この世界に価値はない。

 

 そんなことばかり考えていた。

 

 癒枝の母親に励まされ、そこまで好きと言ってくれてありがとうとお礼を言われ、泣きじゃくるのをなだめられ、ようやく涙が収まって帰ってきた。

 

 その帰り道、ずっと、さっきの言葉が脳裏を過ぎっていた。

 

 ……ああ、そうだとも。

 オレにとって癒枝が、世界の全てだったんだ。

 

 無心(なにもない)オレに色を与えてから、ずっと一緒にいた彼女。

 そんな彼女がいなくなったら、オレはまた無心(なにもない)存在に戻ってしまう。そんな恐怖。

 

 ……でも、そんなことは些細なこと。オレにとって癒枝は、世界一大好きで、大切で、オレの身体の一部といっても差し支え無くて、だから身体の一部をなくしたこの世界は、オレにとって未練なんて無くて……。

 ……だからこそ、この世界に価値がないと思ってしまった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 翌日、オレは学校を休んだ。

 

 親も、親しい友人がなくなったオレの気持ちを察してくれたのか、特に何も言ってこなかった。

 

 でも休んだからと言って、特に何かをして過ごした訳じゃない。

 ただ無気力に、家でボーっとしていた。

 

 ……本当に、何もなくなったんだなと、実感が沸いてきた。

 

 日が経つにつれ、癒枝がいなくなったという事実が重く圧し掛かってくる。

 

 最初は、彼女の死を、頭だけが理解していた。

 でも今は……こうして時間が経ってきた今は、空っぽのこの心までもが、受け入れ始めている。

 

 ……受け入れて……直面して……自分の全てに近しい一部が、無いことに気付いて……。……まるで、四肢を断絶されたような気分。

 ……涙は出る。

 それこそ、自分の水分全てを絞り出すかのように出てくる。

 

 身体の一部がなくなったような感覚、空っぽの心、ソレを実感するたびに流れる涙。

 

 でもそれはいずれ止まり、そしてまた、同じ感覚と心を実感し、涙する。

 泣いては止まり、泣いては止まりの繰り返し。

 ……たぶん、涙が止まってる時ってのは、本当に自分の全てが無くなってる時なんだと思う。

 悲しすぎて涙が出ないっていうのは、たぶんそういうこと。

 体も心も、全てが無くなるから――涙さえ無くなるから――涙を流す器官さえ無くなるから、泣けなくなるんだ。

 でも……時間が経てばまた、無くなったものが蘇ってくる。思い出してくる。魂にまで強く、塗られているから。

 

 ……でも、それもまた、無くなる。

 

 本当に、ただそれだけの繰り返し。

 そんな、自分でも自覚できるほど情けない一日を、オレは過ごしていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「ちょっと、そこのニート」

 

 いつの間に部屋に入ってきたのか……。

 夕方、ベッドで横になっているオレの隣に立ち、下等生物でも見てくるかのように見下してくる、学校から帰ってきたばかりの妹。見た目に不釣合いなランドセルが足元に置かれている。

 

「今日学校休んだんでしょ? ちょっとは元気出た?」

「……んまぁ、ボチボチ」

「そ。それじゃあさっさと、その元気を表に出しなさい。あんたが沈む理由も分かるけど、それで心配する人も増えてくんのよ」

「……そっか……それじゃ、ちょっと出かけてくるよ」

「何処行くのよ」

「友達んとこ。これから会う約束してんだ。あ、晩御飯はいらないって、お母さんに伝えてもらって良いか?」

「別に良いけど。っつか、学校休んだのに、友達に会いに行くんだ」

「そう言うなよ。もし帰ってこれたら、今より元気になるからさ」

「んま、そんなことはどっちでもいいけど」

「なんじゃそりゃ。んじゃ、さっさと部屋から出てってくれ。着替えるんでな」

「わかったわよ」

 

 妹はそう答えると、早々に部屋から出て行った。

 

 ……ごめん……ウソ、ついちまって……。

 

 確かに、これから人に会う予定はある。

 でも約束したわけじゃない。

 

 それに……帰ってくる予定は無い。

 

 だってもう……オレ個人がこの世界にいる必要なんて、まったく無い。

 心の無いオレが、心の無いまま生きていくには、この世界はあまりにも酷過ぎる。

 想い人との思い出が詰まった……それ以外に何も無い、この優しくも、悲しい思い出しか蘇らない、この世界は……。

 

 ……思い出の共有者である、癒枝のいない、この世界は……。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 生きたくても死ぬ人が絶えないこの世界で、ただ愛しい人がいなくなっただけで死のうとするオレは、果てしなくバカなのだろう。

 でも……心が無い、大切なものも無い、そんな何も無い人が生きていく必要なんて、本当にあるのだろうか……?

 

 他人があなたを思ってるから必要? 他人の心にあなたがいるから大丈夫? あなたが死ねば悲しむ人がいるから、死んではいけない……? 

 ……他人のために自分が苦しみながら生きていく……そんな自己犠牲、オレにはまったく出来そうにない。他人のために、なんて思う心すらないオレでは、支えるもの全てが無いのと同じだから……。

 

 ……だからこそ、この世界から消える。

 たとえ愚か者と罵られようとも。憎まれようとも。オレは、オレ自身が楽になりたいがために、この世界から消える。

 そして、そのための場所も、もう決めてある。

 

 ……でもその前に……学校に寄る。

 

 放課後になっても部活で残っている生徒が沢山いる中、オレはわざわざ家で着てきた制服姿のまま目的地へと向かう。

 

 それは、オセロ部の部室。

 

 ……せめてお世話になった部長にぐらい、ケジメはつけておくべきだろうから。

 

 それと、こんな自分の世話をしてくれてありがとうと、一言お礼ぐらい言わないと……。

 

 親と妹には、今日休むことで出来た時間を利用して、遺書として書いた手紙が部屋においてある。

 だから後は、部長だけ。

 

 深呼吸をして、意を決してからノックする。

 中から返事が聞こえることも無く、その扉は開いた。

 

 扉を開けたのは部長。その背にある、扇風機しか涼しくする機械がない空間の中には、雪音さんの姿も見受けられる。

 

「……桐生、確かお前、今日は学校を休んだんじゃないのか?」

 

 オレが無言で佇んだままだったからだろう。扉を開けた部長から声をかけてきた。

 

「……はい、休みました。でも、どうしても伝えたいことがあって、ここに来ました」

 

 部長の瞳を見て、力強く。

 その瞳はいつもより鋭く、だが相変わらず全てを見透かしているような錯覚を覚える。

 でも……何故だろう。

 “全て”ではなく“オレだけ”を見透かしているような……そんな錯角もしてしまう。

 

「そうか……。でもな桐生、まずは俺から一つだけ言わせてくれ」

「何ですか?」

「お前は今、俺の独断と偏見で無期限休部中だ。もしこの部活をやめたいとか言うのなら、休部期間を消化してからにしてくれ」

「えっ……?」

 

 それはあまりにも、意外な言葉だった。だって――

 

「――どうして、オレがやめると思うんですか……?」

「なんとなくだよ。ただ、お前に癒枝のことを話したときから、こうなるだろうとは思っていた。……それとお前、俺のこの部活に入ったとき、自分で言ったこと覚えているか? この部活を辞める時は、死ぬときだ、って言った言葉だ」

「っ!」

 

 その部長の言葉に、息を呑む。だって……今このタイミングでソレを言うということは、この人は、オレが死のうとしていることを読んでいる、と言うことに他ならない。

 無期限休部中なのに、休部中は退部を認めない。……それはつまり、そういうこと。

 

「……わかったんならそれで結構。それで、お前の話ってのは何なんだ?」

 

 続く部長の言葉に、オレは何も返せなかった。

 ただ、黙って耳を傾けるのみ。そんな様子に部長は、大きく深呼吸をする。

 

「お前……俺が堀井のことを教えたとき、生きてくれと頼んだだろ……? それなのにあっさりと死んじまうのか……? ……もし俺のためにとか、ケジメとか考えているんなら、頼むから生きてくれっ」

 

 語気を強め、懇願するような言葉。……お世話になった、オレ自身が尊敬している人からの言葉。

 ……それなのに……それを聞いても尚、オレの心は揺らがない。

 だって……揺らぐ心(もの)自体が、ないのだから……。

 

「それに、お前が死ぬことなんて、堀井自身も望んでいないと思う」

 

 ……確かに……癒枝ならば、自分が死んだせいでオレが死んだと知ったら、満足のいかないタイプだろう。……でも――

 

「――確かに、望んじゃいないと思う。……でもだからって……オレはもう、アイツ無しでは生きていけないんです」

「……それでも、お前には挫けずに生きていて欲しいから、彼女はお前を助けたんだろ? もしそうじゃないんなら、彼女はお前に抱きとめられたまま落ちたはずだ」

 

 どうしてそのことを知っているのか疑問は過ぎったが、上にいた部長なら見えていたのは当然だろう。

 

「……部長の言いたいことはわかります……。……でも、それでもオレは! オレの心は! もう……耐えられないんです……!」

 

 一方的にそう言うと、この学校から出て行くために一目散に駆け出した。

 

 部長は……追ってこない。

 

 それに気付いたのは、校門を出てしばらく経ってからだった。

 

 

☆★☆★☆

 

 

「止めなくて良かったの? 兄さん」

「……止めようが無いさ。俺じゃあな」

 

 教室のドアを閉め、妹からの言葉に返事をしながら、彼女の向かいに腰掛ける。

 

「アイツを止められるのは、今のアイツの心を知ってやれる奴と、これからのアイツを変えて導いていける奴、それか堀井癒枝、かな」

「…………」

「そんな不機嫌そうに見るなよ。俺じゃあアイツを救ってやれない。たとえ止めることが出来てもな」

「それじゃあ、桐生くんは死ぬしかないの……?」

「……なぁ雪音。そんなに桐生に死んでほしくないのか……?」

「……うん」

「なら、お前自身で行動するしかない。今回ばかりは、俺一人じゃあどうすることも出来ない」

「でも、わたしが足掻いたところで、桐生くんは救えないんでしょ?」

「ああ。……悪いが今のお前じゃ、確実にアイツは救えない。罪の意識の中で生きていく覚悟、ソレがないお前にはな」

「それじゃあ、わたしはどう行動すれば良いの……?」

「もう……遅いんだよ。何もかもが。こうなる前に、お前自身が強くなってなければならなかった」

「…………」

「……俺が止めて来てやっても良いが、お前自身、罪の意識の中で生きていける自信はあるのか? それとも、アイツを救いもしないのに生かしておくなんて、そんな酷なことをするつもりなのか?」

「…………」

「お前が望むならしてやっても良いが……確実に、お前自身を不幸にするぞ」

 

 無言で俯く妹をそのままに、夕焼けに染まる紅い空へと視線を向ける。

 でも彼が見据えているのは……遥か先なのかもしれない。

 

「……一番手っ取り早いのは、堀井が蘇ってくれることなんだがな……」

 

 らしくないと自覚できることを、彼は一人呟いた。

 

 

☆★☆★☆

 

 

 その足で電車に乗って辿り着いた場所は、皆で訪れ、癒枝が死んでしまったあの山。

 闇夜に染まる空の下、天から輝く月光という不十分な光源のみで、その山を一人、ただ黙々と登っていく。

 

 と、道を塞ぐように張られている、黄と黒の色で注意を促しているロープ。……この先はそう、癒枝が死んだ、土砂崩れの場所。

 

 ふと、蠢く闇の中へ堕ちる時に見た、あの癒枝の笑顔が脳裏を過ぎる。そう言えばあの時、癒枝は何かを言っていた……。

 でも、一体何を言っていたのか、今となっては知る方法も無い。

 ……最後の言葉ぐらい、聞いてやりたかったな……。

 

 そんな思いを抱きながらも、歩みを止めることは無い。まだ土砂を取り除く作業が終わってないから張られている、その立ち入り禁止の意味合いがあるソレを、何の躊躇いも無くくぐって先へと進む。

 

 ……そう、オレが世界から抜け出すために選んだ場所とは、癒枝が埋もれて死んだ、あの土砂崩れが起きた場所だ

 。……せめて死ぬ場所ぐらい、同じが良かったから。そうすれば、死んでも尚、彼女と一緒にいられるような気がしたから……。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 足場が一際不安定になっている場所を、細心の注意を払って抜ける。

 

 そしてようやく……辿り着いた。

 ある程度の除砂は済んでいるのか、想像していたよりも道は出来ている。最も、あの日訪れた時よりも不安定で、柵も出来ていない。

 

 その、崖となっている場所に向かって一歩、歩み寄る。

 もう一歩、そしてもう一歩、さらに一歩……覚悟を大地に叩きつけながら、死へと近付くために、その崖へと近付いていく。……あそこから、落ちるだけ……それだけでオレは、死ぬことが出来る。この世界から抜け出すことが出来る。

 

 土砂崩れがおきたあの底は、オレが落ちた場所のような、葉や枝など無いに等しい場所だろう。

 だから直接、癒枝を下敷きにしたあの土群れの中に、落ちることができる。

 

 そしてようやく、崖の先端へと辿り着いた。

 つま先にあるのは、あの昼に見た美しい光景とは違う、ただの暗闇。月明かりだけでは照らしきれないただの漆黒。後はそう……その中に、身を落とすだけ。

 

 ……恐怖はある。……でも、それよりも、このままこの世界で生き続けることのほうが、もっと怖い。癒枝への気持ちを忘れ、のうのうと生きてしまう自分を想像するほうが、もっと怖い。

 自分に訪れるであろう痛みよりも……。

 ……でも……どうしてだろう……どうしても、この後一歩が踏み出せない。

 ……恐怖しているのか? オレが。癒枝のいないこの世界に留まることを、躊躇っているのか……? ……何でだよ。どうしてこの世界に未練感じてんだよ……。震えるなよ。一歩踏み出せよ。こんな世界から早く出て行けよ! ……癒枝を殺すこんな残酷な世界から、早く逃げようぜ……。

 

 ……逃げる、か……。もしかしたら、逃げることに躊躇っているのか……? 

 そんなの、今更だろ? 

 立ち向う勇気が無かったから――人と付き合っていく自信が無かったから、自分の心を無くしたんだろ? お前は。それは逃げている証じゃないか。

 だから……今更、この世界から逃げることに躊躇う必要なんて、ないだろ……? ……逃げていたお前の心に色を塗ってくれた彼女は、もういないんだから。……もういないんだから……いなくなったんだから……この世界に残っても、仕方ないだろ……? 癒枝のいない、癒枝を殺したこの世界なんて……無価値でしかないのだから……。

 

 生きていく意味なんて、ないのだから……。

 

「そう……意味なんて、ないのだから……」

 

 呟き、三歩後ろに下がる。

 そしてそのまま両目を瞑り、さっき見た下の闇を、視界全てに広げる。

 

「さぁ……行こう」

 

 誰に言うわけでもない言葉。ソレをスタート合図にし、勢い良く駆け出す。

 

 ぴったり三歩分。最後の一歩は両足で。

 

 踏み込む。力強く。

 

 大地に、覚悟を、叩きつける。

 

 そして大きく、跳んだ。

 

 そのまま、浮遊感に体を支配される。地が延びていれば着地できる高さになろうとも、その感覚は止まらない。

 

 そしてその感覚は、重力に導かれる支配に上塗りされる。

 

 不確かな落ちていく感覚から、確固たる堕ちていく感覚へ。

 

 視界に広げた闇は、そのままに。

 

「……出来れば癒枝に、伝えたかったな……」

 

 堕ちる意識の中、そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 

 刹那の時のその思考。

 これはそう……癒枝を助ける時にも体験した、ある種の奇跡。走馬燈と呼ばれるその奇跡。

 その中でオレは、ただ願い続けていた。

 

 ……でも残念ながら……どうしようも出来ない。だってオレの身は、すでに暗闇の中へと堕ちているのだから。

 もし堕ちていなくとも、伝えたい相手が、堕ち終えた後なのだから……。

 

 ……だからこれは、死後の世界の、もしもの話。

 もしも出会えればの話。

 

 もしも出会えたなら伝えたいという、それだけの話。

 

 だから――

 

「死ぬ前に……伝えたかったな」

 

 ――これぐらいの想いを持っても、構わないだろう。

 

 だって、どうせ叶わない願いだから。

 

 ……なら、遥か高みの欲望を、叶うわけがない願いを、想うことぐらいは……。

 

 堕ちる感覚。

 迫る死。

 塗りつぶされた暗闇の視界。

 

 その中でオレは、ただ一つだけの願いを、想い続けた。

 

「……本当に、伝えたかった……」

 

“だったらその想い、叶えてあげましょうか?”