驚きの表情のまま、癒枝が、崩れ、落ちていく。そんな光景が記憶に刻まれていく。

 

 瞬間、オレは、落ちていく癒枝目掛けて飛び降りていた。

 

 そしてようやく、今頃になって、柵が崩れて、癒枝が落ちたのだと理解してきた。

 

 ……追いかけるように飛び降りたつもりだった。……でも実際、重力に導かれているその体は限りなく速く、闇に吸い込まれていく癒枝とは、相当な距離があった。

 

 何も聞こえぬ世界の中、自分の視界に映るのは、落ちていく癒枝の姿と、その後ろに広がっている、蠢く死の闇だけ。

 

 その蠢きはまるで、癒枝を誘う死神の手のように見えた。

 

「届けっ……!」

 

 ……落ちる時間は、本当に刹那。

 こうしてゆったりと景色が流れる奇跡の中、オレは必死に、両腕を癒枝へと伸ばす。

 

 ……勢いをつけて飛び降りたのが良かったのだろう。

 相当な距離があったはずなのに、何故かすぐに、落ちていく癒枝の腕を掴めた。

 

「っ……!」

 

 落ち行く癒枝が、驚きの表情をオレに見せる。

 だがそんなことも構わず、その小さな体を、強く抱き締める。

 

 ……オレ自身を犠牲にしても構わない。だからこの子だけは、どうしても、助けたい。

 

 その一心だった。

 

 ……瞬間、音が戻った。

 今まで何も聞こえなかったはずの耳が、風を切る音を拾い始める。

 そしてその音と共に、流れる景色が、刹那の時が、何故か除々に戻り始める。

 ……いや、何故か、じゃない。今までが異常だったから、こうなって当然だったんだ。

 何も聞こえなかったのも、流れる景色が見えなかったのも、長い時の中を生きているように感じたのも、全てが異常――奇跡の中にいただけなんだ。

 

 だからこうして、癒枝を助けることが出来たから、奇跡の中から飛び出してしまい、正常な世界へと戻ってきただけの話。

 ……自分の皮肉骨が砕け、飛び散る音を、ただ聞くだけのこの世界に、戻ってきただけの話。

 

「っ!」

 

 だがオレは、そんな世界から再び、奇跡の中へと戻された。

 腕の中から感じた衝撃と共に。

 

 何も聞こえず、大切なもの以外が見えない、ただゆったりと、時間(とき)が流れるだけの奇跡の中。

 そこでオレは、しっかりと抱き締めたはずの癒枝を、手放していた。

 

 ……理解した。オレが癒枝に、突き飛ばされたのだと。

 

「どうしてっ?!」

 

 そう叫びたかったけど、叶わない。

 

 こんなにゆったりと、時間(とき)流れる奇跡の中で、それは叶わない。

 

「……、」

 

 そんな中彼女は、何事かを呟く。

 

「……、」

 

 奇跡の中では聞こえぬ音。だから何を言っているのかは聞こえない。

 

「……、」

 

 刹那の時、だがゆったりとした奇跡の中、その口の動きで、オレに何かを伝えようとしている。

 

「……、」

 

 ソレは次で最後なのか、彼女は先程から徐々に崩していた表情を、満面の笑みにしてから、言った。

 

「……」

 

 最後まで聞けなかった。

 

 聞こえなかった。

 

 最後の言葉。

 

 それが発せられた刹那、オレは再び、奇跡の中から飛び出していた。

 

「癒枝っ!」

 

 一言、満面の笑みを浮かべたままの、彼女の名前を叫ぶ。

 

 だが次の瞬間――

 

 ――オレ達は別々に、蠢く死の闇へと飲み込まれた。