翌日、昨夜のことなんてなんのその、本人曰く低血圧のせいで異様な行動ばかり起こした癒枝――起きて早々朝ご飯とか言って枕噛り付いたり、連れて行った洗面所の水をガブ飲みしたりしだした存在――を、指環を小指に嵌めることで消して登校。
「……おはよう、桐生くん」
と、教室に入るなり、クラス委員長の皆口涼子に挨拶された。
「うん、おはよう、委員長」
前回の終業式まで毎朝恒例になっていた朝の挨拶。……と言っても、オレだけにしてくれている訳じゃない。
彼女はクラス委員長に就任してから、毎朝教室に入ってくる全クラスメイトに、こうして朝の挨拶をしている。
そのせいか、彼女の人気はこのクラス内だけとはいえ異様に高い。朝の挨拶を皆にする愛想の良さと、その整った見た目の成せる業か……。
艶のある肩の後ろまで伸びた髪、整った眉と優しい瞳、笑った時に見せる表情はさながら子供のよう。
男女共に人気が高いのは、皆に挨拶するその気遣いとその裏表の無い笑顔なんだろうと思う。
「……うん、良かった」
挨拶を返したオレをマジマジと見た後、彼女はそんな呟きを漏らしていた。
「なにが?」
その呟きの意味がわからず思わず訊ね返したオレに、彼女は手をパタパタとしながら、いやね、と答えを口にする。
「一昨日の桐生くん、元気なかったじゃん? それで昨日は学校まで休んじゃうから、もしかしてまだケガが完治してなくて、辛くて元気なかったのかなぁ……って思ってた。まぁでも今日は元気良く挨拶返してくれたけど」
「元気良く? そんなことも無いと思うが……」
「いんや。夏休み前に交わした挨拶と寸分変わらぬ返しだったね。だから元気がある、ってことだっしょ?」
「それで、良かったって?」
「そりゃ当然じゃん。元気は無いよりある方が良いじゃん。お金と一緒だよ。あればあるほど、周りにばら撒けば撒くほど、皆が元気になるっ」
元気とお金が一緒ってのは同意しかねるが……まぁ確かに、無いよりはあったほうが良いし、周りにばら撒けば撒くほど良いか。
「んで、何で一昨日は元気なかったの? やっぱ体調悪かった?」
「うん、そんなとこだよ。ゴメンね、心配かけて」
委員長の質問に対して、さすがに、一昨日は世界に絶望して死のうとしてたから元気なかったんだ! とは言えないしな……お茶を濁すしかない。
「それは良かった……んでさ、その、桐生くん」
と、突然今までのノリとは違い、少しだけ真剣みのある口調に変わった。
「急でゴメンなんだけどさ、今日の放課後、時間ある?」
「時間? ……んん〜……」
「ダメかな? 無理なら明日とかでも良いんだけど……」
「いや、オセロ部に顔出した後なら大丈夫なんだけど……」
「そっか。んじゃあそれからで良いや。私今日も部活あるし、ちょうどその後にでも」
「それは良いんだけど……何かあんの?」
「う〜ん……まぁ、ちょっと話したいことがあるだけ」
「ふ〜ん……わかった。んじゃ、校門前で待ち合わせで」
「おけ。んじゃそれで」
そんじゃ今日もヨロシクねぇ〜、なんて言葉を残し、手を振りながら教室前に移動しようとして誰かの机にぶつかってこけそうになったりツンのめって顔からこけそうになるのを何とか両手で机を支えることで持ちこたえたりしながら、何とか移動を果たして教室に入ってくるクラスメイトに再び朝の挨拶をし始めた。……微妙にドジだなぁ……あの人。
う〜ん……にしても、話したいことかぁ……もしかして癒枝のことだろうか?
周りに気を遣いまくる彼女のことだから、たぶん励まそうとしてるんだろう。……クラス委員だからって、そこまで気張らなくても良いと思うんだけどな……。
◇◆◇◆◇
今日は普通に授業が頭に入ったな……なんてちょっとした達成感に浸りながらの放課後。
見えないとはいえ、癒枝がこの世界に戻ってきて、しかも常に近くにいてくれるというだけで、癒枝が死ぬ前の調子に戻れる自分は、本当は調子乗りなのかもしれない。
と、オセロ部の部室前に到着。昨日は部長に無期限休部中といわれたが……癒枝が戻ってきた今――世界から無くなろうとしていない今なら、その休部も取り消してくれると思う。
だってあの時は、死ぬためにケジメをつけようとしていたオレを止めるために、言ってきただけだろうから。
「失礼しまーす」
ガラッと部室のドアを開け、中に入る。そこには部長と雪音さん、二人が向かい合うように座ってオセロを打っていた。
「……よう。どうやら、まだ死んでないようだな」
椅子に座ったまま、昨日休部を告げた時と同じ「オレだけを見透かしているような視線」で、部長はそんな言葉をかけてきた。
……腹を括れと、自らに念じる。
見透かしてくれているなら、心の全てを見せてやれと、己を鼓舞する。
そしてそのまま、口を開く。
「……ええ。死ねない理由が、出来ましたから」
「死ねない理由?」
「はい」
力強く返事をしたオレの瞳を、試すかのような瞳で見つめてくる。
「…………」
「…………」
オレはただ、何も言わず、その視線を真正面から受け止める。
「…………」
「…………」
こちらからは、絶対に逸らさない。それこそが、オレがまだ、ここで生きていきたいと願っている、そんな答えになるような気がしたから。
「…………ま、覚悟は本当のようだな。……良いだろう、桐生。お前の休部、取り消してやる」
……ふぅ……どうやらオレは、部長のご希望に添えることが出来たようだ。安心し、思わずため息が口から漏れ出る。
「それで、死ねない理由ってのは何なんだ?」
「あ、はい。今見せますね」
部長の言葉に返事をしながら、部長の隣に腰掛ける。
「その、桐生くん」
「ん?」
と、腰掛けたところで、部長の向かいに座っていた雪音さんに声をかけられた。
「……おかえりなさい」
「……はい。ただ今戻りました」
たったそれだけのやりとり。それでも、うれしいことに変わりは無い。好きな人に声をかけられたんだから。
……癒枝を好きと自覚して、それでも雪音さんを好きなこの気持ちが変わらない……そんな自分の二股精神で訪れていた罪悪感のせいで、自分から言葉をかけれなかったのだが……。
昔は、好きな気持ちからくるテレで話しかけれなかった。
でも今は、罪悪感のせいで話しかけれなくなった。
……この気持ちはたぶん、時間が解決してくれるだろう。
だって……オレは癒枝のことが、大好きだから。
だから……雪音さんに抱いていたあの初恋心は、癒枝に抱いているこの愛情で、上書きされていくだろうから……。
「……どうかしましたか?」
「いえ、別に」
思わず見つめていた視線を慌てて逸らす。
そしてふと、思う。
……どうして、見つめていたんだろう……? と。
考え事をしていたから……? おかえりなさいと言ってくれてうれしかったから……? ……それとも……時間が解決してくれると思ったときに、とてつもない淋しさで、心の中が抉られたから……?
「そ、それじゃあとりあえず、コレを見てください」
そんな自分自身の心を誤魔化すため、オレは急いで話を進める。
「指環……か?」
「はい、そうです。……まぁ、見ててください」
左手の小指に嵌めたままのソレを軽く掲げて見せ、次いで小指から外して薬指に嵌めなおす。
すると、左腕から力の抜ける感覚。
ダランと、力なく腕が下がる。
だが同時に、オレの左隣――オレと部長の間に、目を凝らせば透けて向こう側が見える体をした癒枝が現れた。
「…………」
「……えっ?」
目を見開いて驚く部長と、何が起きたのか理解できないながらも驚いている雪音さんの反応を眺めながら、オレは、信じられないでしょうけど、と前置きをして、昨日死のうとしてから起きた全ての出来事を話し始めた。
◇◆◇◆◇
全てを話し終えても部長は無言。話している途中も無言。
まさに終始無言で、ずっと何かを考えているようだった。
対して雪音さんは、所々に相槌を打ちながらも会話の流れも止めず聞いていてくれた。
……双子でもここまでの違いが出るのか……。
「……なぁ、桐生」
と、今まで無言だった部長が話しかけてきた。
「どうしました、部長」
「一つ訊きたいんだが……お前は、今の状況で満足なのか?」
今の状況……それはこの、癒枝が自分の傍から離れられない状況を指して言っているのだろうか……?
それとも……一人で生きていかない子の状況を指して言っているのだろうか……?
……まぁ、良いか。どちらにしたってオレは――
「――はい。現状に、満足しています」
癒枝がいる今の状況は、癒枝がいなかったあの状況よりも、満足しているのだから。
たとえソレが、弱いままと罵られることになろうとも。
「……そうか。ま、当の本人がそう言うなら、今のところオレから口出しすることは何もないさ」
部長は微笑を携えながらそう言うと、椅子に思いっきり背を預けた。そして、表の微笑とは別に、裏では冷静に何かを考え始める。
……でも、どうやら一応は納得してくれたみたいだ。
「あの、スイマセン。これってホントに癒枝ちゃんですか?」
「“これ”って扱いは酷くない? ゆっきー」
指差しながらの雪音さんの疑問に、その指を手の甲で払いながら癒枝。
触れられたことで驚いたのか、わっ、と声を上げて指を引っ込めてから続ける。
「……触られた。……それとさっきの反応……間違いない……」
「ちょっと、何処で判断してんのよ」
「……へぇ〜……世の中には不思議なこともあるもんですねぇ〜……」
「ゆっきーちょっと、無視ってのはどういうことかしら? えぇ?」
机と机の僅かな隙間を移動して、雪音さんのほっぺを両方から引っ張る。……とても先輩に向ける所業とは思えない。
「まあまあ癒枝、そこは落ち着け」
「ははひぃへぇふはぁはひぃ〜」
「ほら、雪音さんも“放してください”って言ってるし」
「よく理解できたわね……アンタ」
呟きながらも、ちゃんと手を離す。それが癒枝だ。
「ん〜……にしても、これって桐生くんの左腕の質量分なんですよね?」
「あ、はい」
雪音さんの質問に答えながら、左腕を掲げて見せようとするが、やっぱり力は入らない。
……ちなみに、部長と雪音さんの二人には、左腕が義手になったことはさすがに言ってない。……何か痛々しいし。
「それが、どうかしたんですか?」
「う〜ん……ちょっと思ったことなんですけど、つまり癒枝ちゃんは、桐生くんの左腕そのものってことですよね?」
「まぁ、そうなりますね」
「それで、桐生くんは左利き……」
「……はい。でも、それが何か……?」
「いえ……ちょっとした疑問なんですけど……桐生くん、トイレの時ってどうしてますか?」
「うえっ?!」
ちょっと予想外の人から予想外の質問がきた。答えに戸惑るオレに、尚も雪音さんは言葉を続ける。
「それに、お風呂の時、着替える時、部活動の時、自家発電の時、全部一緒ってことですよね?」
「いやあの、さすがに女性が自家発電とか口にするのは……」
「で、どうなんですか?」
「いやあの、ほら、ソレはアレですよ。別の指にこの指環を嵌めたら、癒枝は消えちゃうんで。その時にでも……」
「ってことはアレなのね。アンタが突然あたしを消した時は……その……そういうことをしてるときだ、ってことよね……」
と、ここで口を挟んできたのは癒枝。
「おまっ! そこで口挟むなよっ! っつか顔真っ赤にするぐらいなら話に無理矢理入ってくるなよ!」
思わず、白い肌を真っ赤にしている癒枝に怒鳴ってしまう。
「大丈夫……大丈夫よ……。あたし、気は遣える女だから……」
「今その発言の時点で気ぃ遣えてねぇよなぁっ!」
「たとえ何を……その、オカズにしてたって、ヒかない自信はあるから」
なおも顔を真っ赤にしながらそんなことを言ってくる。
……が、もうさすがに言い返す気力もない。
オレも部長と同じように、椅子の背に全体重を預ける。……もっともオレの場合は、疲れて、なんだけど。
そうしながら、部室の全体を眺めて、思った。
やっぱり癒枝がいてくれて良かった、と。癒枝が蘇ってくれて良かったと。
いてくれるだけで、こんなにも満たされた気分になるのだと。
部室の外から運動場を眺めて何かを考えている部長。顔を真っ赤にしながらいかに自分が気を遣えるか主張している癒枝。その癒枝に消されてる時はこんなことしてんじゃないと話し続ける雪音さん。
……そう、これこそが、オレの日常。
オレの過ごしたい世界。
左腕を犠牲にしてまで取り戻した世界。
……開けた窓から入る風が心地良い。夏休みが終わったとは言え、まだまだ暑いことに変わりは無い。
……そう。これからなんだ。
これからまたオレは、この皆と一緒に、楽しい時を過ごすことが出来るんだ。
楽しくて、他人から見たらどうでも良い、オレにとってはとても貴重な、この日常を。