残った仕事を片付けにいかないと。

 

 オレの謝罪を受け止め、これからはこんなバカなこと考えないでよね、と微笑みを携え、妹をなだめた後、母さんはそう言うと仕事に戻っていった。……たぶん今日は一緒に晩飯食えないな……いつもは九時頃になるとは言え一緒に食ってたのにな……。

 

 妹はそのまま風呂に入ってしまったようだし……今なら癒枝を戻しても大丈夫かな。

 

「よっ、待たせたな」

 

 部屋に戻り、指環を薬指に嵌めなおして癒枝を元に戻す。長い時間こうしてやれなかったことに文句を言われまくる! 

 ……かと思ったが、癒枝はすぐにオレのベッドへと横たわり、全ての元気を吐き出すかのように、深いため息。

 

「……どうかしたのか? 癒枝」

 

 長い間こうなれなかったことに落ち込んでいる……とは思えない。だって癒枝の性格上、そうなるなんてことはないだろうから。

 

「……うん。その、さ……あんま言いたくは無いんだけど……」

「あ? 何で言いたくないんだ?」

「なぁんか……アンタのプライバシーを侵害しちゃったような気がしてね……」

「プライバシー?」

「そ。……あのさ、じつは……アンタの指環が小指に嵌ってる間、ずっとあんたの視界を通して状況が見えてたんだよね……」

「ん? ……それって、どういうことだ……?」

「つまり、あんたがあたしの姿を消してる間ずっと、あんたが何してたのか、何を見てたのかが見えてたってこと。さらに付け加えるなら、あんたが何を考えてたのかも全部流れ込んできてたわ」

「……なんで?」

「そんなの、あたしが知るわけ無いじゃない」

 

 まだ頭がついてこない……。

 ……えっと……つまり、小指に指環を嵌めてる間は、オレの考え事が全て筒抜けで、オレの見ているものが全部見えてて、だからプライバシーの侵害になるかもって言ってるわけで……。

 ……ってことはアレ? オレがトイレ行ってる時も全部見られてたってことか……?

 

「…………」

「……なに? こっちずっと見て。気持ち悪いんだけど」

「いや……別に……と言うかそこまで言うのは酷くないか?!」

 

 さすがにそのことを訊ねるのは憚れる(はばかれる)。と言うか、どんな答えであれどちらも得しない気もするし……ここは大人しくしておこう。

 

 ……と言うか……視界と心をずっと見られてるのか……別にやましいことはないから大丈夫だが……小指に嵌めた途端どうし……って……そうか――

 

「――小指だからこそ、そんなことになったんだ」

「は?」

 

 いやそんな睨むなよ。さっきまでジッと見てたのは心の中で謝るから。

 と言うか何でお前がそんなに不機嫌なんだよ。普通不機嫌なんのはオレの方だろ。何か? お前が何か考えてる時に質問したのが悪いのか?

 

「いやだから、小指に指環を嵌めたからそうなってたんだって。……つまり、嵌める指によって癒枝に及ぶ効果が違うって事なんだよ」

 

 目つきのキツいロリ少女の疑問に、内心の怒りを抑えながら答えてやると、昨日からそのままの少しだけ散らかった部屋を見回す。

 

「……何探してんの?」

「天さんに貰った広辞苑ぐらい分厚いあの説明書だよ。……と、あったあった」

 

 ついさっきまで忘れていた探し物は、何故か勉強机のど真ん中にドンと置かれていた。ソレを手に取――ろうとして落とした。

 

「ぐっ……!」

「はぁ〜っはっはっはっは……ダッサ! 超ダサッ! 何落としてんのよ! そんな本ぐらい持てる力付けろっての!」

「うっせぇ〜……」

 

 しかも足の小指に角が突き刺さった……めちゃめちゃ痛ぇ。

 間違いなく一機減った。早急にコイン百枚取らないと。

 

「あんたソレでも運動部? バッカじゃないの?!」

「ウッゼェ! プラスうっせぇ! 誰のせいで落としたと思ってんだよ!」

「……は?」

「お前のせいだっての! お前がっ!! そうしてっ!! 具現化っ!! してるからっ!! 力がっ!! 入んねぇだってぇのっ!!!」

 

 さっき抑えた分も合わさって、一言一言をかなり強くして言ってやる。なんて言い返されるのか……と覚悟したのだが、癒枝は何も言い返してこなかった。

 

「ちょ……どうしたんだよ、癒枝」

「……べっつにぃ〜。ただ、何も言い返す気力が無くなっただけ〜」

 

 オレの言葉に何のないことのように答える癒枝。でもその声にはやっぱり元気はなく……でも窓際を見るように体を動かしたので、その表情は見えない。

 

 ……そんなにオレのプライバシーのことを気にしてんのか……? 癒枝がそんな奴には思えないんだが……まぁ、解決手段でも見つけてやれば元気出るだろ。

 

 落とした説明書を今度は右手で広い上げ、カーペットの上にあぐらを掻いてページを捲り始める。

 

「……も……?」

 

 ページ一枚全てを使って大きく書かれていたのは、ひらがなの“も”。

 ……わけがわからない。とりあえず次のページも捲ってみる。

 

「……く、じ……?」

 

 見開きを使って書かれていたのは、そんな二文字。……三つ合わせて“もくじ”……。

 ……もしかして……。

 

 パラパラパラ……と大まかに内容を確認してい――こうとして、愕然とした。

 

「読み辛ぇよっ!」

 

 なんて本を渡すんだ……あの人は……一ページ一ページに一文字ずつって……。

 

「どうかした?」

 

 オレのツッコミが気になったのか、癒枝が寝転んだままこちらを向き、声をかけてきた。。

 

「いやな、この説明書。一ページに一文字ずつしか書いてねぇんだよ」

 

 ポン、とベッドの上に置いてやる。

 

 癒枝はパラパラパラ……と寝転んで横を向いた体勢のまま、オレと同じようにページを捲っていく。

 

「ホントだ……読み辛…………ねぇ、これってもしかして、指環の説明?」

「あ?」

 

 癒枝のその言葉に、上からその開いているページを見る。最後のページ……そこには確かに、普通より少し細かめの文字で何かが書かれていた。

 

「ん〜? 何て書いてるんだ?」

「えっと……指の効力について……って書いてる」

 

 体を少しだけ動かし、肘を付いて寝転ぶような体勢で本を広げてくれる。おかげでさっきよりも見易い。

 

 えっと……何か五つ、箇条書きみたいな形で書いてんな。なになに……。

 

『壱の指は根。故にここに存在する時、その者の意識は断たれるだろう』

『弐の指は他。故にここに存在し他者を指差す時、その者は対象者と疎通を図ることを許される』

『参の指は宿。故にここに存在する時、その者は契約者の身体を間借りすることを許される』

『四の指は絆。故にここに存在する時、その者は契約者の一部として世界に干渉することを許される』

『伍の指は心。故にここに存在する時、その者は契約者と視心を共にすることを許される』

 

 ……か……。

 ……えっと……癒枝の話とか薬指の効力から察するに、“四の指”は薬指、“伍の指”は小指ってとこか……。

 

「……ってことは、アンタは日頃から親指に嵌めてりゃ良いんだ」

 

 癒枝もそれぞれの指がどれかわかったのか、そんなことを言い出した。

 何で? と視線で問うと答えてくれた。

 

「だってそうすりゃ、今日みたいにあんたの見てるものとか思ってること、まったくわかんなくて良いじゃない。壱の指ってのはたぶん、親指のことだろうし」

「ああ……なるほどね。……でもま、わかっててもそんなことしないけど」

「……なんで?」

「だってそんなことする必要ないし。癒枝に対してやましいことも何にも無いのに、そんなことする必要性なんてまったく感じない」

 

 オレのその答えに癒枝は、ただ無言。

 ただどこか、考えるような、沈むような、そんな曖昧な表情を浮かべるのみ。

 ……んん〜……解決手段を見つけてやったのに元気出ねぇなぁ……やっぱ、この親指に嵌める、ってのを、実行してやらんといけないのかねぇ。オレ自身は不服だけど、癒枝はそうされることを望んでるみたいだし……

 

「…………」

 

 でも……そうはわかってても、やっぱり実行したくない。

 だってそんなことをすれば、何のために癒枝をこんな状態とはいえ蘇らせたのかわからないから。

 

 それに何より……もう癒枝とは、離れ離れになりたくないし……。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 翌日、相変わらず朝だけ異常に調子の悪い癒枝を小指に指環を嵌めて消し、登校。

 

 委員長と普通に挨拶をし、その後何のトラブルも起きることなく、脳内へと勉強内容を刻み込んで一日の授業を終えた放課後。

 

 所属している硬式テニス部は今週一杯まで休みなので、その足でオセロ部の部室へと向かう。

 

 中に入ると、すでに部長と雪音さんの姿。とりあえず挨拶をして自分の定位置に腰掛け、昨日の夜から元気のない癒枝を、薬指に指環を嵌めることで具現化する。

 

「とりあえず指環、人差し指に嵌めてくんない? そんで、その指をゆっきーに向けといて」

 

 具現化するや否や、癒枝がそんな要求をしてきた。

 

「……どうして?」

「どうしても。イイから早く」

 

 オレの疑問に答える気は無いのか、自らの顎をクイッと雪音さんの方へと向けて存外な口調で言ってくる。

 

 ……まぁ良いか。確か人差し指の効果って、指差した人と意思疎通が出来る、って内容だったはず。まぁ、女同士でしか話せないこともあるんだろう。

 

 言われた通り指環を人差し指に嵌め直し、その指先を雪音さんへと向ける。

 

「……わっ!」

 

 心の中で会話でもしているのだろう。

 突然癒枝の声が心の中に聞こえてきたのか、驚きの声が雪音さんの口からもれ出る。

 

 だがその後は終始無言。

 両目を閉じ、真剣な雰囲気を身に纏ったこの美しい女性は、僅かに頷いたり、驚いたのか僅かに口が開いたりするのみ。

 

「……何をしてるんだ? これは」

 

 その様子に疑問を抱くのは当然のことで、部長はそう訊ねてきた。

 

「心の中で会話してるんですよ。なんかこの指環、嵌める指によって効果が違うみたいで」

「ほぉ……なぁ、それって俺にも出来るのか?」

「と、言いますと?」

「俺も、今の雪音みたいに、癒枝とああして会話できるのかってことだよ」

「ああ……そりゃまぁ、全然出来ますけど」

 

 この指先を部長に向けるだけだし。

 

「じゃ、次は俺な」

「何か内緒話ですか?」

「そうでも無いんだが……ま、色々聞いておきたくてな。ま、後で堀井本人にでも聞いてくれ」

 

 部長はそう答えるとオセロ盤を取り出し、一人で勝手にコマを並べ始める。

 

「さて……それじゃあ桐生、あの日の続きといくか」

「あの日の続き……?」

 

 並べ終えたのか、盤を指差して部長はそんなことを言ってくる。

 が、あの日がどの日を指しているのかまったくわからない。

 疑問を口にしたオレの言葉に部長は、だからあの日だよ、と言葉を続ける。

 

「山登りの時、堀井と雪音を待ってる時にしたあの続きだよ」

 

 言われて、あぁ、と思い出す。

 

「そう言えば……なんか、色々あって忘れてました」

「だろうと思った。ほら、確かあの時はお前で手が止まったはずだ。コマの配置は終わってるし、さっさと置け。……これで、最後になるかもしれんがな」

「えっ?」

「何でもない。良いから早く置け」

 

 さっき僅かに聞こえた最後の言葉の意味が気になるが、急かされたのでとりあえずは盤をジックリと見る。

 するとその時の記憶が蘇ってきたのか、あの日、山を登りながら考えていた自分の次の一手を思い出してきた。

 ココに置いたら部長はココに置きに来る……だからその次はココに……といった具合に。

 

「わかりました。それじゃあ部長、いきますよ」

 

 思い出した場所の通り、オレはコマを置く。そして部長の黒を、自分の白にする。

 

「ああ。かなり時間は開いちまったが、再開だ」

 

 部長は迷い無く自らのコマを置き、オレの白を黒に変えていく。

 ……何か、本当に懐かしい。

 それほどまでにオレは、密度の高い非日常をすごしてきたんだなと、改めて再認識してしまうほどに。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 ……負けた……。惨敗だ……。

 

 まさか負けるとはなぁ……でも今回は、結構良い所までいった方だとは思う。

 でも正直、敗因がまったくわからない。

 まさか右手で打ったから……とか? ……いや関係ないのはわかってるけど。

 

「桐生くん……」

 

 と、部長に今回はどこかダメだったのか訊こうとしたら、雪音さんに声をかけられた。

 

「その、癒枝ちゃんが、もう大丈夫だって」

「あ、ありがとうございます。……それじゃあ部長、癒枝と話しますか?」

「そうだな……それじゃあ頼む」

 

 雪音さんの言葉に返事をし、そのまま部長へと指先を向ける。

 そのままの状態でコマを片付けながら、雪音さんと一緒にしようかと声をかけ――

 

「…………」

 

 ――ようと思ったけど、やめておく。

 ……何を癒枝に言われたのかはわからないが、何か深くショックを受けてるような、でもそれでいて何処か照れているような、そんな複雑な表情を見せられたら声をかけることも出来ない。

 

「…………」

「っ……!」

 

 ジッと見つめていることに気付かれたのか、こちらをチラりと見る。

 が、瞬間視線を逸らされ、先程の表情を如実に表してしまっている。

 ……もしかして、オレのことで何か言われたのか……?

 

「その――」

「よしっ、桐生。ありがとう」

 

 どうかしたのかと、声をかけようとしたら部長に止められた。

 

「癒枝が小指に指環を戻してくれってさ」

「……わかりました」

 

 続く部長の言葉で完璧にタイミングを逃した。……んまぁ仕方ない。また機会があるだろう。

 

(それじゃああんた、さっさと行くわよ)

「ぬえっ?!」

 

 頭の中で響く突然の声。思わず変な声を上げてしまう。

 

(どうかした?)

「いやまさか……頭の中に直接声が聞こえてくるなんて……」

(だって小指の効果って視界と心の共有でしょ? だったら、あたしが思ったことを直接あんたに伝えることも出来るってことじゃない)

 

 言われてみればそうだ……ってことは、別に口に出して答えていく必要もないって訳か……。

 

(んじゃ改めて)

 

 心の中から、心の中にいる癒枝へと声をかける。

 

(どうしてここを出て行く必要があるんだ?)

(は? 簡単じゃない。あの人に会いに行くのよ)

(あの人? 会いに行く?)

(そ。あたしをこうしてくれた、あの魔法使いにね)

(……どうやって?)

(あの山に行くの。やっぱあたしの目に狂いは無かった。たぶんあそこからなら、あの人に会いにいけるに違いないわ!)

(……たぶん無理だと思うけどなぁ……だってアレ、オレが死にそうになったタイミングで助けてくれたし……実験の媒介にするために)

(だからこそよ。……いい? あの人ああんたを使って実験してる。でもその実験してるやつが、もし何の結果も残さず死のうとしたら……どうすると思う?)

(そりゃ……ああ、なるほどね。癒枝にしては考えてるなぁ……)

(あたしにしては、ってのが気になるけど……でもこれ、部長さんの入れ知恵。相談したら教えてくれた)

(なるほど……さすが部長。って言うか、何でまた会いに行くんだ?)

(それは……ま、着いてからのお楽しみ)

 

 ……わかんない……が、まぁ、癒枝に少しだけ元気が戻ってるから良しとするか。

 

(わかった……んじゃま、行こうか)

 

 もし行かないと言ったら、また昨日の晩から今の今までみたいに元気なくすかもしれないし。ここは元気な癒枝のため、癒枝の言う通りに行動してやるのが正解だろう。

 

「それじゃあ部長、雪音さん。スイマセンが、お先に失礼します」

「おぅ! 気ぃつけてな」

「はい、また明日……」

 

 片手を上げていつも通りの元気で挨拶してくる部長と、少しだけ沈んだように見える雪音さんに見送られ、オレは部室を後にした。