☆★☆★☆

 

 

「それで、お前は堀井に何を言われた?」

 

 閉まった部室の扉を眺めながら、自らの妹へと兄は問う。

 

「…………」

「言い辛いことなのはわかる。でもどうか、教えて欲しい。これからのためにも」

「……これからのため?」

「そう、これからのためだ」

 

 真剣にそう言われた妹は、躊躇いながら、そして少しだけ落ち込みながら、口を開く。

 

「私に……桐生君を任せるって」

「…………」

 

 どういうことだと、視線に乗せて妹を見る。その視線を感じ取ったのか、彼女もまた言葉を続ける。

 

「昨日ね……桐生君に告白しようとする人見たり、家族の人見たりして、気付いたことがあるんだって」

「ああ……その話はさっき、俺も聞いた」

「そう……それでね、どうも癒枝ちゃん、私になら桐生君を任せられるからお願い、って」

「そうか……」

「ねぇ兄さん……こんな状態で私、癒枝ちゃんに何をしてやれるのかな……?」

「……雪音、そう思うならお前はもう、覚悟をしたのか?」

「覚悟……?」

「ああ。……桐生が死のうとしたときに訊いただろ? 罪の意識の中で生きていく覚悟――死んでしまった堀井から桐生を奪うという、たとえそうではないとわかっていても、無意識の中で感じてしまうその意識の中、アイツを支えていける覚悟があるのか?」

「それは……」

「……おそらく堀井も、お前がまだ覚悟できていないとわかったから、桐生を頼むと言ったんだろう」

 

 そうすることで、“桐生を奪う”だなんて意識を無くそうとした。

 そうすることで、あたしのことなんて気にすることは無いと、伝えたかった。

 

「だってアイツは……全てを見ていたんだからな……」

 

 ボソりと、口だけを動かしたかのような、兄の小さな呟き。

 

「ま、お前はその覚悟だけしておいてくれ。俺は俺の用事を済ませてくる」

 

 その呟きを聞き返される前に、彼はカバンを手に立ち上がり、部室から出て行こうと扉へと歩み寄る。

 

「用事?」

「ああ、ちょっと思うところがあってな。……何、安心しろ。俺はお前の味方だ。俺にとって何よりも大切なのはお前だ。だから雪音、お前はさっき言った覚悟だけを胸に抱け。それさえしてくれれば、俺は満足だ」

「……兄さん……?」

 

 さっきまでの雰囲気とは違う、その口調。

 まるで、ここから先は自分の足で進めと、言っているかのよう。

 ここからは助けてやれないと、言っているかのよう。

 だから妹は、訊ねようと思った。

 

「そうすりゃこれからも、俺は躊躇わずに進んでいける」

 

 だが兄はそれを無視するかのように、扉に手をかけたまま、再び独り言のように呟く。

 まるでその言葉の中には、確固たる意志にしようとしている、まだ不確かな意志があるかのよう。

 

 不確か故、悟られることであっさりと崩れ落ちそうな、その意思。

 

 ここから先は、引き戻さないと。

 ここから先は、後ろを振り返らないと。

 

 何に対する意志かは、当の妹にはわからない。

 

「それじゃ、また明日だ」

 

 不確かで確かなものにしようとしているその意志を妹に悟られる前に、扉にかけた手を動かし、兄は部室から退出した。

 

 閉まる扉の音の中、そこに残されたのは、覚悟を決めなければならない妹一人。

 

「さて……それじゃあ、案内してもらおうか」

 

 閉まる扉の音の外、そこに来たのは、意志を確固たるモノにしようと覚悟した兄一人。

 

「俺はお前の主人に、取引を持ち掛けたい。……何、お前らにとっても悪い話じゃないはずだ」

 

 外の世界に出たものは、見えぬはずの“わたし”に視線を合わせるため、天井と壁の繋ぎ目たる角を見上げながら、力強く言葉を紡ぐ。

 

「俺の培ってきたもの全てを対価に、俺の願いを叶えて欲しい――そう『天の刻印者』に伝えてくれ。……ずっと俺達を見てきた、そこにいる刻印者の下僕よ」

 

 

☆★☆★☆

 

 

「で、だ。早い段階から躓(つまづ)いちまった訳だが」

 

 すでに三度の山登り、でも今の時間じゃあ当然、注意を示すロープだけって訳にはいかない訳で……。

 

「そうねぇ……ここ以外からあそこに行く方法って無いの?」

「そりゃお前……そうなると、別のルートから山登って、頂上まで行ってから、ここに下山してくるしかねぇんじゃねぇの?」

 

 オレが自殺のために選んだ場所、そこからの方が天さんも見つけやすいのかもということで、そこへ向かうためにこうしてこの山へと訪れた訳だが……死のうとした時とは違い、今はまだ夕陽が沈みきっていない。

 ……部室に三十分ぐらいしかいなかったのがここにきて致命傷になったなぁ……。……まぁ、グダグダ言っても仕方ないか。

 

「んじゃあんた、さっさと山登りなさい」

「……はぁ? 何言ってんだ? お前。んなしんどいことやってられるかって」

 

 山を登りきるしかないって言った途端それですか……ホント、癒枝は相変わらず無茶を言ってくる。

 ちなみに今指輪を嵌めている指は薬指。ここに来るまでは小指だったのだが、山を登り始めてからは人気も無かったので、薬指に嵌めなおした。

 

「じゃあどうやってあそこまで行くのよ」

「まあ……妥当なところで、あの人が何処か行くまで、かな?」

 

 ロープから中へと侵入されぬよう見張っているのか、工事用のツナギを来た、深いシワが少しだけ刻まれたハゲの侵攻がまったく見当たらない三十代ぐらいのおじさんが、ロープの前に立っている。もしかしたら今もまだ土砂崩れで防がれた道を復旧させている途中なのかもしれない。

 

「そんなの待てないって!」

「待てなくても待てって! だいたい、お前は疲れないから山登れとか平気で言ってんだろ! オレは、普通に、疲れるの!」

 

 横合いの茂みに隠れながら、器用に小声で怒鳴り合う。

 

 さすがにこの茂みを突っ切って……なんてことは出来ない。

 あのロープを張られた先からは別で用意されたかのような坂になっており、このまま突っ切ったところで山の反対側に着くだけだ。

 

「あんたの疲れよりもあたしの目的よ! さぁゴーゴー!」

「だから無理だっての!」

「そこを何とか!」

「何とか出来るならやってる!」

「……雑魚キャラ」

「あぁ?! 今ボソッて何言った?!」

「べっつに〜」

「雑魚キャラって言っただろ、お前!」

「聞こえてんなら確認なんてしてこなくて良いじゃん!」

「お前の正直度を見極めてやったんだよ!」

「そんな必要まったくなかったでしょ! 相変わらず意味わかんない!」

「意味わかんねぇのはこっちだっての! お前自身が不可能なこと言ってるって自覚持てっての!」

「不可能なんかじゃありません〜! ただあんたが面倒くさがってやらないだけです〜!」

「面倒くさいとかじゃねぇっつってんだろ! このチビがほぉうおあ! ……テメェ……また都合悪くなったからって蹴りやがって……」

「都合悪いとかじゃないし。ただあんたがあたしのことチビとか言ったのが悪いだけよ」

「テメェ……これマジ痛ぇって……」

 

 正確に太ももの付け根狙ってきやがって……しゃがみ込んでる今でも相当辛い。これもしかしたら立てないんじゃないかと思えるほど勢い良く回し蹴り食らわせてきやがった……。

 

「君、そこで何してるんだい?」

 

 ふと、遠くから男性の声。近付いてくる足音。

 ソレが聞こえると同時、オレは咄嗟に指輪を外し、小指に嵌めなおす。

 

「いえ、別に。ただちょっと、この土砂崩れに巻き込まれた友人がいまして……」

 

 近付いてきた例の男性に、咄嗟にウソを続ける。

 

「それで、もし土砂崩れが直ってたら、手でも合わせようかと思いまして」

「それで、そんな茂みの中に?」

「ええ、まぁ……その……じつは、入れる場所がないか、探してたんです。危ないのはわかってたんですが、出来れば手を合わせたくて」

「……なるほどな。ま、今回は見逃してやるから、ぱっぱと帰りな。悪いがまた後日、直ってから来てくれ」

「そうですね。そうします」

 

 見た目は三十代のくせに、話し方が妙に若々しいその男性に別れを告げ、蹴られて痛い足を軽く引きずりながら下山する。

 

(ちょっと! 何で帰るのよ!)

(また後で来よう。そうしないと怪しまれるからさ)

 

 心の中で叫ぶ癒枝の言葉にそう返事をしつつ、心なしか急ぐように足を動かす。

 

「ちょっと、待ってくれないか」

 

 と、突然その男性に呼び止められた。もしかしたら内緒で入れてくるのかも、と思ったが――

 

「その右手の指環、誰から貰ったんだい?」

 

 ――違った。むしろ、何か悪い予感がするような質問を浴びせてきた。

 

「…………」

 

 首だけを向けていたが、体ごとその人に向けて対峙する。

 だって普通……こんな指環には目も留めないだろうから。現に今まで、癒枝のことを教えた部長や雪音さんを除けば、妹は母さんも含めて、誰もツッコんでこなかったから……。

 

 ……だからこその、違和感。

 この人だけ、目に留めてきたから。

 

「もしかして何だけど……白い世界に住んでいる人から貰った?」

「っ……!」

 

 動揺を表面に出しながら、後ずさる。

 何故か……このままこの人に関わっておくのは、危ない気がしたから……。

 

「おっ、ドンピシャかぁ……って言うか君、さっきから無言だなぁ……もしかして警戒してる? それなら安心して欲し……いんだけど、口で言っても信じてもらえないか……なぁ、君はどうしたら、僕のことが安心だと信じてくれる?」

「……そうですね。自己紹介でもしてくれたら、とりあえずは」

 

 ウソだ。また、ウソをついた。

 

 だってオレの足は、すでに逃げるための準備をしている。心の中の癒枝も今だけは、無言を以ってそのことに賛成の意を示してくれている。

 

 だからそう……後は目前に立っている男が話し始め、油断した時に勢い良くこの山を駆け下りるだけ。油断させるために、あいつ自身に自己紹介をさせる。

 

「わかった。それじゃあ自己紹介。僕の名前は高瀬亮平――」

 

 今だ!

 

 そう判断した刹那、駆け下りるために後ろを向く。

 

「――未来人さ」

 

 だが、その自らの足を動かす前に、その男から予想外な言葉が聞こえた。

 思わず足を、止めてしまう。

 

「ふぅ……逃げようとする判断は正しいんだろうけど……実際やられるとこれは……結構ショックだなぁ……」

 

 後ろ頭をかきながら男――高瀬さんとやらそうボヤき、続ける。

 

「で、だ。とりあえず、僕の話を聞いてくれる気になったのかな?」

 

 その言葉にオレは、ゆっくりと、彼の元へと足を進めるしかなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「とりあえずは、僕の言ってることは全て本当なのだと言う前提で話を聞いて欲しい。と言っても、僕が今から話すことは、全部白の世界に住んでいたあの女の人に聞いた話なんだけどね」

 

 太い木の根に向かい合うように座りながら、高瀬さんは口火を切って話し始めた。

 

「未来人……なんて言ったけど、実際僕は、本当に自分が未来から来たのかどうかなんてわからない。ただ、自分の住んでる世界に絶望して、他の世界に逃げたいと思ったときに、その女性に助けられただけなんだ」

 

 女性……というのはおそらく、天さんのことだろう。

 

「何でもその人の話では、僕は誰かが想像した世界の住人らしい。誰かが僕の破滅する世界を想像して創られた世界の住人……ややこしいだろうけど、その人曰く僕の世界は“葉”に当たるらしい。そして、僕の破滅する世界を想像した、その人が住んでいるこの世界を“枝”。……詰まるところ僕は、“葉”から“枝”へとやってきた養分のような存在なんだ」

 

 ……ってことは……この人は、誰かの想像上の人物だってことか……?

 

「こうして他の世界の住人を、他の世界に送る実験の一環として、僕はこの“枝”に当たる世界に飛ばされた。未来人、って言ったのは、僕が“葉”に当たる世界で聞いてたニュースが、そのままこの世界でも流れてたりしたからなんだ。……でもま、僕の世界よりもだいぶ別の結果になってたりしたけど」

 

 たぶんそのニュースですらも、この人を想像した誰かが考えた内容だからだろう。

 ……幾つか、気になることがあるなぁ……よし――

 

「――その、幾つか聞いても良いですか?」

「おっ、やっと口を開いてくれたな。んで、何だい? 質問って」

「その、自分の世界が“葉”に当たるって聞いたとき、ショックじゃありませんでした?」

「ああ〜……まぁ、確かに当時はショックだったかな……でも、この世界で生活していくうちに気にならなくなった、かな。元々、僕の世界に絶望したからここに来たんだし」

「……創られた存在だ、って知ってもですか?」

「まぁ、ね。それでもま、今はこうして生きてるんなら良いかなぁ、って。だってさ、この“枝”の世界の住人――まさに君の様な存在だって、神様の気紛れで生まれようなもんだろ? 今更ソレを聞いてショックなんてうける?」

 

 ……確かに……そんなことじゃあショックなんてうけない……。

 

 話し方に反してこの人、見た目どおり結構な大人なのかもしれない。

 

「それじゃあ、次。……高瀬さんのいた世界に、家族はいなかったんですか?」

「……家族全員を失って、それなのに社会のマスコミが僕を安静にしてくれなくて、だからこそ絶望してしまったんだ……」

「その……ごめんなさい。いらないこと聞いて」

「良いって良いって。多少暗めに言ってしまった僕が悪いんだけど、ま、そんな暗い顔しなくても大丈夫だから」

 

 もしかして……この人の見た目がこんなに年老いているのに、こんなに若々しい喋り方なのは……この世界でのこの人の年齢が、この喋り方と一致する年齢だからだろうか? 

 この人が将来、今話したような苦労をする想像をした人が、今この世界にいるってことなんじゃ……。

 

「ん? どうかしたか?」

「いえ、別に」

 

 ……気にしても、どうしようも出来ないか……――

 

「――それじゃあ肝心なことを訊きますが……どうしてこの指環が、天さん――白い世界の人のものだと思ったんですか?」

「何でだろ……なんかこう、感じたんだよね」

「感じた?」

「うん。これは、あの世界の人が渡したものなんだ、って」

 

 そんなことがあり得るのだろうか……? 

 本当に、そんな感じるだけってことは……。

 

「ほら君も、僕に話しかけられたとき警戒してたでしょ? もしかしてそういうのじゃないかな?」

 

 考えるオレに続く男性の言葉。

 ……でも……確かにそうなのかもしれない。

 普通、年上の人に話しかけられたぐらいで警戒なんてしないと思う。しかも逃げようと考えるほどに。

 無意識的に下山する速度が増している気がしたのは、もしかしたらそういうことなのかもしれない。

 

「……確かに、そうなのかもしれません」

「でしょ?」

「……一応、筋は通ってる気はしますね……それじゃあ最後の質問です」

「なに?」

「どうして、声をかけてきたんですか?」

 

 理由はなんとなく予測できている。

 でも一応、訊いておきたかった。

 

「……じつはね……その女性に会いたいんだよ」

「この世界に送ってきた、その白の世界の人にですか?」

「そう。だから、もしかして君なら、あの世界に行く方法を知っているんじゃないかと思ってね」

「……会って、どうするつもりですか……?」

「会って……そうだな……元の世界に、戻してもらいたいかな……」

「……どうして?」

「……こうして別の世界に逃げて、逃げて、逃げ続けて、気付いたんだ。僕には立ち向う勇気が無かったんだって」

「えっ? でもその世界は、誰かの想像の上で……」

「そう……だからもしかしたら、戻ったところで意味なんてないのかもしれない。幾重もの不幸がまた襲ってくるだけなのかもしれない。でも……そんな状況に遭おうとも、僕はその状況に立ち向っていきたいんだ」

「……どうして、ですか?」

「やっぱり……死んでしまったとは言え向こうの世界にしか、僕の妻はいないからね」

 

 そう言って、力なく微笑む。

 だがその意志は、とても強固なもののように感じる。

 どんな困難があろうとも立ち向う。そう覚悟している、そんな意志が。

 

「……オレの名前は、小野山桐生です」

「ん?」

「まだ、名乗って無かったですからね。……その、オレ達もまだ、絶対にいける方法を知ってる訳じゃないんです。ただ、行けるかもしれない方法があります。それを試したいがために、ここに足を運んだに過ぎません」

「……ああ〜……ごめん。その前に、オレ“達”ってのは、なに?」

「その辺の話は、山を登りながらしましょう。このロープの先、行っても良いですか?。」

「……その先に付いて行けば、あの女の人に会えるのかい?」

「会える可能性があるだけです」

「……なら、一緒に行かせてもらっても――」

「構いません。むしろ、一緒に来てください」

 

 男性の言葉を遮りながらそう言うと、オレ達はどちらからともなく立ち上がり、ロープをくぐって先へと進みだした。