「えっ?!」

 

 耳元から聞こえたその言葉。思わず視界に塗った闇を払拭してしまう。

 

 堕ちるという恐怖を払拭するために塗った闇だったのだが、あまりにも、おかしな状況から声が聞こえたから……。

 

 死の間際の幻聴。

 

 闇を払拭しても堕ちる感覚が健在し、その視界に流れる世界が映ればそう思えただろう。

 

 だが闇を払拭した先には、何故か堕ちる感覚が消失し、視界にも流れる世界が映らなかった。

 

 堕ちる感覚が消失したのは、おそらく自分が空を見上げるように倒れているから。……おそらく、と言ったのは他でもない。そこに映るのは、オレの知らぬ世界だったから。暗闇の空でも、蠢く闇の葉でもなく、何もない、ただ真っ白な世界だったから……。

 

 何処までも続く白の景色。不安感も安心感も沸かない、むしろ全ての感情を奪い去りそうな程の、本当に、真っ白な景色。

 

 体を起こして見た先もまた、同じ真っ白な景色。地の果ても空の果ても、何処を見渡しても、何処を見果てても、この視界に映るのは白。

 

 だがその地と空の果ての終着点、交わる境界のその果てには、一本の黒い線。

 

 白と白が交じることで黒が生まれるわけは無い。

 だからこそあの果ての線が、この白の世界の切れ目という訳なのだろうか……。

 ……でも、全てが白のこの世界では、距離感がイマイチつかめない。見た感じは一時間も歩き続ければあの黒の線に辿り着きそうだが、それでもこの、白の世界の不思議な感覚のせいで、あそこまで行こうとは思えない。

 面倒くさいとかじゃなくて、単純に、本能が辿り着けないと告げているような……。

 ……これじゃあ、まるで……。

 ……それじゃあ、もしかして……この世界は……。

 

「ようこそ。私の世界へ」

 

 果ての交わりを眺めていると、背後から突然の声。反射神経を総動員させて後ろを振り返ると、そこには一人の女性がいた。

 

 オレの世界では一部の人を除いて絶対に着ることの無い、ゲームの中でしか見たことの無いローブ。青と黒を基調としながら、所々に赤も見受けられるソレを、何の違和感も無しに着てみせている。

 木の杖でも握っていれば魔女そのものな格好をしたその、長くて艶のある黒い髪を携えた女性。

 幼い顔立ちとクリクリとした瞳、ソレを保護するかのような子供っぽいメガネ。

 でも顔に反した高めの身長に、ローブという身体のラインを隠す服装であるにも関わらず強調されている胸。

 子供っぽい、でも全体的に年上な感じもする、何処か不確かな女性。

 

「……あなたの、世界……?」

 

 だからだろうか。思わず、敬語で言葉を返していた。

 

「そう、私の世界。何処までも白い、私の世界。……ホント、なぁんにも無い」

 

 周囲を見渡しながら答える彼女の声に、違和感の一端を掴めた。

 

 ……声だ。

 

 彼女の声は、何処か少年の面影を感じさせるような、中性的なイメージがある。目を閉じてその声を聞けば、男の子の声か女の子の声か、判断がつかなくなりそうな気さえする。

 

「……それで……その、どうして、オレをここに?」

 

 訊ねながらも立ち上がり、その女性へと体を向ける。

 こうして立ってから彼女の姿を見ると、彼女の身長が女性の割に結構高いことに気付いた。強調された胸もまた、彼女の身長から考えれば妥当なのかもしれない。小さいのに大きい雪音に対し、この人は大きいから大きいのだろう。

 

「あら? あなたの望みを叶えてあげるためよ」

「オレの、望み……ですか?」

「そう、あなたのの・ぞ・み。飛び降りてる時に願ったでしょう? あのまま落ちたら見つけるのに時間かかっちゃうから、こうして呼んであげたのよ」

 

 オレの疑問に答える女性の口調に、ようやく全てがわかった気がした。

 この女性に不確かな感情を抱いた原因を。

 

 ……確かに前述の声もある。

 でもその中性的な声の割に、この人の話し方が妖艶なんだ。

 

 ヘソや肩、脚などを大胆に露出した、派手な衣装を着た、まさに大人な女性が発した方がピッタリな、そんな妖艶な口調。

 ソレをあの中性的な声で。

 だからこそ、ずっとオレの中で違和感が燻り(くすぶり)続けていたんだ。

 

 子供っぽいけど年上にも見える外見、男の子を思わせる中性的な声質なのに大人な女性を思わせる妖艶な口調。

 外見・声質・口調と、その全てがバラバラ。

 だから違和感と不思議な感覚に襲われ、オレの体がソレに支配されてしまっている。

 

 だから……こんなにも彼女の言葉を、あっさりと、信じてしまっているのだろうか……?。

 

 まったく不思議な感じのしない人が「ここは自分の世界」だなんて言ったところで、オレは小指の爪程も信じなかっただろう。

 でもこの人の雰囲気は……そんな普通に信じらなれないことを、あっさりと信じさせてしまう。この人の口からそういう類の言葉を発せられると、ああそうなんだ、と何の疑問も抱かずに納得してしまう。

 

「その、その前に一つ良いですか?」

 

 だからと言って、そのことに気付いてしまったら気にならずにはいられない。

 

「なぁに?」

「ここは、何処なんですか?」

 

 目を細めながらの彼女の言葉に、オレは同じ疑問を投げかける。……今度は、理由も無しに、彼女の言葉に納得すまいと誓って。

 

「だから、ここは私の世界だって言ってるじゃない」

 

 少し呆れながらのその言葉。でも彼女は、強く見つめるオレの瞳を見つめ返すと一つため息を吐き――

 

「なぁんだ。あっさりと解けちゃってたのね」

 

 ――なんて呟いた。

 

「何が、解けたんです?」

「簡単なことよ。世界に関する説明とかって面倒くさいじゃない? だから私は、常に相手に疑問を抱かせない、っていう魔法をかけてるの。それをあっさりと、あなたが解いちゃってたのよ」

 

 死のうとしてたはずなのに存外冷静なのねぇ、なんて、その子供っぽい見た目で、口調と同じ妖艶さを携えながら、目の前の女性は続ける。

 

「現にほら、今のあなた、私が言った“魔法”って言葉についてはまったく疑問に思わなかったでしょう?」

「……あ」

 

 指摘されて、気が付いた。本来ならマンガの中でしか聞かないその言葉を、オレはあっさりと受け入れてしまっていた。こうして指摘されるまで、ああそういうものなんだ、と納得してしまっていた。

 心に誓ったはずなのに……何の理由も無しに、すぐに納得しないと。

 

「そういうものなの。それなのにあなたは、この私の世界について気になった。たぶんそれは、あなたがこの世界について自分なりの深い解釈があるからでしょう?」

 

 その言葉で、最初この世界を見た時に思った言葉を、脳裏に蘇らせる。

 

「……深い、って程じゃないです。……ただ、「もしかしてココは、死後の世界なんじゃあないのかなって、そう思っただけです」

「……なるほど。だからあっさりと解けちゃったのね」

 

 答えを聞いたその人は、納得したように笑みを浮かべる。

 

「私が答えを言う前に、自分で答えを推測しちゃった場合、私の答えをすんなりと受け入れることは出来ないのよ。だから、私の魔法が解けてしまっていた」

「はぁ、なるほど……」

 

 とは呟いてみるものの、あまり得心はいってない。

 

「それも単(ひとえ)に、あなたの恐怖心が生み出した産物、ってところかしら」

「恐怖心、ですか?」

「そう、恐怖心。死という名のね。……あなた、死のうとした時何故か躊躇ったでしょう? 本当に心が麻痺してる生物ってのはね、死のうとする時にまったく躊躇わないものなのよ。その点あなたは、まだ生物として機能しているわ」

 

 だから安心して、と言葉を続け、いつの間にそこに存在したのか、彼女は後ろに現れたソファに、深々と腰を落ち着ける。

 

「これはどうしようもないことだから、あの時躊躇ったことを悔やむことはないわ」

「その……見てたんですか?」

「ええ、見てたわ。でも残念ながら、あの方法じゃあ、あなたの想い人と再会することなんて出来なかったわよ」

「えっ?」

「まぁその話は後のお楽しみ。まずはこの世界について、ね」

 

 先は気になったが、確かにこの世界についても気になる。後で話してくれるのなら、ここで聞かないと教えてくれないことを、先に聞くべきだろう。

 

 足を組み、見た目不相応な、でも口調相応な、女王様然とした態度で、その人は話し始める。

 

「あなたは、この私の世界を死後の世界と思っていた。つまり、あらかじめ答えを予測していて、答えという空欄にはこの答えが埋まるのでは、と考えていた。私のこの魔法はね、あくまでその“埋まる空欄の予測すら立てられていない状況”でないと効果が発揮されないものなの」

 

 なるほど……だから“魔法”という不可解な単語にはまったく気が回らなかったのか。

 あっさりと納得してしまうのは何故だ……? なんて疑問すらまったく抱かず、空欄の予測すらしていなかったから。

 

「理解できて?」

「はい、大丈夫です」

「そう。話が早くて助かるわ」

 

 それじゃあ次だけど、と足を組み直し、目の前の女性は妖艶に続ける。

 

「あなたは世界がどういう風に出来ているか、知ってる?」

「いえ……考えたこともないです。と言うより、普通に生活している分にはあまり深く考えないことだと思いますが……」

「ま、あなた達の世界ではそれで当然なのかもね……。それじゃあ訊くけど、あなたは一体、この世にどれだけの世界が存在すると思う?」

 

 どれだけの世界……。

 ココに訪れる前の、一度死ぬ前のオレならば、自分の住んでいる世界唯一つと答えただろう。

 

 でも今は、こうして別の世界に、自分が存在している。

 

 どういう仕組みかは分からないが、世界は幾つもあるとみて間違いない。でもここがこの人の世界だと言うのなら……ここと、オレ自身がいた世界二つだけではないだろう。

 たぶん、もっとあるはず。それじゃあ――

 

「――十か二十ぐらい、ですか?」

 

 考えた末のオレの答えに、その人は妖艶な、でも何処かイタズラっ子っぽい笑みを浮かべた。それだけでもう、その人が次に紡ぐ言葉が分かってしまった。

 

「ざぁんねん」

 

 やっぱりだ。どうもオレの考えは的から大きく外れてしまっていたらしい。

 

「答えは、数え切れないほど」

 

 その人はそう言うと、浮かべていた笑みをただの微笑みに戻して続ける。

 

「世界って言うのは、あなたの世界にいる人の数以上が存在するのよ」

「どうしてですか?」

「どうして? 簡単な話よ。世界って言うのは、人の頭の中で想像するだけで出来て、次々と生まれてくるんだから」

「……は?」

 

 あまりにもスケールのデカい、呆気に取られるような発言に頭がついていかず、ただ呆然と聞き続けるしかない。

 それでも心の何処かで、そういうもんなんだなぁ、と納得している自分がいる。……この人の“魔法”の効力で。

 

 

「脳って言うのは本来、生物が世界の外と接続するために存在するのよ。記録としての機能はあくまで副産物。だから本人達の無意識下で、いくらでも世界が生まれてしまうの。……例えば、あなたが道でとてつもない美人とすれ違ったとする。そしてその人と付き合い、結婚するのを脳内で想像する。たったそれだけ。それだけで、その美人とあなたが付き合っている世界が生まれるのよ」

 

 オレの呆気に取られている顔が面白いのか、その人は微笑みをさらに深くする。

 

「でもね、そうして生まれた世界って言うのは、あっさりと壊れちゃう。だって数十分もすれば、そんな想像は脳外に出て行くでしょう? その瞬間、その世界は壊れちゃうの。つまり、私も含めた物事を想像する生物っていうのはね、別の世界の自分とか他人とかを、何人も壊しながら生きていってるのよ」

 

 それはまるで、あなたはあなたの知らないところで何人もの人を殺している、と言われているような、そんな錯覚。

 

「ま、そうして壊れていく世界は、壊れること前提で生まれている世界なんだから、気にする必要は無いのだけれど」

「……それじゃあ、その、もしオレがここで、あなたに抱きつくような想像をすれば、そうして抱きついた世界が生まれると?」

 

 続いていたその人の言葉を止めてまで発した言葉。

 そのオレの言葉にその人は、一瞬ポカンとした後、可笑しそうに笑みを浮かべ、おかしなことを言うのね、と表情どおりの言葉を続ける。

 

「でも、確かにその通りよ。私の知り得ぬところでそんな世界が生まれ、そしてあなたのその想像が止まると同時に壊れる。そんな世界が確かに生まれるわ」

「……それじゃあもし、その世界のオレが、再び新しい事柄――例えばキスをするとかを想像すれば、その世界からまた新しい世界が生まれると?」

「ふふ、本当におもしろい。でもそうねぇ……それは無理かしら」

「どうしてですか?」

「だってあなたが想像した世界は、所詮終点でしかないんだもの。そうねぇ……木で例えるところの“葉っぱ”かしらね」

「葉っぱ……」

「そう。そしてあなたの本来いる世界は“枝”。だからいくつもの“葉”を生やすことが出来るし、逆にいくらでも枯らすことも出来ると言うわけ。そしてこの私の世界は、私の魔法で固定化した私の想像――と言うよりも、私の心情風景と言った方が正しいかしら。さすがの私でも、想像で生み出した世界を固定化することはまだ出来ないのよ」

「……この世界は、その、さっきの例えで言うところの“葉”にあたるんですか?」

「そうねぇ……“枝”から生まれた新しい“小枝”ってところかしら」

「小枝……」

 

 そこまで聞いて、少しだけ恐ろしいことに気付いてしまった。……もし……もし、その話が本当なら――

 

「――それじゃあもしかして、オレ達のいる世界もまた、一本の“小枝”なんですか?。」

 

 その可能性もまた、十分に在りうる。

 オレが住んでいるあの世界が、誰かの想像の上に成り立っているという、その恐ろしい可能性が。

 

「……ふぅ〜ん……私の言葉に納得するようにしてたとは言え、まさかそこまで勘繰るとは思っていなかったわ」

 

 浮かべていた微笑みを打ち消し、真剣な表情をして言ったその言葉は、まるでオレの考えを肯定しているかのようだった。続く言葉を一字一句聞き逃さないよう、無意識的に集中してしまう。

 

「……結論から言わせてもらうけど、じつはわかってないのよ」

「わかって……ない?」

「ええ。信じてもらうしかないんだけど、世界の在り方については、私達の世界で有名な俗説を話したに過ぎないの。俗説、なんて言うけど、ほぼ正解と言っても過言ではないのだけれど。……でも……だからと言って、あなた達が住んでいる世界が“枝”か“小枝”か、はたまた“幹”か“根”か、なんてことは、まったくわかってないの」

 

 組んでいた脚を崩し、膝の上に肘を置くように前のめり、真剣な表情をそのままに、その人は言葉を続ける。

 

「確かに、沢山の世界が生み出されてるわ。あなたの世界にある叙事詩や物語、英雄譚などの世界も確かに存在してる。だってそれもまた、一人の人物が想像して生み出した世界でしょう? だからこそ、私達の世界の俗説が確証に近付いているのだけれど……。でも、だからと言って、あなた達の世界が“そうなるように生み出された世界じゃない”とは限らないでしょう? あの世界もまた、一つの“小枝”の可能性は十分にあり得る話なのよ」

「……それじゃあ、一体何処の誰が、オレ達の世界を……?」

「愚問よ。そんなものは。だってもしわかってたら、答えにはとっくに辿り着けてるじゃない。でも、だからと言って可能性がゼロじゃないのも事実でしょう? あの世界を、私たちでは到底辿り着かない世界(ばしょ)から想像している人が、もしかしたらいるかもしれないじゃない」

「でも、わかることが出来ないなら、ソレは無いのと同義なんじゃ……?」

「そう考える人も確かにいるわ。でも私達は、ソレがあるものと想定して、その辿り着けない場所へと辿り着こうとしているの」

「……私達……?」

「そう。私のような力を持った人」

 

 ちょっと喋りすぎたかしら、と呟きながら、その人はため息を吐く。……って――

 

「――そういえば、その、あなたの名前は何て言うんですか?」

 

 今の今まで「その人」って心の中で呼んでたけど、思い返せば失礼にも程がある。

 

「えっ? 名前? 誰の」

「あなたの」

「……私の?」

 

 オレの質問が余程以外だったのか、背もたれに全身を預けて天を仰いでいたその人は、体を起こしてオレの顔をマジマジと見始めた。

 ……その、正直な話、子供っぽい顔立ちとは言え、その整っている顔で見つめられると、かなり照れる。

 

「……その、おかしなこと言いました? オレ」

 

 あまりにも恥ずかしくて気まずくて、思わずそんな疑問が漏れてしまった。

 

「ええ、言ったわぁ」

 

 再び全身をそのソファに預け、でも今度は天を仰がす、そのままオレの顔を見つめ続けてくる。

 

「だってあなた、最初に私の言ったこと覚えてる?」

「最初に言ったこと……ああ、オレの願いを叶えてくれるって話ですよね」

「そうよ。つまりあなたは、私にその願いを叶えてもらったら、私のことなんて忘れて構わないってことなの」

「はぁ……そういうものですか」

「そういうものよ。現に、今までの人は全員そう。もう私のことなんて記憶の片隅にも残ってないでしょうね」

「それは、その……ちょっと悲しいですね」

「どうして?」

「えっ?」

 

 その返しは以外だった。だって――

 

「――こうして話して、願いを叶えてあげたのに、向こうは自分の存在を忘れる。少しでも話したことがある人に忘れられるのは正直辛いと、オレは思います」

 

 本心からの言葉。

 

「それは違うわ」

 

 でもその人は、キッパリと否定してきた。

 

「むしろ今までの相手の半分以上は、あなたみたいに世界のことなんて気にならず、こうしてあなたにした説明をする間もなく、そんなことはどうでも良いから願いを叶えてくれるなら早く叶えろ、って言ってきたものよ」

 

 それに、とその人は、悲しげな表情を浮かべることも無く、むしろ何処か楽しげな笑みを浮かべながら、続ける。

 

「確かに、あなたみたいにこの世界について気になった人も少なからずいたわ。でもねぇ、そんな人たちも世界について知ったら、私の名前なんて聞かずに願いの話を始めたものよ。むしろ、途中で止めてまで願いを言い出す人までいたぐらいよ」

 

 最後まで楽しげに話していたその人。

 でもその人とは対照的に、オレは悲しくなっていた。

 別に、オレ自身が体験したことでは無い。

 でも、やっぱり、そうして過ごしてきたその人が、悲しいわけがないと、身勝手にも思ってしまった。

 

「だから、ぜぇんぜん悲しくないの。あなたみたいに深く関わったことなんて一度も無かったくらいだし。だからあなたも、私には深く関わらずに――」

「イヤです」

 

 気が付けば、その人の続くであろう言葉を、オレは止めていた。

 

「あなたがいくら悲しくないと言っても、オレが同じ立場なら悲しいです。だったら、せめてオレぐらい、あなたのことを忘れずに、あなたの名前を覚え続けたいです」

 

 止めてまで続けたオレの言葉に、先程見せた呆気に取られたような表情を、その人は再び作った。

 妖艶な口調と顔のつくり不相応な笑みのせいで不確かな雰囲気を感じてしまっていたが、こうなってしまえば年下の可愛い女の子に見えるから不思議。……口には出さないけど。

 

「……あなた、本気?」

 

 表情はそのままに、でも口調は相変わらずのその人の言葉。

 

「はい、本気です」

 

 オレはそれに、力強く頷いて言葉を返した。

 

 そんなオレを見たその人は、はぁ、とため息を吐く。

 

「まぁ、それは自由なんだけど……あなたがもし、私の願いの叶え方に満足いかなかったら、あなたはそのまま死ぬことになること、覚えてる?」

「……あ」

 

 そう言えばそうだ。オレはあの崖から飛び降りて落ちてるところを拾われたんだ。と言うことはつまり、このまま解放されたら、地面と衝突事故ということ。

 

「……忘れてました」

 

 正直に告白した。だってまぁ、そうするしかないじゃないか。

 このままオレの願いが叶わなかった場合、結局オレは死ぬことになるんだし。

 と言うことは彼女のことを、結局は忘れてしまうというわけで……。

 

「……天、って呼んでくれればいいわ」

 

 それなのにその人は、そんな言葉をかけてくれた。

 

「えっ……?」

「だから、天って呼んでくれて構わないって言ってるのよ」

 

 今の「えっ……?」はどういう意味か図りかねるって意味だったのに、聞こえなかったんだと勘違いされてしまった。

 

「その、どうして、教えてくれたんですか?」

 

 言葉を大幅に加筆修正して訊ね直す。

 

「そうね……気紛れだと言えばそれまでね。でも、もしあなたが願いを叶えてもらわなくて構わないってなっても、ほんの少しだけ私のことを覚えててくれるでしょう? それで十分だからよ」

「それだけの理由で……ですか?」

「そう。だから気紛れよ」

 

 呆然と聞き返すオレに、視線を微妙に逸らせながら答えてくれる。もしかしたら照れているのかもしれない。

 

「でもね、あなた自身が死ぬことを念頭に置いてなかったのは減点対象になったから」

「は?」

 

 天さんの続いた意味不明な言葉。またまた意味を図りかねる。

 

「そしてその減点は、私の名前を教えないってことになったの」

「えっ?! じゃあこの天って名前は?」

 

 早くも名前呼びを剥奪ですかっ?! っつかこの教えてくれた名前って偽名?!

 

「心配しなくても、それはあだ名みたいなものよ。さっき話した、遥か遠い別の世界を目指しているその証、“天の刻印”が私には刻まれてるの。だから、それにちなんで“天”と、そう呼んでちょうだい」

「ああ……」

 

 まぁ、ちゃんと彼女を指す言葉なのなら構わないか……? 

 ああでももしかして、こうして構わないとか思うのって、さっき彼女本人が話してた魔法の効果なんじゃ……? 

 ……まぁ、考えすぎても仕方無いか。とりあえず天さんで納得することにする。

 

「わかりました。それじゃあ天さんで」

「ええ、それで構わないわ。それじゃあ引き替えに、あなたの名前を教えてくれる?」

「オレの……ですか? でも今まで見てきたんじゃあ……」

「見てはきたけど、まさかこんな展開になるなんて思ってなかったもの。……正直な話、名前なんて覚えてなかったわ。だからはい、名前」

 

 語尾に♪でもついてそうな程軽やかな、でも何処か妖艶な物言い。

 その、何処かアンバランスな感じの喋り方にドキっとしてしまう。

 

「小野山桐生……です」

「そう、それじゃあ桐生君で」

「いやそんな、呼び捨てで良いですよ」

「それじゃああなたも私に敬語をやめなさい」

 

 それは無理だ。このバラバラな雰囲気の持ち主にタメ口で話せるほど、オレは人生経験が豊富じゃない。仕方無しに君付けで納得することにする。

 

「それじゃあ互いに名乗ったところで、本題に入りましょうか」

 

 本題……天さんのその言葉に、体に緊張が走る。

 本題とは言うまでも無い。

 オレの願いを叶えてくれるという、その話だ。

 

「そんな身構えること無いわよ」

 

 クスり、と微笑みそうな表情を浮かべながら、天さんはソファから腰を上げる。

 すると瞬きをする間に、先程まで天さんが座っていたそのソファが消え失せた。

 

「あなたはただ私の話を聞いて、その条件を呑むかどうか返事をしてくれるだけで構わないの」

 

 柔らかく腕を組み、オレの目を見据えながらの真剣な言葉。

 

「……はい、わかりました」

 

 だからオレも、真剣にその目を見つめ返しながら、それ以上の真剣さで言葉を返した。

 

「結構。それじゃあまず、あなたの願いを聞かせてもらいましょうか……と言いたいところだけど、わかってるからいいわ。だからこそ本題に入るつもりなんだし」

 

 それはつまり、オレの願いなんて、天さんから見れば本題ですらないということ……か。

 彼女にとっての本題とは、これから話すであろうオレのその願いを叶えるために必要な、オレが支払うべき、対価。ないしソレに準ずるナニカ。

 

「それで、その、俺は何をすれば?」

「ん?」

 

 相応の覚悟を以って紡いだ言葉。

 それに対して天さんは、ことも何気に、まるで手に持っているボールを貸して欲しいとでも言っているかのような軽さで、言った。

 

「あなたのその左腕、私に頂戴」