先程から溜めていた膝の力を一気に解放。

 妨害させる間もなく、この教室から出て行こうと疾駆する。

 

「さすが現役テニス部! 瞬発力が違うなっ!」

 

 いつもの見透かしてるような不思議な雰囲気を全て払拭するほどの叫びを上げながら、オレと同じ方向へと駆け出す灯河恭一。

 互いに直線だが、僅かに向こうの方が速い……! これだと教室から出て行くのを妨害される!

 

 ……でも、こうなることは予測済みだ。

 

 オレの突然の疾駆。

 妨害することに必死になってしまっている今なら、オレがこっそりと指環を外していることにおそらく、気付いていない。そして駆けながら、その外した指環を中指に嵌め直そうとしているのも、気付いていない。

 

『参の指は宿。故にここに存在する時、その者は契約者の身体を間借りすることを許される』

 

 試したことは無い。

 が、おそらくコレは、オレの身体の制御全てを癒枝に託すということだろう。

 つまり……――

 

「はっ!」

 

 駆け出していた足が、止まる。

 そのまま踏み込むように力強く大地を蹴り、駆けて来ていたそいつへと、右肩を突き出して勢いよくぶつける。

 

「がっ……!」

 

 突然のその行動に不意を衝かれ、足を止めることも叶わず、真正面からその攻撃を受けてしまう。

 辛うじて腕の内側で受け止めることは出来たものの、駆けていた勢いそのままが返ってきたようなその衝撃は、さながら単車が突っ込んできたような気さえさせたはず。その証拠に、受身も満足に取ることが出来ず、床に転がってしまう。

 

「ちっ……何て完璧な重心移動だ……一朝一夕で身に付くものじゃないな……。……さてはお前、堀井だな」

「……正解」

 

 ――……こうして癒枝の力を、存分に振るってもらえるということ。

 

「こいつがこうして欲しいと願うなら、あたしはこうさせてもらう。だから部長さん、覚悟」

 

 オレの声でそう告げると、そいつの答えを待たずに癒枝は前方へと跳躍。

 勢いを殺さぬようにしながら着地し、躯を回転。そのまま後ろ回し蹴りを放つ。

 

「くっ!」

 

 しゃがみ込んだまま動揺で歪むカッコイイその顔を狙った、風を切りながらのその蹴り。

 受け止めきれる威力で無いと悟ったのか、そいつは地面と一体化するのかと思うほど姿勢を低くし、蹴りが迫る教室の出入り口側へと身体を滑らせる。

 

 反対側に逃げれば簡単なのにそうしないのは、そのままオレ達が教室の外に出て逃げられると悟っているからだろう。

 

 だがそうされることを読んでいたかのように、癒枝は脚を緊急停止。全ての勢いと威力を無くしながらも、支えていた足で軽く跳び上がり、叩きつけるような踵落としを放つ!

 

「っ!」

 

 その攻撃を読めなかったのか、そいつは驚愕の面を顔に被る。

 だが咄嗟の判断か、刹那とも呼べる瞬間(とき)の間にその脚を片腕で触れ、少しだけ勢いを殺して辛うじて避ける。

 

 無様に、ゴロゴロと体を転がして教室の外へと出て行く。

 

 ドアの向かいの壁に辿り着くとそこに手を付き、勢いよく身体を起こして、鋭い目つきでこちらを睨みつける。

 

 先程と同じ、強い視線。

 だが癒枝はそんな視線をものともせず、オレの身体の調子を確認するかのように、肩をストレッチさせたり、膝の屈伸をさせたりしている。

 

「……スゴイ殺気ですが、あたしにそれは通用しませんよ。これでも現役の時は、同じ視線の中で鍛えられてましたから」

 

 オレの口を介して告げる癒枝の言葉。

 ……癒枝を教えていたのは確か、親戚のオジサンだったっけか……。一度も会った事無いけど、たぶん、目の前のあいつと同じ気を放っていたのだろう。

 

「本物の殺気の中で強くなれば普通の人間には絶対負けない。凶器を持ったやつですらが矮小に見えるほどだ。……それが、師の教えでしたからね」

「……なるほど。中々納得のいく答えだ」

 

 教室と廊下を隔てる窓。

 暑くて常に解放していたそこで視線を交わしながら、癒枝とそいつは会話を続ける。

 

「それで部長、あなたは普通の人間ですか? もしそうならあたし、絶対に負けませんよ」

「中々強気な発言だ。だが堀井、忘れた訳ではないだろ? 俺は、普通の人間じゃない」

「でしょうね。……今この空間が、何よりの答えでしょうから」

 

 ピリピリとした空気が充満する。

 もしオレ自身がこの空気と対峙したなら、それだけで気が竦んでしまうであろう、その空気。

 

 だが二人は平然。

 癒枝はゆっくりと歩き出入り口へ。相手は壁から離れて構える。

 

 互いの距離は二メートル弱。人二人がようやく通れるほどの距離。

 ……常人のケンカなら、この距離では開きすぎだろう。

 だが二人から見てこの距離は……とてつもなく、狭い。

 

「それじゃ行きます、部長」

 

 オレの口を介して癒枝が呟いた刹那――視界が、ブレた。

 景色が高速で流れ、時々部長の腕と思わしき肌色やズボンの柄が視界の端に映るのみ。

 何が起き、何処がどうなっているのか理解できない。

 上を見たかと思うと下を見、下を見たかと思うとそいつの目を見つめる。

 

 あくまで相手の攻撃全てを視界の中心に収ていない。攻撃全ては視界の端にしか映らず、こちらが攻撃しようとしていると思わしき場所を中心に収めている。

 ……おそらくだが、オレの視界範囲では端にしか映っていないのだと思う。

 癒枝の視界ならきっと――気配察知からくる攻撃流動の読み全てを含めれば、“視界の端に僅か”ではなく“視界の端に全て”見えているのだろう。その攻撃軌道の全てが。

 

 その流れ続ける景色は僅か十秒未満で終わりを迎え、その時にはそいつの姿はかなり遠くに移動し、片膝をついていた。

 

「ふぅん……こいつの身体、意外に便利ね。あたしよりかは重いけど、ちゃんと筋肉のバネはあるし、何より、あたしよりも力あるし」

 

 オレの右手首を反対の手で握り、グリグリと回しながらそんなことを呟く癒枝。

 ……どうでも良いけど、男の声で“あたし”ってのは違和感バリバリだな……。

 

「そりゃ桐生は現役テニス部だからな……当然だろう」

 

 そう答えたのは、片膝を立てたままのそいつ。

 

「ま、確かにね」

 

 そう答えを返した後、それで、と癒枝は言葉を続ける。

 

「部長さんはまだ、続けるの?」

 

 それはまるで、これ以上は無駄だと言っているかのよう。

 ソレはそいつも気付いたのか、ふっ、と笑みを浮かべて口を開く。

 

「まだ続けるも何も、俺はまだ本気を出していない」

「あっそ……それじゃ、さっさと本気出せば?」

「言われずとも」

 

 挑発的な癒枝の言葉にそう返事をして後ろに手を回し、ずっとそこに忍ばせていたのか、ズボンの後ろポケットから小さな小瓶を取り出す。

 

 それはあの山登りの時に買った、例の臭い玉が入っていた瓶。

 だが今瓶の中に入っているのは小粒の群れではなく、透明な液体。

 

「安心しろ。これはただの水だ」

 

 癒枝も怪訝な表情をしていたのだろう。瓶の蓋を開けながら、そいつはそんな言葉を漏らす。

 

「だが同時に――」

 

 言葉を続けながら、瓶を傾ける。

 

 中に入っていた液体は、瓶の底を離れ、重力に導かれるように、そいつの足元に流れ落ちる。

 

「――俺にとっては、強力な兵器でもある」

 

 言葉の意味を悟るよりも早く、地に流れ落ちた水が、コチラへと襲い掛かってきた。

 

「なっ……!」

 

 圧縮して放たれた、その銃弾のような水。

 突然のその動きに驚きながらも、癒枝は反射神経のみでその水弾を躱す。

 

 見える速さではなかった。

 少なくとも、オレの目にはまったく映らなかった。

 ただ、流れ落ちた水が瞬時に圧縮され、こちらへ向かってくる微かな映像が映ったのみ。

 

 だがその直後――

 

 ――めきりっ! と鈍い音が後ろから聞こえた。

 

 癒枝が後ろを振り返らないので、状況は分からない。

 だがおそらくは……避けた水弾が、コンクリートの壁に穴を空けたのだろう。

 

「言ったはずだ。俺も刻印保持者だと」

 

 そいつは片膝をついた体勢からいつの間にやら立ち上がり、右手を開いてこちらへと突き出す。例の蒼い線を浮かばせたまま。

 

「そして俺の刻印は……わかったとは思うが『水』だ。つまり、水さえあれば、何でも出来る」

 

 ニヤリと、何処か様になるような気さえする不敵な笑みを浮かべた。

 

 直後――

 ――開いた手を、勢いよく閉じた。

 

 瞬間、脳裏を過ぎるイヤな予感。

 刹那、身体から吹き出る冷たい汗。

 

 当然癒枝も感じ取ったのか、無人になった部室の中へと、逃げ込むようにオレの身体を転がせる。が――

 

「はうっ!」

 

 ――微妙に遅かった。

 

 右側の教室に逃げるために踏み込んだ左足、その太ももが水弾に貫かれてしまった。

 

「ぐううぅぅぅ……!」

 

 貫かれ場所には小さな穴が穿たれており、内側から肉が抉れ、血が出てきてる。

 だが貫かれているにも関わらず、出血量は大したことがなさそ――

 

「ぐっ! はっ! あぁっ!」

 

 ――うだと確認している間にも、水弾は飛来してきた。

 

 まるで自由意志を持った弾丸の様なソレは、矢継ぎ早に右足と両腕を貫いていった。

 

「これでもう、動かすことも動くことも出来まい」

 

 ズボンのポケットに両手を突っ込み、いつもの不思議な雰囲気を身に纏いながら、扉の前でオレ達を見下し、口を開く。

 

「それじゃ、堀井を頂こうかな」

 

 そう言葉を発すると同時、地面に倒れたままのオレ達に近づいてくる。

 

「ぐっ……!」

 

 四肢それぞれに穴が空いているにも関わらず、癒枝は抵抗しようと身をよじったりバタバタしたりして、そいつから距離を取ろうとする。

 ……取ろうと、してくれている。

 

 本人も、そしてなによりオレ自身、その行為が無駄だということは分かっている。

 だがそれでも、出来ることはしておきたかった。

 

「水弾」

 

 足元まで辿り着いたそいつは、ボソリと、そんな言葉を呟く。

 瞬間――

 

 ――眉間に、例の水弾が飛来した。

 

 ……当たりはしなかった。

 本当に紙一重――いやもしかしたら、紙一枚分よりも近くで、その水弾は静止した。

 

 ……脅しなんだと、瞬時に理解した。

 無駄と分かっているな抵抗をやめろと、分かっていなくとも抵抗するなと、そういうことを言いたいんだ。

 ……もしすれば、眉間を貫くと。

 

 それは癒枝も理解できたのか、途端に動きか止まった。

 ……おそらくは、オレの身体をこれ以上、傷つけないため。

 

「それでは堀井、行こうか」

 

 動きの止まったその傍らにしゃがみ込み、無抵抗な癒枝の命綱とも言える、左手中指に嵌めている指環を、抜き外した。

 

 ……それだけ。

 

 それだけで、本当に呆気なく、オレの身体へと感覚が戻る。

 同時に――

 

「ぐっ、ぐおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!」

 

 ――とてつもない痛みが、四肢を襲う。

 ……当然だ。

 穴が空いているのだから。

 

 癒枝のために左腕を切断した時よりも痛くは無い。まだ我慢できる程度の痛さだ。

 でもそれは、おそらく一度左腕の切断を味わったから。

 身体の内側に刺さったナイフを抜き取られるような、熱くて抉り抜かれるような痛みを味わったから。

 もしその痛みが無ければ、オレは今頃何も考えることが出来ず、この痛みに震えていたのかもしれない。

 

「待てよ……」

 

 こうして、何事も無かったかのように去ろうとしているこいつの背中に、声をかけることも出来なかったのかもしれない。

 

「なんで……オレと癒枝を、離れ離れにするんだよ……!」

 

 四肢から襲いくる熱い痛みを堪えながら、仰向けの体勢から何とかうつ伏せの体勢に変えながら、下からそいつを睨みつける様に、言葉をかける。

 

 血が流れ、痛みで力の入らない四肢を無理矢理動かして、そいつの片足でも掴もうと、もがくように移動する。

 ……それだけでも、ジッとしていた時には想像出来なかった痛みが襲い掛かる。

 ……構うもんか。

 このまま癒枝を、連れて行かれるぐらいなら。……オレの身体なんて、どうでも良い。痛みで朽ち果てようとも、血が流れ果てようとも、どうでも良い。

 

 それで癒枝が、取り戻せるなら。

 

 四肢の痛みに襲われている今でもある、この心の内側を抉り込まれるような、身体の内側を掻き毟りたくなるような、虚無感を無くすことが出来るのなら。

 

「……桐生……お前は、あの世界で堀井を説得した時、愛し合うとは支え合うことだって言ったよな」

「あ、ああ……」

 

 返ってきた、予想外に優しい、今まで日常的に聞いてきた声音。

 思わず、這わせていた自らの身体を止めてしまうほどの、その背中越しの声。

 それは“そいつ”という灯河恭一ではなく、“部長”という灯河恭一の声音だった。

 

「なら、今がその時なんだ」

「だったら余計、オレから癒枝を奪う理由が無いだろ!」

 

 意味の分からない言葉に、部長に戻った声音も忘れて叫び返していた。

 

「これからずっと、オレは癒枝を支えていく! どんな困難からも守ってやる! 癒枝がずっと傍に居てくれるなら、それぐらいのことをしてみせる! 傍に居て支えてくれるから、不思議な存在になっても傍に居てくれるから、ずっとずっと、癒枝を守っていってやりたいんだ!」

「まだわからないのか! お前はっ!」

 

 叫び続けるオレの言葉を遮り、部長は声を荒げる。

 

「確かに、不思議な存在になってまでお前と居続けてくれる対価に、お前がどんな困難からも堀井を守ると言うのはわかる! それが支え合いになるってこともわかる! でもそれじゃあ、いつまで経ってもお前は成長しないだろっ!」

 

 怒鳴るような口調。

 だがそれは先程と違い、何処か優しさを帯びたまま。

 まるで、子供を叱りつける親のような……。

 

「自分の心の有り様に気付いたのに、どうして堀井を蔑ろ(ないがしろ)にする! どうしてその心に自分の色を染み込ませようとしない! 無色だとわかったのなら、お前はそこから、無限大に成長することが出来るんだぞ! それなのにどうして! いまだ生前と同じで、堀井の色を反映し続けようとするっ! どうして、一歩を踏み出そうとしないっ!」

 

 ……優しい叫び声を上げてくれた部長は、そこで一呼吸置く。

 そして声音を落ち着けて、オレへの言葉を続ける。

 ……続けてくれる。

 

「お前が本当に堀井を支えたいと思うのなら、ここで堀井を見送るべきだ。自分一人でも生きていけると自信を持って、これからは自分の色を持って歩んでいけると言って、見送るべきだ」

「…………」

「堀井が望むのはお前の幸せだ。それはつまり、お前一人でも生きていける状態になることだ。……堀井は気付いていた……いや、自分が死んだ後、お前の状態を見て気付いたのさ。自分が、お前を不幸にしているとな」

「そんなことはない! オレは、癒枝が居て幸せだった! だからまた一緒に――」

「その考えがそもそもの間違いだ。堀井はもう、死んでいるんだよ」

「っ!」

「それを無理矢理、この世界では異端とされる方法で“存在させている”に過ぎない。……最初は堀井も嬉しかったのさ。自分がいなくなるだけで、自分の想い人が死んでくれようとしている。そこまで深い愛情を持ってくれている。だから、嬉しかった。異端な状態であろうとも一緒に居ようと腹を括れた。……だがな、その後のお前の生活を見て、その考えが変わってしまった」

「オレの……生活?」

「ああ。というより、お前の周囲の世界を見て、だろうか。……周囲の世界は、一歩一歩、自分がいなくなっても歩んでいっている。その中でお前だけ、異端な状態の自分に縋り付いて、一歩も踏み出そうとしない。その状況を見て、気付いたんだ。自分のこの状態こそが、小野山桐生という想い人を不幸にしているとな。……自分を頼ってくれる、自分を縋ってくれる、その状態が嬉しくない訳が無い。だがその嬉しさを享受するたびに、お前はどんどん世界を歩んでいかなくなる。不幸になっていく」

「そんなのっ……! オレは、ずっと世界に取り残されてでも、癒枝と一緒に居たいんだっ! それでオレが不幸になろうと、まったく構わないんだっ!」

「お前が構わなくとも、堀井が構う」

「っ!」

「そして……俺も構う。お前には、大切な後輩として、何より妹のためにも、幸せになってもらいたい」

「雪音さんの……ため?」

「ああ。……良いか桐生。先輩として最後の言葉だ」

 

 そう言うと部長は振り返り、足に縋りつこうと這っている無様なオレを、優しい瞳を携えて見下ろしながら、言った。

 

「過去の幸せに縋りつくな。過去の幸せへと足を戻すな。過去の幸せを原動力に、前へと進め。過去の不幸を背負い、前へと這い進め。苦難の道は、背負った不幸が見せる幻想。苦難の道は、過去の幸せが魅せる狂気。幻想と狂気の道の狭間を、自らの全てを賭して、突き進め」

 

 そうして、再びオレに背中を向ける。

 

 その背中が、再び向こうを向くことはなかった。

 

 その顔が、再びコチラを向くことは、なかった。