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「……で、本当にこれで良かったの? あの二人をあのまま元の世界に戻して」

「ああ、構わない。あいつ等がああした結論に達したのなら、俺からは何も言葉をかけることは出来ないさ」

 

 白の世界の中、取引を持ちかけたその人は、主人の質問に対する答えを口にする。

 

「だがそうだな……向こうがそうして意地を張るのなら、俺もまた、俺の思う意地を張らせてもらうだけの話さ」

「あなたの意地?」

「ああ。俺の望む、俺にしか出来ない、俺の幸せを得るために突き進む、そのための意地をな」

 

 先程の迷いはもう無い。

 不確かな意志はそこになく、すでにそれは確固たる意志となり、確固たる意志は地に根付き意地となっていた。

 

 すでにここを去ったあの少年の言葉を聞いたときから。

 これから襲い来るどんな困難にも立ち向うと言った、その言葉を聞いたときから。

 

「……あいつがこれからの困難に立ち向う覚悟を決めたのなら、俺だって、腹を括る必要があるだろ」

 

 あいつの困難になるという覚悟。あいつを敵に回すという覚悟。

 あいつと大切な妹に、一生恨まれるという覚悟。

 

「俺の思い描く世界のため……俺もまた、ここから先の困難を見据えないといけないしな……」

 

 最後のその呟きは小さく、この世界でないと聞き取ることなんて出来なかったかもしれない。

 

「ふぅ〜ん……ま、あなたの覚悟が決まっているのはわかったわ。……だからこそ、私との約束、忘れてないでしょうね?」

「当然だ。もし破れば、俺に協力してくれないのだろ?」

「それこそ当然じゃない」

「なら安心しろ。俺はもう、自分の意地の果てと願いの果て以外は何もいらないさ。それが叶うのなら、今まで培ってきたコレがなくなっても構わん」

 

 その覚悟があったからこそ、お前に頼みに来たんだ。

 

 そう言わんばかりの口調と瞳を携え、声の主を見つめながら、彼はそう答えた。

 

 その覚悟と意志を読み取ったのか、主はその彼の様子に眉根を寄せる。

 

「……一つ、訊ねてもいいかしら?」

「なんだ?」

「どうしてあなた程の男が、そこまでしてあの少年――桐生君を助けるの?」

「はっ、俺は別に桐生を助けるつもりは無いさ。俺が助けたいのはそいつじゃない。妹だ」

「妹?」

「ああ。だってあいつは――」

 

 男性はそこで一度言葉を切ると、微笑を携えながら、少しだけうれしそうに言った。

 

「――何回も生まれてきて、初めて出来た兄弟姉妹だからだ」

 

 

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 今日からまた、日常が戻る。

 

 癒枝をそのままとして日常を、また過ごせる。

 

 そう思っていた。

 

 でも……それはとんでもなく、甘い考えだった。儚い思いだった。

 

 オレに訪れる全ての試練を乗り越えただなんて、勝手に決め付けていた。ゴールラインを超えたのだと、勝手に決め付けていた。

 

 ……そう。オレはゴールラインなんて超えていない。

 

 自分の心を強くした。……それすらが認識違いで、オレはただ、自分の心が人並みな強さになっただけだった。

 

 昔傷ついていた心が、昔無くしたと思っていた心が、ただ元に戻っただけ。

 凡人へと、戻っただけ。

 力無い者から、非力な者へと、戻っただけ。

 

 ……ゴールラインと思っていたここは、その実ただのスタートライン。

 

 ここから先に待ち受けるは、本当の困難。

 力無き者では無条件で朽ち果て、非力なものでは抗い果てて朽ちるであろう道。

 そんな困難が、これからの全て。

 

 非日常な出来事で維持しようとしているこの日常。

 

 それを守る、最初で最大の困難。

 

 それが今、オレの身に、襲い掛かる。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「あれ? 今日は部長来てないの?」

 

 放課後、いつも通り部室を訪れると、そこには雪音さんしかいなかった。

 

「あ、はい。なんでも兄さん、やることがあるから遅れるそうです」

 

 ゆるくおさげにしている髪の毛を片手でいじりつつ、もう片方の手で広げて読んでいた文庫本から視線を上げ、彼女は言葉を続ける。

 

「何でも、私達に言いたいことがあるそうで」

「言いたいこと? この部活が廃部とか?」

 

 冗談半分な答えを返しつつ、オレは定位置に移動して腰掛ける。

 

「その可能性も確かにあるな」

 

 そう返事をしたのは雪音さんではなく、オレが開けっ放しにしたドアに体重を預け、カバンも持たずに入口で佇まう、部長本人だった。

 

「あれ? もう用事は済んだんですか?」

「ああ。と言うより、桐生が俺よりも先にここへと入ってくれることこそ、俺の用事だったのさ」

 

 突然の声の乱入にすこし驚きながらの雪音さんの質問に、当然のようにそう答える部長。

 

 ……と言うか、オレが部長よりも先にこの部屋に……? 

 ……さすがのオレでも分かる。つまりそれって――

 

「――どうかしたんですか、部長。オレをこの部屋に閉じ込めるだなんて」

 

 この部屋は五階。窓から外に出ることは不可能。そして数少ない出入り口を今、部長が塞いでいる。

 こうなることを部長が望んだのなら……理由はその一点のみに絞られてしまう。

 

「なぁに。ちょっとお前と話がしたくてな」

 

 座りながらも、少しだけ身構えながら発したオレの言葉に、部長は眉根一つ動かさず、さも当然のように言葉を紡いだ。

 

「……話なら、オレを閉じこめなくても出来るでしょう?」

「そうだな。ただの話なら、閉じ込める必要性はない。だが俺がしたい話は、ただの話じゃないのでな」

「ただの話じゃ、無い……?」

「ああ。なんせ俺がしたい話は、堀井癒枝に関してのことだからな」

「癒枝の……?」

 

 その予想外な言葉に、眉根を寄せる。だって今更、癒枝のことで部長から話があるとは思えないから。

 

 俺からならば今日「昨日は結局癒枝を失くさずに、今もまだオレの傍らにいる」と言う用事はあるが……。……さすがに、まだ誰にも言ってないことを部長が先読みしているとも思えない。

 

「そう、堀井の話だ。今もまだ、お前の傍らにいる、な」

「っ!」

 

 それなのにこの人は、あっさりと、何も無い日常会話のように、言ってきた。

 

「えっ? 癒枝ちゃん、まだここにいてくれてるんですか?」

「ああ」

「……どうして?」

 

 雪音さんの疑問に答えているその人へと視線を合わせながら、口が勝手に動いたかのような呟きを、オレは漏らしていた。

 

「どうして部長が、そのことを知ってるんですか……? だってオレはまだ誰にも――雪音さんにもこのことは言ってないんですよ?」

 

 いつの間にか立ち上がっている自分を、頭のどこかで冷静に認識しながら疑問をぶつける。するとその人は、これもまたさも当然のように、肩をすくめるように答えてきた。

 

「そりゃお前、まだ小指に指環を嵌めたままじゃないか」

「えっ……?」

「そんなもん見せつけられりゃ、イヤでもわかるってもんだ」

 

 その言葉に、自らの本能から無意識的に発せられていた警戒音が、遠退いていく。

 いつの間にか不安で詰まっていた息も、一気に吐き出された。

 

「それにお前、俺は一部始終を見てたんだよ」

「っ!」

 

 だが次の瞬間、その言葉で再び、警戒音が本能から発せられる。

 でも今度は「無意識的な」じゃない。「いつの間にか」じゃない。

 自分で意識できる、自分でも警戒しないといけないと思ってしまう、そんな本格的な危機感知からくる警戒音。

 

「……一部始終、ですか……?」

 

 辛うじて訊ねながら、いつの間にか立ち上がっていた自らの体を、いつでも駆け出せるようにするため、ゆっくりと、膝に力を込める。

 

「ああ。お前と『天の刻印者』のやり取り、その一部始終さ」

 

 置いてけぼりの雪音さんをそのままに、部長は――いや、灯河恭一は、少しだけ楽しげに答える。もしかしたら、オレが逃げるために膝に力を込めたのがわかっているのかもしれない。

 

「どうしてあなたが、天さんとのやり取りを見ることが出来てるんですか?」

「……それは、どうして俺があの世界に居たのか、って訊ねたいのか?」

「……そういうことですね」

「なに、簡単なことだよ――」

 

 灯河恭一はそういうと、組んでいた腕をほどいて、開いたままの右手をオレへと突き出す。

 

「――俺もまた刻印保持者……世界の秘密を知ろうとするものだからさ」

 

 発すると同時、右腕が僅かに蒼く輝く。中指と薬指、手の内と外の双方から肩口まで伸びる、合計四本の幻想的な蒼線。

 

「っ!」

 

 言葉を、発せ無い。

 制服が半袖故、あまりにも幻想的に映るその映像が、受け入れられない。

 だから言葉を、発せ無い。

 

 今更ながら改めて、天さんの言葉をあっさりと信じることが出来たのは、あの「白の世界」の効力なのだと理解出来ていた。

 

「さて、それじゃあさっそく、俺の話を聞いてもらおうか」

「……癒枝に関して、ですね」

 

 当の癒枝本人は先程から無言。……もしかしたら、彼女は何を言われるのか知っているのかもしれない。昨日アイツに相談した、その時から。

 

「ああ。……桐生、せっかく昨日覚悟してもらって悪いんだが、堀井をあきらめてくれないか」

 

 その時から、もし生き残ったらこう言うと、言われていたのかもしれない。

 

「…………」

「もし抵抗すると言うのなら、してくれて構わない。だがそうなると俺は、力ずくでお前と堀井を別れさせるだけの話しになるがな」

 

 返事をしないオレに、灯河恭一はそう言葉を続ける。

 

(……なぁ、癒枝)

(……なに?)

 

 無視されるかと思いながら心の中へと声をかけたが、癒枝は意外にも答えてくれた。

 

(オレがもし、このまま何の抵抗もせずにお前を差し出したら、どうする?)

(……どうもしないよ。だってあたしはもう、あんたに付いて行く事しか考えられないから。だからあんたが手放す、ってんなら、あたしはソレに従うだけよ)

(……お前は、お前の意地を張り通すんじゃなかったのか?)

(そうね……でもあたしの意地はあくまで、“あんたと離れたい”ことじゃない。“あんたにあたしのせいで不幸になってもらわない”ことよ)

 

 だからさっきまで無言だったのかと、ようやく気付いた。

 こうなることを知っていて尚何も言ってこなかったのは、オレへと全ての意志を託すため。

 

 託し、従うことで、オレの意志を尊重させ、満足のいく終わりを果たさせようとしているのだ。

 

 そうすれば少なくとも、自分の不甲斐なさでしか、後悔はしないだろうから。

 

(……それで、あんたはどうしたいの?)

 

 どうしたいのか……そんなもの、決まっている。

 

(オレはお前を、差し出す気なんて無い)

 

 だから癒枝の質問にも、力強く思い、答える。

 

(それじゃあたしも、ソレに協力するわ)

 

 それこそがオレを不幸にさせないためだと、言わんばかり。

 

「……部長――いや、灯河恭一。オレの答えは決まっている」

 

 力強くそいつの瞳を見つめながら、瞳の力強さに負けぬよう、強い意志を以って言葉を紡ぐ。

 

「オレは、癒枝を手放す気なんて無い」

「……ま、そうだろうとは思ったよ」

 

 呆れるように息を吐きながら答える灯河恭一。

 その様はまるで、オレのこの答えはわかりきっていると言わんばかり。わかりきっているが故に、愚かだと言わんばかり。

 

「それじゃさっそく、癒枝を頂こうかな」

 

 だが次の瞬間、目を細め、もたれ掛かっていたドアから離れ、両腕をダランと下げる。

 今までとは違う――いや、今まで見たことも無いその真剣な表情。

 中学のテニス部で対戦した時にも、オレと真剣にオセロを打つときも見せたことの無い、鋭く、視線だけで体が切り刻まれそうなその表情。

 

 獲物を見つけた鷹……? 目の前を歩く餌を見つけた虎……? 

 ……違う。そんな“生易しい視線(モノ)”じゃない。

 抵抗するもの全てを蹂躙しようとするその視線(め)は、本能だけで生きていくそんな生物の非じゃなかった。……思考と野望が宿った瞳は、あそこまでの視線を放つものなのだと、初めて知った。

 

 生物の中で一番恐いのは人間だという言葉の意味を、改めて知った。

 

 そんな目で睨みつけられている中、ここから逃げる方法を、考える。

 体中から噴出す冷や汗の気持ち悪さの中、必死に思考を廻らせる。震えそうになる膝を忘れ、ひたすら思考の中に自らを埋没させる。

 埋没させながらも視線を巡らせ、逃げる算段を立て始める。

 

 ふと気付けば、定位置に座っていた雪音さんの姿が無い。

 

「雪音ならいないぞ。なんせここは、俺が切り抜いた世界だからな」

 

 雪音さんの席へと向いたオレの視線に気付いたのか、灯河恭一が言葉を発する。

 

「……あんたが切り抜いた世界……?」

「ああ。言ったろ? 俺もまた刻印保持者だと」

 

 なるほど……手を掲げた時か……。

 あの時からいないことに気付かないほど、オレはこいつの姿に見入っていたということ、か……。

 

 オレの疑問に答えるこいつの言葉を聞きながら、そんなことを思う。

 

(……なあ癒枝、お前昔、格闘技やってたんだよな)

(そうだけど……それがどうしたの?)

 

 再び心の中にいる癒枝に声をかけつつ、塞がれている目の前の出入り口ではないもう一つの出入り口――黒板側のドアを視界に収める。

 

(身体さえ動かせりゃ、もう一度使えるか?)

(そりゃまぁ……多少のブランクはあるだろうけど、たぶん大丈夫よ)

(それで、目の前のアイツを倒すことは出来るか?)

(……わからない。部長の実力がわかんないし)

(じゃあ、倒すことは出来なくても、殴ったり蹴ったりすることに抵抗は無いか?)

(……大丈夫よ。それが、あんたの望みなら。あんたが不幸に感じないためだったら)

(……それじゃ、頼むよ)

 

 そこまで言うと一度、目を瞑る。

 そして、深呼吸。

 深く息を吸い、吐く……――瞬間、視界の端に収めたドアの方へと、駆け出した。