目の前にクマがいる。と言うより、クマの顔、というべきか。

 

 別に食べられる直前とか、そういうのじゃない。だって目の前にいるそのクマは、現実にいる恐怖の象徴そのものな顔つきではなく、子供に愛されるための愛くるしい顔そのものだからだ。……たぶん母親の方だろうなぁ……あんなに可愛らしいリュックサックを癒枝に背負わせたの。

 

 今時の小学生でも背負っているかどうか微妙なキャラモノのリュック。収納スペースが微妙なのと、何より背負うのが恥ずかしくなってくるため、年代が上がるたびに倉庫へと追いやられていくそのリュック。癒枝はソレを、高校一年生であるにも関わらず、平気で背負っている。……んまぁ、見た目と合わさって何の違和感も無いんだけど。言ったら殴られるだろうけど。

 

 四人皆で、部室でするような雑談をしながら歩き続け、今ではとっくに山道。

 セミの声もかなり大きく・多くなり、今となってはセミの巣に入り込んでしまったのではと思ってしまう。

 登り始めたばかりの時は、セミの声に負けじと雑談も続いていたのだが、坂道が続いてくると次第に口数は少なくなり、今ではチラホラと言葉を掛け合う程度。完全にセミの声に負けてしまっている。

 ……う〜ん……現役運動部のオレは余裕だし、先頭を歩いている部長も、表情を見る限りはかなり余裕。対して雪音さんは、何故か妙に艶かしい荒い呼吸を繰り返し、癒枝は今にも死にそうな表情で地面を眺めながら、ただ黙々と歩き続けている。

 ……仕方ない。部長に一番後ろを任された立場だ。疲れている二人に話しかけ、少しだけ気を紛れさせようかな。……余計なお世話かもしれないけど。

 

「どうした癒枝、大丈夫か?」

 

 とりあえずは、オレの目の前でクマさんをフラフラとさせている、今にも倒れそうな癒枝から。

 

「も、もちろんよ! 当然じゃない! この程度でくたばってちゃ、魔法使いなんて探してられないしね」

「おぉおぉ、何ともまぁ強気な発言。息が切れてるのをバレないようにしてるだけ上等だな」

「は? 息なんて切れてないし」

「いや、さっきまで切れてたの見てたからな」

「いつもみたいに幻覚でも見てたんじゃない」

「いつも見てるみたいに言うなよ、失礼な」

「えっ?!」

「何でそこまで心底驚ける?!」

「いや、うん、まぁ……本人が気付いてないなら、いっかなって」

「見えてないから! 本当に見えてねぇから!」

「うんまぁ知ってるけど」

「ウゼえええぇぇぇぇぇ! その突然の切り替えウゼえええぇぇぇぇぇ!!」

「まったく、突然叫びだして……うるさいんだけど?」

「自分のせいだと自覚無しなのがさらにウザい!」

「えっ? これあたしのせいなの? いきなり話しかけてきたあんたのせいじゃないの?」

「いきなりじゃないって! 辛そうだから心配してやったんだよっ!」

「あ、そうなの?」

「そうだよ! 何なら、そのクマさんリュック持ってやっても良いかな、って思ってたんだよ」

「そうなんだ。てっきりまたあたしのことをバカにしてるのかと思った」

「なんで息切れして疲れてるヤツをバカにすんだよ。そこまで根性捻じ曲がってねぇ!」

「そっか……うん、そういえばあんたは、そんな自分の力を誇示するような内容で、本気で他人をバカにはしないよね」

「お、おうよ」

 

 突然殊勝になられたので、ちょっと戸惑ってしまう。

 

「う〜ん……そんなことも忘れるなんて……やっぱ疲れてるかなぁ……」

「何でそんなに疲れてんだよ」

「単なる運動不足よ。これでもまだ現役でいけると思ってたんだけどなぁ」

「武術だっけ? やってたのだいぶ前じゃないのか?」

「うん、小学校卒業までかな」

「そりゃ体力も落ちるって。三年間も体動かしてなかったら。やっぱりそのリュックサック、持とうか?」

「……ううん、それは大丈夫。そんなことまであんたを頼ってちゃあダメだし」

「いや、他の事でお前に頼られた記憶なんて無いんだけど」

「そう言えばあたしも、あんたに頼った記憶なんてないわね」

「てめぇ……」

「ま、何にしても大丈夫よ。それにこんなとこでヘバってたら、魔法使いなんて探せないもんねっ」

 

 その言葉を合図にするかのように、癒枝は自分の体に勢いをつけ、先頭を歩いてる部長に追いつこうとする。……ま、あの調子なら頂上までもつか。気のせいだろうが、あのクマも元気良く揺れているように見えるし。

 

 ただまぁそうなると問題なのは――

 

「はぁ……くぅ、うぅっ……はぁ、ぁはぁ、はぁ……っ」

 

 ――オレの目の前を歩いて艶かしい声を上げ続けている雪音さんかな。ってかアレ、狙ってやってる? 息継ぎじゃなくて喘ぎ声に聞こえて仕方ないんだけど。

 

「その、大丈夫ですか? 雪音さん」

 

 隣に並び、顔色を窺いながら声をかける。

 

「あ、桐生くん……。はい、心配してくれてありがとうございます。割と大丈夫な方です」

 

 割と、という言葉が気にはなったが、話す時に息が切れていないところを見ると、本当にまだ大丈夫ではあるようだ。……もっとも、癒枝のように本当に大丈夫なんじゃなくて、ギリギリ大丈夫、な分類だろうけど。

 

「本当に大丈夫ですか? 何でしたらその荷物、持ちますよ?」

「お、お気遣い感謝します。でも大丈夫です。これはその、わたしが引き起こした不祥事ですから。俗に言う自業自得ですから」

「何もそこまで自分を責めなくても。と言うかもしかして、遠慮してます?」

「そんな、遠慮だなんて。してるに決まってるじゃないですか」

 

 決まってるんだ。……まぁたぶん、疲れて思考回路が半ば働いていないのかもしれない。言っていることの半分以上は脊髄反射で口から出しているのだろう。それなら――

 

「――遠慮なんてしなくて良いですよ。これでも運動部ですから、体力にも力にも自信がありますし、本当に持ちますよ」

 

 いえそんな、と遠慮の言葉を続ける雪音さん。でもこの時、オレの耳にはその言葉が入ってこなかった。

 

 胸元のボタンが外れている。その事実に気付き、その一点にのみ意識を奪われてしまっていたからだ。

 

 まぁ胸元のボタンが外れているからと言って、別に素肌が直に見えてるとか、む、胸の谷間とか見えてる訳じゃないんだ。だって例の土色の服の下には白のTシャツを着ているし。

 でも……それが逆にいけなかった。無地で白なのがいけなかった。

 だって胸元から水色が透けて見えてるんだもん! アレどう見てもブラだよ?! 汗でめちゃめちゃ透けちゃってるよっ?! 見ない方が雪音さんのためだってわかってんだけど……いやでも見ちゃうよっ! スケベとかじゃなくて見ちゃうって! 好きな女の子の胸元だよ?! 普通の健全な男子なら見るでしょっ?! っつか雪音さん胸大きすぎるし! いつも制服越し&本人主張からしか目測と憶測しか出来なかったけど、あの水色の膨らみ半端ねぇって!

 

 いつもこう、後輩のオレと癒枝にまで丁寧に話す程、他人と距離を置いている雪音さん。そんなある種城壁のような彼女の、ちょっとくずれたような穴を、チラりとはいえ見てしまった背徳感。それがさらにオレの興奮度を増幅させる。……くそぉ……暑いから自分で胸元を開けたんだろうけど……これはとんでもないなぁ……色々な意味で。

 

「どうかしました?」

 

 バッ、と視線を逸らす。雪音さんとは反対方向、そこにある木を眺めるように逸らした。

 ……咄嗟すぎて、逆に怪しかったかな……? 見てたのバレたかな……? スケベな野郎と幻滅されちまったかな……?

 

「いえ、別に」

「そうですか。でも、そんなにそちらばかり見て……何かありました?」

「いえ、その、何もありませんが……ただまぁ、この自然な空気がスゴく良いなぁ……と思いまして」

 

 内心の動揺を抑えながら、誤魔化しから誤魔化しへと続く言葉。でも雪音さんはそれに納得してくれたのか、そうですねぇ、と言葉を続けてくれる。

 

「この景色、味、香り、音、感触……それら全ての――風や土から感じる自然全てが、とてつもなく良いですねぇ……」

 

 全面的に同意はするが、味って何だ? ……まぁでも、誤魔化されてるんなら、このまま波に乗っとくか――

 

「――そうですね。それにしても雪音さん、良くそんなことわかる余裕がありますね。辛そうなのに」

「それは違いますよ、桐生くん。辛いから――辛くなれたから、わかったことなんですよ」

「え?」

「家でゴロゴロしてても、こんな、五感全てでわかることなんて出来ないでしょう? 実際に外に出て、歩いて、息をして、辛い思いをするからこそ、五感全てで分かれるんです」

「……なるほど、確かにそうなのかもしれません。よく店とかに“森のアロマ”とか売られてますが、結局ソレから発せられているのが本当に“森の香り”なのかわかるためには、実際に森まで足を運ぶしかないですからね」

「そうです。何事もそうなんです。実際に足を運び、自分自信が苦労しないとわからないんです。……何もかもが」

 

 重みのある言葉。そう感じたのは、錯覚ではないのかもしれない。

 だって雪音さんは、人の冷たさに恐怖し、人との関わりを断ち、人の暖かさをわかろうとしなくなったことが、ある人だから。

 

 今はこうして、オレと癒枝と接することで、暖かさをわかっている。でもそれは……まさに彼女自身が言った通り、自分の足でオレ達に近付こうとしたからだ。

 近付こうとして、近付けたから、関わりを断つ前に感じていたこの暖かさを、再び感じることが出来てるんだ。

 ……癒枝は自分からも、彼女に歩んでいた。

 でも……オレは違っていた。

 オレだけは、彼女に歩み寄ろうとしなかった。

 だからこうして、オレと彼女が話せているのは……彼女一人の、歩み寄るという努力の賜物なのだ。癒枝と話すことで与えられた「他人からもらえる暖かさ」というものを原動力に――

 

「――だから雪音さんは、わかっているんですね」

 

 無意識に、言葉を紡いでいた。

 

「自分自身が苦労することで得られる幸せほど、尊いものが無いということを」

「…………」

 

 ……はっ! かなり寒いこと言っちゃったかな?! 言葉が返ってこないし……。……まぁ確かに、山登りしながら言うことでもなかったかもしれないけど……なんでかなぁ……無意識のうちに口が動いてた。

 

「……ホント、桐生くんはスゴイですね」

 

 オロオロと、何か言い訳を考えていたオレを雪音さんは見上げ、言葉を続ける。

 

「だからわたしは……あなたのそういうところが――」

 

ブゥン!

 

「うおぉ!」

 

 雪音さんとは反対側の耳元からとても大きな羽音がした。

 身を反らしながら反射的にそちらへと視線を向けると、そこには大きな蜂。

 手で払おうとすると刺されるかもしれないし、だからと言ってそのままにしておいても刺されるかもしれない。そんな八方塞な恐怖心が燻り(くすぶり)、身体が緊張で固まるが、その蜂はすぐさまオレの元から飛び去ってくれた。

 

「ふぅ……スイマセン、雪音さん。それで、さっきは何て言おうとしたんですか?」

 

 恐怖心と固まった身体を霧散させながら、雪音さんにさっきの言葉を求める。ついさっきの蜂に意識が向きすぎていたため、恥ずかしながら最後の雪音さんの言葉が聞こえてこなかったからだ。

 

「……いいえ、別に何もありません」

 

 ……ああ〜……しまった。どうやら大事なことを言ってくれていたみたいだ。こんなに不機嫌そうに言葉を返すって事は、そういうことなんだろう。……まぁ、今回は全面的にオレが悪いし、おとなしく謝っておくことにする。

 

「本当にごめんなさい! 雪音さん! オレが蜂なんかに意識を向けてたせいで……」

「別に。桐生くんは悪くありませんよ。悪いのはあんな蜂に刺されるか刺されないかのタイミングで話しかけたわたしです」

「そんなことありません。雪音さんは悪くありません。悪いのはオレです」

「いいえわたしです。こんな空気の読めないデブでチビで運動神経皆無な人間として最下層のわたしに話しかけてくれた桐生くんに気も遣えないわたしが全面的に悪いんです。まぁだいたい足も遅いし太いのに考え無しにこんな重い荷物持って来たのが悪いんです。元を正せばそこが悪いんです。だってちゃんとそこが正しかったら桐生くんはわたしに話しかける必要性もゼロになれた訳ですからこんな口論にも自動的にならなかった訳ですよ。だから今回は全面的にわたしが悪いんです。だから気にしないで下さい」

 

 ああ……しまった……また自虐モードに入らせてしまった……。

 ……まったく……あの蜂め……。何もあのタイミングで来ること無かったじゃないか……。おかげでどうやってこの雪音さんを静めようか考えるハメになってしまった。……いやまぁ、蜂に怒っても仕方ないか……それに何より、オレ自身がさっき、オレ自身のせいだ、って言ったんだ。それなら責任持たないとな……。

 

「おいっ、二人とも! 何ノロノロと歩いてんだよ! さっさとここまで来い!」

 

 とりあえず謝り倒そうかな……と考えだした頭上から部長の声。

 部長の立っている場所から先は坂道になっていないのか、視線を上げて見た部長の背後には、微かな葉と広がる空があるのみ。

 

「あ! ほら行きましょう! 雪音さん」

 

 これは天の助けとばかりに、自虐を繰り返しそうな雪音さんの返事も待たずにその手を取り、駆け上がるように残りの坂道を登りきる。

 ……あ、いつの間にか手を握っちまった……。

 いやいやいや、意識するな意識するな! ここで意識したら余計に恥ずかしくなる! 堪えろ……堪えろ……堪えろ!

 

「ん? どうした桐生? 顔が赤いようだが」

 

 でも堪え切れなかった。部長の元に辿り着き、荒い息を繰り返すオレの耳に入ったのはそんな部長の言葉。

 でもまぁとりあえずは、急いで来たから呼吸が乱れた、って言い訳がた――

 

「まさかお前に限って呼吸が乱れたのか? それでも硬式テニス部だろ? 練習不足な訳はないし……外的要因でがむしゃらに走ってきちまったか」

 

 ――たなかった。……さすが部長、侮っちゃダメだった。

 確かにまぁ部長の言う通り、雪音さん以外の意識していない人の手ならば、いくら引っ張り上げようともあれぐらいの距離で呼吸は乱れなかっただろう。だからこの呼吸の乱れは……まぁ、アレだ、好きな人の手を握っちゃったと意識しちゃったから……何だけど……まさかソレをあっさりと部長に見抜かれるとは……。

 

「ま、それはそれとしてだ。良いからお前も、ここからの景色を眺めてみろよ」

 

 少年の様な明るい部長の声に、誤魔化しと呼吸を整えるために下げていた顔を上げる。

 

「……!」

 

 ……絶景だった。

 言葉で言い表せない程の、絶景だった。

 だから口すらも、言葉を紡ぐことを忘れてしまっている。

 

 目の前にある木で出来た手すりのような柵。

 そこから向こうに広がる、雲一つ無い、地の果てまで広がる蒼い空。

 その空を輝かせている陽の光。

 そしてその光で照らされる、空以上に輝やく街並み。空の果てまで広がる大地。

 柵に近付き眺めるその景色の目下、広がる葉々は陽の光を受けてより一層の明るみを見せている。

 今まで歩き・見上げることで眺めていたものと同じとは思えないほどの色素の薄さ。落ちたら二度と戻れないと思ってしまうが故の恐怖心はあるものの、それ以上の感動が、今は心の中を支配している。

 

「スゴイと思わない?! ねぇっ!」

 

 オレや雪音さんよりも先に、胸の高さほどしかない木の柵に全体重を乗せてその景色を眺めていた癒枝からの言葉。子供の様なそのはしゃぎっぷりを横目に見ながらも、視界のほぼ全てはその景色に奪われていた。

 

「……ああ……これは、スゴイ……」

 

 ようやく出た擦れるような声。一昨日までの台風のせいで足元がまだぬかるんでおり、もしかしたら癒枝が体重を預けているあの策が壊れるんじゃなかろうか、と心の片隅で懸念するものの、口に出そうとは思えなかった。

 だってそれほどまでに、この景色に見惚れているのだから。

 

「どうだ? これだけで、ここまで来て良かったと思えないか?」

 

 オレの隣に並ぶように立った部長からの言葉。……この時になってようやく、耳にセミの声が戻ってきた。……あまりに見惚れすぎていて、今の今まで耳に入ってこなかったのか……。

 

「そうですね……確かにこの景色は、とてもキレイです」

「写真に収めないのか?」

「写真なんて……オレは持ってきてませんよ。そういう部長は?」

「俺だって持って来てないさ」

「ああしてはしゃぐだけはしゃいでいるところを見ると、癒枝も持ってきて無いようですし」

「雪音もたぶん、持って来てないだろうな」

「それじゃあこの景色は――」

「ああ。目に焼き付けるしかないって事さ」

 

 少しだけ悲しみが沸くが、ソレと同時に、この景色がとてつもなく貴重なものなんだとも思ってしまう。保存できないからこその、この感情。……でもま、――

 

「――もし保存できたとしても、今こうして見ている以上の感動は、引き起こせないでしょうけどね」

 

 誰にでもなく呟く言葉。返事を期待した訳でもないその言葉に部長は、確かにな、と返事をしてくれた。