……? 主人公とかまったく出てきてないし。

あとがき復活させといてなんだけど、今回の話って、特にコメントのしようが無いよね?
まぁ、後々重要になってくる話ってことで一つ