何も無い。

 何も感じない。

 

 癒枝が死んで、自分の気持ちに気付いて、夏休みが明けて……。

 

 結局、精密検査でも大丈夫と診断され、予定通りに退院し、夏休み明け最初の授業から復帰となった。……正直、そんなに行きたい気分じゃないけどな……。

 だって皆も、癒枝が死んでしまったのは知っているだろうから。

 

 別のクラスではあるが、就職科という同じ学科だったオレと癒枝。しかもオレ、あの傍若無人を体現したような癒枝の保護者役として、自分のクラスは当然として癒枝のクラスにまで認識されてたからな……。皆に気を遣わせるのが、大変申し訳ない。

 

 そう……こうして教室に入ると同時、皆の視線を一斉に浴び、すぐさま申し訳なさそうに逸らさせるなんて……本当に、申し訳ない。

 

 ……でも……どうしても今日は、学校に来る必要があった。

 だって……癒枝が死んだんなら……せめて線香ぐらい、上げさせてもらいたかったから。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 満足に頭に入らなかった授業。

 苦痛とも何とも思わず、いつの間にやら終えたその日の帰り、オレは部室によることもなく、真っ直ぐに癒枝の家へと歩を進めていた。

 

 受験勉強のときに一度訪れたことがあるから、家の場所なら知っている。

 葬式を終えていることも、気を遣っているクラスメイトの一人からあらかじめ聞いておいた。

 だから何も、迷うことなんてない。

 気後れすることなんてない。

 

 さぁ、行こう。

 癒枝に、オレの気持ちを伝えに。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「どうも、いらっしゃい」

 

 控えめな庭と門扉がある、どこにでもありそうな一軒家。ソレが連なる住宅街の一角に、癒枝の家はある。

 

 チャイムを押し、オレの名前と用件を伝えると、癒枝の母親は快くドアを開けて歓迎してくれた。

 

「お忙しい中スイマセン。お邪魔します」

「良いのよ、別に。それにしても中学以来かしら。桐生君が家に来てくれるの」

「そうですね。受験の時に一度、お邪魔して以来です」

 

 家に上がらせてもらい、癒枝のいる場所まで案内されながら、そんな他愛もない会話をする。

 

 癒枝のお母さんは、癒枝と同じで身長が低い。と言うよりも、若々しい。

 とても一児の母には見えないその容姿と、雪音さんより僅かに低いその身長。始めて見た時も思ったが、癒枝は間違いなくこの人の子供だろう。

 

「ふふっ……癒枝ちゃんもきっと、喜んでくれると思うわ」

「…………」

 

 うれしそうな彼女のその言葉に、オレは何も返事ができなかった。

 

 ……だってこの人は、癒枝を育てた人だから……癒枝と同じ心の人だから。

 あんなうれしそうに言う時は、その中に悲しみが混じっているのも、同じだから。

 

 だから何も、言葉を返せない。

 

 たぶん、癒枝が喜ぶと思っているのは本心なのだろう。

 でも同時に、発した本人が、改めて思い出してしまったのだろう。

 癒枝が、本当に死んでしまったという事実を。

 

 だからあの言葉には、悲しみが篭っている。

 

 ……だったら……――

 

「――……オレを、罵倒すれば良いじゃないですか」

「えっ?」

 

 突然の言葉に進めていた歩みを止めて振り返り、オレの目を見つめてくる。

 戸惑いが混じったその瞳を見つめ返しながら、言葉を続ける。

 

「お前だけのうのうと生き残って、どうして私の娘だけ死んだんだと、罵れば良いじゃないですか。どの面下げて線香なんて上げに来たんだと、叫んで倒せば良いじゃないですか」

 

 そうすれば、この人の心は、少しだけ軽くなる。だから――

 

「――思っていることを、全部言ってくれて、大丈夫です」

「…………」

 

 全てを聞いた癒枝の母親は、少しだけ考える素振りをした後、おもむろに手を伸ばしてくる。

 そして、頬にビンタ……をされるかと思ったのが、背伸びをしてまでデコピンされた。

 

「あいてっ!」

 

 見た目に反して意外に強かった。

 

「まったく……桐生君は私のこと、そんな風に思ってたのね」

 

 ジンジンするデコをさすりながら、続く言葉に耳を傾ける。

 

「確かに、癒枝ちゃんがいなくなったのは悲しい。大事な大事な、一人娘だったもの。夫と同じ髪の色、私と同じ成長速度。見た目だけでも十分、私達の宝物だったわ。……でももう、私達の手元から離れちゃった……」

 

 一度言葉を切り、クルリと体を回転させて後ろを向く。

 

「手放したくない。戻ってきて欲しい。愛しいあの子を返して欲しい。……そんなの、毎日、毎時間、毎分毎秒、思ってることよ。……でもそれは、桐生君を罵倒したからって叶うものじゃないよ」

「確かにそうでしょうけど……それでも、あなたの心を少しは軽く出来るでしょ?」

 

 フルフルと、オレの言葉に首を振る。

 

「そんなもの、一時的でしかないよ。と言うより、興奮して忘れてられるだけでしかない。そんなので心を軽くなんてしたって、何の意味も無い……。……私はもう、一分も、一秒も、忘れたくないの。癒枝ちゃんのことを。癒枝ちゃんと過ごした思い出を。……泣くほど辛いことだけど、でもそうすることでしか、死んでしまったあの子に向かって、愛情を注げないと思うの。……ほら、私って、バカだから」

 

 だからね、と呟き、再びクルリと体を回転させ、こちらを向く。

 その表情には少しの悲しみが感じられるものの、同時に確かな微笑みも携えていた。

 

「私は、桐生君を罵倒なんてしないよ。他人の宝物を侮蔑して得られる心の軽さなんて、私にはいらないもの」

 

 そして、満面の、笑み。

 悲しみを払拭させた、心からの、笑み。

 

 ……ああ、くそっ……。

 ……そうだよな……癒枝のお母さんだもんな……。

 そりゃここまで強いよな……。

 

 オレとは違う、癒枝よりも上の、その心の強さ。

 

 罵倒されることで安心感を得ようとしていたオレとは全然違う、その輝かしさ。

 ……本当に、この母娘(おやこ)は強いなぁ……。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「さぁ、どうぞ」

 

 廊下の奥、確かリビングとキッチンが一体となっている部屋へと連なるドア。そこを真正面に据えた右手側の襖の部屋、そこに案内された。

 

 癒枝と一緒に勉強した時も、確かこの部屋だった。……この家の中で唯一、オレと癒枝の、思い出がある部屋。

 

 その左手側の奥、そこに一つの、仏壇があった。

 

「…………」

 

 癒枝のものだと、すぐに理解できた。

 

 オレはそのまま無言で歩き、扉が開いたままの仏壇の前に正座する。

 中には、癒枝の写真が立て掛けられていた。

 

「これを……」

 

 そう言って渡されたのは、三本ほどの線香。

 

「ありがとうございます」

 

 受け取ったソレを、仏壇の中にある火に灯して立てる。

 

「リンを、鳴らして上げて」

「え? でも……」

「良いのよ。中に写真立てちゃうぐらいだし、別に格式張ってるつもりもないの。それに、骨はまだそこにあるもの。もし眠っちゃってて、桐生君が来たのに気付かなかったら、癒枝ちゃんもイヤだろうし」

 

 ……そう言うなら構わないか。

 

 力無く微笑む癒枝のお母さんに言われるがまま、傍にあるリンを鳴らした。

 

 チーーーーーーーン……。

 

 ……音の残滓を響かせる。静かな和室の中に響く、唯一の音。その中でオレは、両目を瞑り、合掌。

 

 …………。

 

「なぁ、癒枝……」

 

 目を開き、いつの間にやら滲む瞼もそのままに、仏壇に語りかける。

 中に立て掛けてある、癒枝の写真に向かって、語りかける。

 

「……オレさ……バカだから、気付かなかったんだ」

 

 昔を邂逅したあの日の夜。その想いが再び、オレの内側を抉る。その痛みで、涙が流れる。

 

 言葉を止めれば痛みは引く。その事実を知っていながら尚、オレは言葉を続ける。

 

「お前のおかげで……ずっと……生きてこれた、ってことをさ……」

 

 あの時感じた悲しみ。それは本人に伝えられなかった後悔から。

 

 あの時から感じている痛み。これは今頃気付いた己の愚かさから。

 

 それならば、今感じているこの喪失感は、一体何……?

 

「……何でさ……もっと早く、気付かなかったのかな……? そしたらさ、お前ともっと、楽しく過ごせたのにな……」

 

 身体の奥、胸の内側、痛みが伴いながらも、同時に消失していく虚無感にも支配されていく。

 

 ……どうして……? どうしてこんなにも痛いのに、何もかもが無くなっていきそうになる……?

 

 痛かった理由は何……? ……それは、己の愚かさから。

 

 それじゃあ、無くなっていく理由は何……? ……それは……。

 ……そうか……そういうことか……。

 簡単なことじゃないか。

 痛みを感じているこの心自体が、無くなってきているだけなんだ。

 

 オレの心は、癒枝の色を外壁に塗った、所謂(いわゆる)ダミー。その存在は“癒枝がまだ生きているかもしれない”と思うことで、辛うじて存在し得たのだ。

 ……確かに部長から、死んだと聞いた。わかってもいた。クラスの反応でわかりきっていた。

 ……でも心は、納得していなかったんだ。

 

 ……学校に行った理由だってそう。線香を上げるぐらいで、無理に学校へ行く必要なんてない。

 そんなもの、授業が終わるタイミングを見計らってここに来れば、サボったことなんて癒枝の母親になんてまったくバレない。

 それなのに……学校に行った。

 ……簡単なことだ。

 認められなかったんだ。認めたくなかったんだ。頭の中で理解はしているけど、空っぽのこの心は否定してたんだ。

 “自分に色を与えてくれた――心があると錯覚させてくれた癒枝という存在が、いなくなったということを”。

 テレビのドッキリのように、出てきて欲しかったんだ。じつは生きてましたよ〜、って。部長の悪ふざけだ、ってことにしてほしかったんだ。

 だから、学校に行った。

 ドッキリだと明かされると、無意識のうちに思って。

 

 ……でも……そんなのは妄想だ。現実逃避だ。

 でも、その妄想が、逃避先が、存在して(あって)欲しかったんだ。

 だから病院でもオレは、部長の話を聞いたときに、涙を流せなかった。悲しい思いをしなかった。オレの知らない心の何所かで、これはウソだと、叫んでいたから。

 あの夜泣いたのだって、悲しみなんかじゃない。

 ただ、自分の気持ちを伝えられなかった悔しさでだ。……それはオレ自身が、一番理解しているじゃないか……!

 

「オレ……お前のこと、好きだったんだ……!」

 

 空虚(うつろ)になっていく心。その心が今、悲しみの悲鳴を上げている。

 

 それは、心自身が無くなる事に悲鳴を上げているのか、それとも、ようやく癒枝が死んだことを認識できたからなのか……。

 

「好きで好きで、堪らないぐらい好きだった……! ……いや、今でも好きだ! 大好きだっ! ……でも……でも、さ――」

 

 嗚咽が、堪えきれない。とっくに流していた涙は激しさを増し、堪えていた嗚咽は口から吐き出されていく。

 そんなオレの様を見てか、癒枝の母親もまた、堪えようの無い涙を流している。

 でも今は……先に自分の気持ちを、ぶちまける。

 だって……それしか……! 方法が……! 無いん、だからっ……!

 

「――もう、届かな、いんだよ、なっ……!」

 

 腕全体を地面につけ、懺悔でもしているかのような姿。

 でも今は、気にしない。

 気に出来ない。

 

「オレさ、本当にバカ、だから……! 今まで、気付けなかった……! お前が、遠くに行って、くれるまで、気付けなかった……! こうして、届かないって、わかってるのに……わかってから、しか、気付けなかった……! ……なぁ……戻ってきてくれよぉ……! お前に、直接、言わせてくれよぉ……! 頼むから……! いつもみたいにさ、オレのことを、殴り飛ばしながら、戻ってきてくれよ……! 近くにいてくれよっ! お前がいなきゃオレ、なんにも出来ないんだよっ! だからさぁ……だからさぁ……だから……頼むから……オレから、離れないでくれよぉ……!」

 

 嗚咽を漏らしながら、涙を流しながら、辛うじてそんなことを言った。

 ……無茶なことはわかってる。不可能だってこともわかってる。

 でも、叶って欲しいと、願い続けてしまう。失う心の中、そのことばかりを想い続けてしまう……!

 だってオレは、アイツの傍にいたい……! ずっといたい! この身朽ちるまで、この世界果てるまで! ずっとずっと、アイツの傍で一緒に笑いあっていたい! 

 

 そんな自分の気持ちに、本当に今更ながら、気付いたんだ……!