「なるほどね……そんなことが」

「はい」

 

 終始無言の癒枝に訊ねれば、最初は渋っていたものの、中に入るための近道だと教えてやれば教えても構わないと言ったので、高瀬さんには簡潔に話した。

 

「それで、その指環って訳か」

「はい。コレのおかげでオレの心の中に、いつもその死んだ子がいます。ちゃんと会話も出来ます――と、ここです。この上です」

 

 そう言うと、駆け上がるように土砂崩れの起きた場所へと近付く。一昨日とは違い完璧な道が出来ているが、生憎とまだ柵は出来ていない。……いや、好都合と見るべきか。

 

「とりあえず、ここから落ちてみようと思ってます」

「思ってますって……落ちて何も無かったら死ぬんじゃ……」

「まぁ、枝とかで衝撃も吸収されますし、大丈夫でしょう」

 

 答えながら崖へと近付き、下を見る。

 相変わらず広がっている闇。でもまだ辛うじて明るさがある今なら、あの時よりも恐怖を感じない。

 

「……わかった。それじゃあさっそく、飛び降りようか」

 

 高瀬さんも覚悟したのか、オレの隣に立ってそう声をかけてくる。

 

 オレはソレに対して頷きを返答にし――

 

「せぇ〜のっ!」

 

 ――互いに、同時に声を掛け合い、視界を闇に染めて、飛び降りた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「まったく……無茶なことしちゃうのねぇ〜……今死なれたら実験データ揃わないまま終わっちゃうじゃない」

 

 耳元で聞こえたその声に、勢いよく両目を見開く。

 

 するとそこは、やっぱり例のあの場所。

 果てに見えるは黒い線。地と空を覆うは白き円。

 そんな、相変わらずの場所に、オレは立っていた。

 そして真正面には、相変わらずの格好をした天さん。

 

「ええ、まぁ……癒枝が、あなたに会いたがってましたから」

 

 そう言うと、小指に嵌めていた指輪を薬指に嵌めなおし、左隣に癒枝の姿を現せさせる。……ふと、近くにいない、あの男性の影。

 

「ああ……あの男なら元の世界に戻ったわ」

 

 キョロキョロと探しているその姿だけで誰を探しているのかわかったのか、天さんはそのまま言葉を続ける。

 

「あの人にした実験は確かに、別世界から別世界への呼び込みよ。そして、ソレをスタート地点として据えた実験は、別世界に送り込まれてどのような心境の変化があるのだろうか、ってものなの。だから、もし死んじゃったら元の世界に戻って、またやり直せるの。ちなみに、この世界で体験したことは、全部夢として認識して、無意識下の記憶として保存されちゃうわ」

 

 オレの聞きたいこと全てを喋ってくれる。……これだけでもう、オレ達の行動が筒抜けだったのが丸分かりだ。

 

「それで癒枝ちゃん、あなたの用事ってのは何かしら?」

「……魔法使いさん、あなたならわかってるんじゃないの?」

 

 癒枝へと視線を向け、相変わらずの妖艶口調中性声で天さんは続ける。

 

「ええ、まあ。あなたが友人二人に内緒で話した内容も全部知ってるしねぇ……でもその内容を、せっかくあなたを左腕を犠牲にしてまで蘇らせた桐生君に教えないのは、ちょっと筋違いではなくて?」

「……わかったわ。……そう……あたしの用事はただ一つ――」

 

 癒枝はそこまで言うと、一度言葉を切り、息を大きく吸い込む。……それは、大声を上げるための呼吸ではなく、まるで覚悟を口にするかのような、そんな呼吸。

 

 そして彼女は、言った。

 

「――あたしを、消して欲しいの」

 

 そんな、衝撃的なことを。

 

「…………は?」

 

 思わず、そんな言葉が口から漏れ出た。

 

「……なに……言ってんだよ……お前……」

 

 ただ呆然と、現実を受け入れたくないと、心の中から悲鳴を上げている。

 ウソであって欲しいと叫んでいる。

 聞き間違いであって欲しいと訴えている。

 

 そのせいで、上手く口が回らない。

 そんなオレに向かって癒枝は、いつもの元気な瞳を打ち消し、覚悟と、オレを突き放すような色を携えて、言葉を紡ぐ。

 

「……あたしさ……気付いたんだ。あんたの枷になってるってね」

「……は……?」

「あんたのクラスの委員長、彼女とあんたの会話を聞いてて気付いたの。あたしじゃ、あんたを満足させられないって。……だってあたし、実体が無いんだよ? あくまであんたの左腕なんだよ? それじゃああんたの、手を繋いでやることも出来ないじゃん。あんたに体温あげることも出来ないじゃん」

「……なんで、委員長との会話で、そんなこと思うんだよ……」

「それは……あんた自身が気付かないといけないこと。あたしが口出ししちゃダメなの。」

「どうして……?」

「どうしてもよ、この朴念仁」

「……わかった……でもオレは、お前と手を繋げなくても良い。お前と一緒に入れるだけで良い。お前と、心さえ繋がってりゃ、それだけで良いんだ」

 

 流れそうになる涙を堪えながら、必死に言葉を紡ぐ。

 でも、そんなオレの言葉じゃあ、彼女の心は動かせない。

 癒枝は首を横に振り、それだけじゃないのと、続ける。

 

「あと、あたしという存在自体が……あなたの負担になってる」

「そんなことは、ない……!」

「そんなことあるよ。……あんたがあたしを追って死のうとしたとき、あんたの書いた遺書で大泣きしてたじゃん。あんたの妹さんとお母さんがさ。……あたしなんかと出会ったから、あたしなんかを追おうとしたから、あんたを大切に思ってる人に負担をかけてんじゃん。……それのどこが、あんたの負担になってないって言うの?」

「それは……」

「ね? あんたはさ、あたしなんかを追わずに、あたしなんかと一緒にいずに、あんたを大切にしてくれる家族と一緒にいればいいんだよ。あの、あったかい家族とさ」

「…………」

「それにさ、部長にも言われたの。お前は今の状況に満足してるのか、って。……ま、あんたにされた質問と一緒だね。それでま、満足してないって答えたから、こうなったんだけど……」

「…………」

「後はね……そう、ゆっきーにあんたのこと、全部任せたから。だからさ、そんなに気を落とさないでよ。これからは、あたしなんて抜きでも大丈夫。部長も、ゆっきーも、あんたの家族もいるんだから。あたし一人がいなくても、大丈夫だよ」

「……消えることが、本当に癒枝の望みなのか……?」

「……もちろんだよ」

「……オレに気を遣って、とかじゃないんだな……?」

「……あんたに気を遣う必要なんてないじゃん。ただあたしは、あんたに負担を掛けたくないだけよ」

「それは……気を遣ってるってことじゃないんだな……?」

「もちろんだよ。だって気を遣うってのは、自分の心に反して他人の心を尊重することでしょ? あたしのはあくまで、自分の心に反してないから」

 

 ……そうか……それが癒枝の意志なのなら、オレは尊重すべきなのかもしれない……。

 

 だってオレは、癒枝のことが、好きだから。

 好きな人の頼みごとなら、聞いてやるべきだろうから。

 

 ……でもそうなるとまた、オレはまた心がなくなってしまう。

 この外壁に塗られた癒枝の心の色が全て、剥がれ落ちてしまう。

 ガラスのような外壁に塗った、この白い色が。

 

 ……外壁に塗られた癒枝の色? 

 ガラスのような外壁? 

 ……何を言っているんだ、オレは。

 何を言っていたんだ、オレは。

 

 ……心覆うこの外壁もまた、心のうちの一つじゃないか。

 体表に現れていない以上、身体の中に存在して見えてない以上、それは心だってことじゃないか。

 

 つまりオレの心は、無いんじゃない。

 

 ただ、無色だっただけだ。

 

 無色だったから、他人に合わせることが出来ていた。

 無色だったから、癒枝の色を塗っていた。

 

 こうして冷静に、癒枝の死ぬ状況を受け入れ始めて――大切で大好きな人の死の告白を受けて、ようやく気付いた。

 

 自分の心の、認識の誤りに。

 

 そう、自分の心は無色なんだ。

 ……オレは癒枝が近くにいる時だけ、色を取り戻していただけなんだ。

 ……いや、違うか。……癒枝の強い色で、少しだけ自分を染めていたんだ。

 

 無色のオレだからこその、その行為。

 だから癒枝が近くにいなくなっただけで、オレは消えて無くなりたくなったんだ。

 癒枝と一緒にいることで染まっていた自分の色が、突然消失したから。

 また、無色の自分に戻ってしまうという恐怖感から。……無色でも堪えていた心は、癒枝と触れ合ううちに、堪えられなくなっていたんだ。

 

 だから……今までのオレの選択は、全てオレの意思じゃない。

 こうして自分の左腕を失くしてまで癒枝を取り戻したことも含めた全てが、だ。

 

 ……確かにオレが選択したかのように思える。……でもその実、無色の心に恐怖して死のうとしているオレが、また染まる心を手に入れられるという目の前の幸福から目を反らすことなんて出来なかったんだ。

 だからこれは、百パーセント選ぶことが分かりきっている質問も同じだったんだ。

 ……死のうと心は思っても、本能は死を拒否する。

 

 つまり、そういうこと。

 

 死にたくないから、左腕を犠牲にして、死なずに済む染まる心を手に入れようとしたんだ。

 

 だからオレは――ここで癒枝の望み通り、癒枝を解放してやるべきなのかもしれない。ソレが彼女自身が望むことであるのなら、むしろそれは当然のことなんだ。

 

「…………」

 

 ここからはそう……そんな自分の弱い心を受け入れて、立ち向い、先へ進むべきなんだ。……さっき出会った、高瀬さんのように。

 どんな恐怖が予測されようとも、立ち向うために……。

 

「…………ヤだ」

「……えっ……?」

「イヤだ……。オレは絶対、癒枝……お前を、手放さない」

 

 ――そう――

 

 だからこそオレは、癒枝を手放さない。

 

 だってそれこそがまた、オレの意志が介入していないことの証じゃないか。

 

 泣きそうになる心を押し潰し、流れそうになる涙を振り解き、力強い意思を以ってして、答えてやる。

 

「……今癒枝がいなくなっても、確かにオレは生きていけるかもしれない。今のオレはこうして、自分の心が無色だと言うことを知っている。そしてそれに、恐怖している。その昔とは違う自分なら、確かに生きていけるかもしれない。強くなろうとしている今なら、生きていけるかもしれない。でも……それだと結局、また逃げてるってことじゃないか。癒枝を手放すことで、癒枝がいることで襲いくる困難から、逃げようとしている」

 

 ……大好きな人が離れたいと言っているから尊重して離れてやる、そんな最大限の言い訳と共に。

 

 それじゃあ結局、またオレが、オレ自身の意思無く生きていくことと同義じゃないか。

 

「だからオレは、癒枝を手放さない」

 

 力強く、キッパリと、自らの瞳に自らの意志を灯し、癒枝へと告げる。

 ……そう。もうここからは、癒枝の心の色を染め借りた、透明な心じゃない。

 

 癒枝を手放したくないと足掻く、オレ自身の色に染めた心だ。

 

 癒枝を好きだとという感情から生まれた――オレ自身が生み出した、オレ唯一の心からの言葉だ。

 

 真似たとか、染まった色とか関係の無い、純粋なオレの気持ち――

 

「――オレ自身の意思で、こればかりは絶対に、曲げられない。失くせない。消すことなんて出来ない。たとえ癒枝、お前本人が望んでいることだとしてもだ! ……だから癒枝! もしお前が、本当にオレから離れたいってんなら、お前自身も努力しろ! オレがお前を手放しても大丈夫だと思えるように、お前自身の手段で! 今以上の努力を以ってして!」

「……とんだ暴君ね。あたしの意思なんて関係なく、あたしを束縛するって言うの?」

 

 戸惑いの色を携えた瞳で、癒枝はそんな疑問をぶつけてくる。

 

「ああ。残念ながら、ソレがオレの本当の意思だからな。長年失っていて、久しぶりに見つけた大切な、オレ自身の気持ち(こころ)だからな」

 

 それにオレは、相変わらずの、力強さで答える。

 

「でも……それは一時的で、逃げていることでしかないのよ? ……今のうちに、将来あなたを不幸にしてしまうあたしなんか、切り捨ててしまった方が良いんじゃないの?」

「お前を手放すこと以上の不幸が、オレにはまったく想像できない。だから今のオレが、一番幸せなんだ。……一時的? 逃げ道? そんなことはない。だってオレは、そうなってしまったお前と共に、襲い掛かる全てのものを退けて歩む覚悟がある。……正直、今までのオレは逃げ続けていた。でも、オレはもう、逃げない。逃げ続けて、心を無くして、それでも尚オレは逃げ続けていたけど、それも、ここまでだ。こっから先は、お前と共に歩み続ける。お前を全ての困難から守ってやる。それでもなお、逃げじゃない道を、歩み続けてやる!」

「それじゃあ絶対……後悔する。あんたは絶対後悔する! あたしは……桐生には、幸せになって欲しいのに……!」

「……だから、今が幸せだって言ってるだろ? それにさ、オレの幸せはオレが決めるさ。お前の幸せを、お前自身が決めようとしているようにな」

「あたし自身の……幸せ?」

 

 泣きそうな声、涙を流しそうな顔になりながらの、癒枝の言葉。

 

「だってそうだろ? ……こう言うと自意識過剰だろうが、お前が気付いてないようだから言わせてもらう。……今のお前の幸せは、オレの未来の幸せなんだろ? だから、お前なりに考えた結果、今の幸せにしがみつき、将来の幸せを見据えていないオレを遠ざけようとしてるんだろ? オレを将来の幸せに向かわせようとしてるんだろ? ……別にそれで構わんさ。何もオレだって、お前の幸せを“オレと一緒にいることにしろ”とまで言わない。……だからこっからは、意地の張り合いだ。今の幸せにしがみつくオレと、オレを未来の幸せに向かわせようとしているお前のな」

 

 そのオレの言葉に癒枝は、ただ静かに俯いて――

 

「……ああ……そっか……。……うん、確かにそうだね」

 

 ――そう、答えていた。

 

「うん。ホント、自意識過剰な発言。……別にあたし、あなたの未来の幸せなんて、望んでないよ。ただまぁ、その、あたしのせいで、あなたが不幸になるのが、たまらなくイヤなだけよ」

 

 その表情は、俯いているせいでまったく見えない。

 ただ手の甲で、目に当たる部分をこすっているだけ。

 ただ喉の奥から、嗚咽のようなものが漏れ出ているだけ。

 

「それで十分さ……。ああ。それで、十分だ」

 

 そう答えてやると、おもむろにオレは、その俯いている癒枝を抱きとめる。

 

「……オレはさ、癒枝。お前とこうなる前に死のうとしたとき、気付いたんだ。好きとか、愛し合うとか、そういうのってさ、互いに支えあうもんなんだよな。お前が生きてた時みたいに、オレが一方的に癒枝に支えてもらうだけじゃダメなんだ。だからもし、このままオレの幸せを願ったままお前が死ねば、結局オレは、お前に依存したままになる。……もう逃げないと覚悟を決めたなら、もうお前にも依存しないようにしないといけない。お前を支えることも出来ないといけない。だからこそ、共に歩んで欲しい。オレと共に。必ず、お前を支え続けるから」

 

 そして耳元でそう、呟いた。

 

「うん……ありがと……」

 

 胸の中から聞こえてくる、その言葉。

 

 聞こえてきて、思い出す。……いや、わかった、と言い換えるべきか。

 あの癒枝が死んだ、蠢く闇の中へと堕ちていっていた時の言葉を。

 

 堕ちていく中で呟いた、彼女の最後の言葉を。

 

「ああ……こちらこそ、ありがとう」

 

 ありがとう。

 

 その五文字こそ、彼女がオレに死ぬ間際に伝えたかった、言葉だったのだ。