自分はいつから、こんなにも満たされた気持ちになったのだろう。

 

 昔はただ、自分の心は空っぽで……空っぽにしてしまって、楽しくない日々を過ごしていたような気がする。

 

 何も感じない心。

 でも、周りに合わせようとする心。

 

 心(ソレ)があった空っぽな外壁に、他人に合う心(そ)の色を塗っていた。

 

 空っぽだから、寂しくて。

 寂しかったから、満たして欲しくて。

 満たして欲しかったから、他人を求めて。

 他人を求めたから、色を塗ることを憶えた。

 

 心があった場所を守るように、透明なガラスのようなモノで出来た外壁。

 その全てに色を塗ることで、心があるフリをしていた。

 

 ……他人に合わせるのは楽しくない。

 当時はそう思うことが無かった。

 

 だってそう感じる心自体が、無かったのだから。

 

 だからこそオレは、他人を求め続けていたのだから。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 閉じていた瞳を開く。

 

 蠢く闇に飲み込まれたのに、真っ先に視界に映ったのは、真っ白な天井。

 陽の光と電気の明かりに灯されたその真っ白な天井から、視界を移動させる。

 

 陽の光を取り込んでいる窓……自分の左側を見る。

 椅子に座りながら瞳を閉じ、コクリコクリと睡眠世界と現実世界の狭間を彷徨う妹と、点滴に繋がっている、自分の左腕から伸びているチューブ、そして窓の外に広がる陽の景色。

 次に反対側を見る。

 天井と同じような白い壁。だが光も明かりも反射していないソレは、微かに黒い傷が目立っている。傷が目立つクリーム色のような床に視線を這わせて先を見ると、そこにはこの部屋という箱から出るためのドア。

 

 ……どうやらここは、病院の個室部屋のようだ。

 

「……助かったのか……な?」

 

 ベッドに寝かされている自分の体、ソレをチューブの繋がっていない右腕で支えて起こし、座らせる。

 

「……ん……んぅ……」

 

 その音に反応したのか、眠気と現実の狭間を行き来していた妹も目を覚まし、瞼を軽く手の甲で擦る。

 

「あぁ……目、覚めたんだ」

「ああ、スマン。起こしたか?」

「別に。って言うか、爆睡しちゃったらアンタが起きた時気付けないじゃん」

 

 欠伸を噛み殺しながら、そんな素っ気無い言葉を返される。……ホント、相変わらず素っ気ねぇなぁ……部長と雪音さんとは大違いだ。……ま、これが普通なのかもしれんが……。

 

「それもそうか……で、どうしてオレはこんなところにいるんだ?」

「なに? もしかしてなんにも知らないの?」

「ああ……崖から落ちて、そこからは――」

 

 ――その自分の言葉で、思い出す。肝心要のことを――

 

「――っと、そう言えば、癒枝がどうなったかお前、知らないか?」

「ゆえ? 誰それ? っつかあたし、アンタがこうなったってのを、今朝お母さんから軽く聞いただけだし」

 

 妹はそう答えると、おもむろに自分のバッグを漁って携帯電話を取り出していじりだす――

 

「――っておい、ここは病室だぞ。ケイタイなんか使うなよ」

「良いじゃん別に。ここ個室だし」

「そういう問題じゃねぇだろ」

「なに? ってかさ、アンタをこうして見舞ってあげたせいで、あたし友達との約束破ったんだけど」

「じゃあ別に見舞いになんて来なけりゃ良いじゃねぇか」

「そしたらさ、母さんがアンタを見舞うために仕事休むって言い出すのよ。……アンタさ、絶対知らないだろうから言うけど、昨日丸一日寝てたんだよ」

「……は?」

「だから、丸一日意識失ったままだったの。一昨日にこうして病院に運ばれて来て、ずっと寝てたって訳」

「それじゃあもしかして……」

「そ。アンタが運ばれてから今朝まで、お母さんがずっと傍に着いてたって訳。仕事休んでまでね」

 

 そうだったのか……丸一日も……オレは……。

 

「んで、さすがに二日もお母さんの仕事休ませちゃ、うちの生活的にも働き先的にも迷惑掛かるから、あたしがこうしてお母さんの代理で傍にいたって訳。そんでこのメールは、その約束破った友達に今から合流出来ないかって聞くのと、お母さんにアンタが目を覚ましたって教えるためのメール」

「そうか……ありがとう……」

 

 続く妹からの言葉に、オレは呟くようにお礼の言葉を返す。それに対しても妹は、相変わらずの素っ気無さで「別に」と返してくるだけ。

 

 ウチは母さんとオレ、そんでこの妹の三人暮らし。生活費は、元父親からもらっている養育費と、母さんの給料だけ。だから妹の言う通り、眠っているオレの傍にいるだけで仕事を休まれては、家の生活には確かに支障が出てしまう。

 

 そのためだけに母親を仕事に駆り出したとは何て酷い妹だ、とは思わないで欲しい。こいつは少し言葉が足りないところがあるだけで、決して自分の生活のためだけに母さんを仕事に行かせた訳じゃない。

 ……目覚めるまでずっと、母さんが仕事を休んでまで傍にいたと知れば、目を覚ましたオレが気を遣うだろうと考えてたからだ。

 ……ま、こんなの妹本人に言えば「そんなことない」と素っ気無く返されるだけだろうけど。

 

 と、メールを打ち終わったのか、携帯電話をバッグの中に仕舞う。

 腕にかける、今どきの女の子が皆持っているイメージのある、カラフルなバッグ。ソレを持つ我が妹、じつはこんなに落ち着いて素っ気無い態度と見た目に反して、オレよりも五歳下。

 つまりはまだ、小学五年生。

 ……癒枝が知ったら喚くだろうなぁ……なんせ、癒枝の場合が「見た目は小学生、実際は高校生」なのに対し、この妹は「見た目は高校生、実際は小学生」だもんな。……いや、高校生は言い過ぎか……? いやでも、高校生って銘打っても違和感は……少し幼く見える程度、か……。

 

 エクステで長くして茶色く染めた今どきの髪、整った眉毛とまつ毛、目鼻と顔立ち、とまぁ、髪や眉・まつ毛などは軽くイジっているが、化粧もしていないその顔は、兄としての贔屓目(ひいきめ)を除いてもカワイイと思う。身長もこの年で雪音さんぐらいあり、胸もまぁ平均的。

 そんな彼女は今、黒と白のストライプ柄のシャツに、デニム生地で出来たミニスカートといった服装。……オレ達と同い年になる頃にはもっとキレイになるんだろうなぁ……末恐ろしい。

 

「そう言えば、何で個室なんだ?」

 

 ふと思った疑問を口にする。

 だって正直な話、ウチにはそんなに金が無い。だったら別に個室なんて取らなくても良かったんじゃなかろうか……。

 

「ああ……お母さんさ、あんたが病院に運ばれた時、オジサンにも連絡したのよ。そしたら、入院費全額、養育費とは別で支払うから個室にしてやれって言ったのよ」

「なるほどね……」

 

 オジサン、と妹は言うが、ソレはオレ達の元父親のことを指している。

 母さんと離婚した理由が不倫という時点で、妹の中ではあの人のことが「許せない存在」になってしまったのだろう。

 

 と、またバッグを漁り、携帯電話を取り出して操作しだす。そんでしばらく画面を見て、ため息。

 

「んだよ、どうかしたのか?」

 

 そのあからさまなため息について訊ねてみると、本当に面倒くさそうな表情でコチラをチラりと見る。

 

「別に。ただ、お母さんからメールがきたの」

「それがどうした?」

「アンタの目が覚めたから遊びに行って良いかどうか確認したんだけど――」

「何だ、ダメだったのか?」

「いや、全然良いって言ってくれたんだけど……アンタに色々と説明してからにしてくれってさ」

「色々?」

「そ。お母さんが医者に聞いた、アンタの今の状態とか、アンタがどういう状態でここに運ばれてきたのかとか、そんなの。それが全部メールに書いてる」

「説明するのが面倒なら、お前のケイタイ貸してくれりゃ自分で読むよ」

「イヤよ。何でアンタにあたしのケイタイ触らせなきゃいけないの? っつかそれじゃあ結局、アンタが読み終わるまであたし遊びにいけないじゃん」

「じゃ、さっさと説明してくれ。そんなため息吐くほど面倒ならな」

「別に面倒だからため息吐いた訳じゃないの。ただアンタ、崖から落ちたんだってね」

「ああ……それがどうしたんだ?」

「それでよくこんだけのケガで済んだものだなぁ、って思って」

「ん? どういうことだ?」

「どうもアンタが落ちた場所ってとても良かったっぽいのよ。葉っぱとか枝とか一杯ある場所で、勢いがほとんど吸収されて、しかも背中全体から落ちたおかげで、その少なくなった勢いをさらに弱くしたっぽいし」

「それじゃあ、オレがこうして入院してるのは何でだ?」

「どうも背中から落ちた……はん、どう……? ……まぁともかくそんなので、頭を強く打ってたっぽいよ。だから意識が一日も戻らなかったんだろうし」

 

 反動が咄嗟に読めなかったのか僅かに詰まっていた。

 

「ふ〜ん……んじゃ大きなケガとかは無いのか」

「どうもそうっぽいよ。医者の話じゃあ、怪我と呼べる怪我はさっき話した頭と背中、それと全身の擦り傷切り傷ぐらいっぽい。ま、それでも一応頭打ってるわけだから、念のため検査するから後三日は入院しないといけないっぽいけど」

「三日か……ってあれ? それだと学校始まるんじゃ……」

「ああ……そうだね。今二十九日だし。退院する日が始業式だね。しかも今年はその後日曜日だし」

「ってことは、部長と会えるのは当分先か……」

 

 癒枝がどうなったかあの人なら知ってると思ったんだけどな……あの山登りでの出来事を他人に説明できるのはあの人だけだし。

 だって雪音さん、人見知り激しすぎるから無理だろうし。

 

「んじゃあたし、そろそろ行くから」

 

 そう言うと我が妹は立ち上がり、この箱の出口のドアを開け、部屋を出て行こうとする――

 

「ねぇ、兄貴」

 

 ――と、ドアを開けて出た直後、こちらを向かずに声をかけてくる。

 

 外にある廊下の光景、向かいの部屋の出入り口を見せながら、妹は言葉を続ける。

 

「その、さっさと退院しなさいよ」

 

 その一言だけを残し、最後までこちらへと表情を見せず、妹は歩き去った。

 ……まったく……不器用な優しさだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「どうだ、桐生。調子の方は」

 

 夕陽が赤く映える頃、制服姿の部長がお見舞いに来てくれた。

 

「あ、どうも。と言うか、どうして制服なんですか?」

「あ? そりゃお前、どうしてお前たちが落ちたのかの事情説明だよ。雪音は人見知りが激しいからな……精神的に参ってるってことにして、全部俺が引き受けてんだよ」

 

 オレの質問に答えながら、ベッドの横に置いてあるパイプ椅子に全体重を預けるように座り、仕事から帰ってきたサラリーマンのような盛大なため息を吐き出す。

 

「まったく……昨日は昨日で、警察からも事情聴取されちまったんだぜ? まったく面倒だ……」

「ははっ……そりゃどうも、ご迷惑をかけてしまったようで……」

「心にも無いことを……。んで、怪我のほうは大丈夫なのか?」

「あ、はい。大怪我はしてないようなので、検査のために三日間入院しないといけないぐらいですかね」

「そっか……ま、それなら良かったよ」

 

 それならこうして見舞いに来た方が迷惑だったかな、と呟きながら、椅子を深く座りなおす。

 

 そんな部長を眺めながら、目覚めてからずっと気になっていることを訊かないのか、と頭の中の自分が声を上げていた。

 ……そう……今朝からずっと気になっていること。

 四日も部長に会えないから訊けないと落胆していた、あのことを。

 

 でも同時に……自分の心が、聞くべきではないと、警鐘を鳴らし続けてもいた。

 ここから先には踏み込むなと、今は知ってはならないと、そう警告しているかのように。

 でも……どうして鳴り続けているのかはわからない。

 ……なら……そんなもの気にせずに、訊けば良いじゃないか。

 

「その、部長……」

 

 そう決心したのに……心に言い聞かせたのに……何故か言葉を詰まらせてしまう。

 まるで、喉の奥に何かを詰め込まれたかのような感触。

 声として発する音を、無理矢理封じられているような感覚。

 

「ん? どうかしたか、桐生」

「……その……癒枝は……無事なんですか……?」

 

 そんな中であってもオレは、無理矢理言葉を紡いだ。

 だがその瞬間、心が重くなる感覚。

 まるで、言ってしまったことを、本能が後悔しているかのように……。

 

「……桐生……じつは今日お前の元に来たのは、話さないといけないことがあったからだ」

 

 話をはぐらかされた……? ……いや、冗談じゃない会話のときに、部長がそんなことをする訳が無い。たぶん、ここから癒枝の話に繋がるんだ。

 今はまだ、黙って話しを聞いておく。

 

「どうしてお前たちが崖から落ちて、それからどうなったのかを、俺が知り得る限りで教えておこうと思ってな……。だがその前に一つ、お前に訊いておきたいことがある」

「……何ですか……?」

「……お前は……お前の心は……どんなことにも耐えられるのか……?」

 

 …………。

 ……ああ〜……そうか……そういうことなんだ……。

 ……その質問で、わかってしまった。

 部長らしくない……その答えのわかってしまう質問で、わかってしまった。。

 

「……たぶん、耐えられません……。……でもオレは……知りたいです。部長がそんな“らしくない”質問をしてしまう程、堪えきれない出来事であろうとも……」

 

 そう……たぶん部長も、辛いのだろう。だから、質問するだけで答えがわかってしまう質問を、してしまっている。

 

 オレの言葉を聞いた部長は、しまった……、と一瞬だけ表情に現した後、少しだけ悲しげな――それでも自分だけは泣くまいと強がるような、そんな表情を作り、オレの目を見つめる。

 

「……わかった。なら話そう。たとえお前が、さっきの俺の言葉で、全てを悟ってしまったとしても」

「……お願いします」

 

 ……答えはわかってしまっている。

 でも……それでもオレは、聞かなければならない。

 そんな推測に近い理解ではなく、真実として理解しないといけないから。

 

 それだけそのことが、大切だと思えるなら。

 

「結論から先に言わせてもらおう――」

 

 一旦、そこで言葉を切る部長。……それは、それだけこの人も辛いのだとわかるには、十分すぎる。

 

「――癒枝は……死んだ……」

 

 ……ああ……やっぱりそうなんだ……。

 ……わかったことだ。覚悟したことだ……。

 ……それなのに……こうして言葉として心に響かせられると、自分の中身全てが圧し潰されているような、そんな感覚に支配されてしまう。

 

 ……そっか……死んだんだ……。……オレを……オレなんかを……助けた、ばっかりに……。

 

 ……さっきから鳴ってた警鐘の理由はコレかぁ……。

 ……警鐘を鳴らしているこの心自身が、聞いたら圧し潰されてしまうからやめろと、そう警告してたんだ……。

 

 ……それにしても……悲しいはずなのに……どうしてかオレの目から、涙が出ない……。

 ……大切な友人を……小学校からの付き合いの友人を、無くしてしまったのに……。

 

「……お前と癒枝が落ちたあの場所、どうも昨日からの台風で地盤が緩んでいたらしくてな……お前たちが森の中に消えてすぐ、土砂崩れが起きてしまったんだ」

 

 続く部長の言葉にも、黙って耳を傾ける。

 

「おそらく癒枝も最初は、お前と同じでかすり傷で済んでいたのかもしれない。だが……運悪く、その崩れてきた土砂の下敷きになってしまったらしくてな……」

 

 それじゃあもしかして……癒枝があの時オレを突き放したのは、一緒に土砂の下に埋もれてしまわないため……? 

 どちらにしろ両方助からないことを悟ったから、オレだけでも助けようとしたから……?

 

「……いや、もし土砂の下敷きになってなかったら、って話なんてしても無駄か……。……だってもう……堀井は……!」

 

 下唇を噛み、俯き、悔しげに呟く部長。

 

 でもどうしてか、オレはその姿を、無関心に眺めていることしか出来ない。

 ……大切な友人を無くしたはずなのに……こうして悔しがる部長よりも、長い年月を過ごしたはずなのに……。

 ……悲しさも……悔しさも……何も沸かない……。

 ただ、どうしてオレなんかを助けたんだと、そんなことを頭の中で思うことしか出来ていない。

 

「……桐生……」

 

 俯きながらも、いつも通りの口調に戻った部長の言葉。

 

「……こんなことを俺が言っても仕方ないが……お前は、生き続けろ」

「…………」

 

 そんな言葉をかけられても、やっぱり心には、何も沸かない。

 

「せっかく癒枝が生かしてくれた命なんだ……だからせめて、お前だけでも、生き続けてくれ……!」

 

 強く、願うような言葉。それはまるで、もう自分にとって大切なものは失いたくないと、心の底から願っているかのようで……。

 

「…………」

 

 でも……そうだとわかってもオレは、言葉を返せなかった。

 ……だって肝心の、言うべき言葉が、まったく浮かばなかったのだから……。