昨日とは変わらぬ快晴。だが今日は昨日とは違い、ジメジメとした暑さは無い。カラッとした暑さと言うのだろうか。
待ち合わせの時間二十分前、冷房の効いた涼しい電車内を名残惜しげにしながら降り、この駅唯一の改札口へと足を運ぶ。
駅員のいない自動改札に切符を飲み込ませて出た先は、アスファルトに支配された地面。
だが眼前に広がるは山に生い茂る木々。舗装された道路と歩道を十分も歩けばその山道へと差し掛かれそうな、そんな場所。
「……何だ、オレが一番乗りか……」
同じように改札を抜ける、リュックサックを担いだ初老の人達に紛れるように部長ぐらいはいるかと思ったのだが、生憎とそのアテは外れてしまったようだ。
この駅へと着くための電車は十分おきにしか発車されていない。つまり、後最低十分は一人で待ちぼうけということになる。
「はあああぁぁぁぁぁ〜〜〜……」
ため息を吐きながら、切符売り場の正面に設置されているベンチに座る。オレと同じように降りた初老の方々は、メンツが全員揃ったのか早々に山へと向けて歩き出した。
その様子を眺めながら、ふと、空気が違うことを感じた。……これが自然の空気というのだろうか。
熱しられたアスファルトのような濁った匂いじゃない。草と花と木、それら全ての自然の匂いが混じったような、日常生活ではあまり嗅がない匂い。
中でも一際抜きん出ているのはレモンミントのこの香り……。……レモンミント?
「堪能して頂けたかな?」
「うわあぁあ!」
後ろからかけられた耳元への突然の声に飛び退いてしまう。
ベンチの背もたれと壁の間に挟まる形で立っていたのは、手に何かを持った部長。
「何をそんなに驚いている?」
オレのその行動が意外だったのか、その人は少しだけビックリしたような表情をして訊いてくる。
「いや、突然そんなとこから現れたら、誰だってビックリしますよ……」
「何を言っている。突然も何も、俺は最初からここにいたぞ」
いや……そうだったか? 部長の言葉に記憶を呼び戻すも、確かに座るまで誰もいなかったように思えるんだけど……まぁ、考えるだけ無駄か。部長の行動だし。
「そんなことよりも部長、堪能して頂けたってのはどういうことですか?」
「なに、この香り玉の香りはどうだったかと思ってな」
と、手に持っている何かを掲げながら部長。
よく見るとそれは、手の平に収まりそうな程小さな瓶。その小瓶の蓋には針で空けたような小さな無数の穴。肝心の中身は半透明の黄色い石――
「――香り玉……と言うより、石、ですか? どうしてそんなもの山登りに持ってきたんですか」
「何かと便利そうだろ?」
「そんな気はまったくしませんが……」
「ふぅ……仕方が無い。本当の理由を言うとだな、熊に俺達の場所を教えて近付かせないためにさ」
「あの山、熊なんていませんよ」
「なに、冗談だよ。じつは山を登っている登山者に“ん? どうしてレモンミントのかほりがするんだ?”と錯覚させるためだ」
「そんなことする必要性を感じませんが。と言うか“かほり”ってそのまま読まないで下さい」
「ま、それも冗談でだな、本当の理由は……ほら、アレだ、山を登っている間にストレスが溜まった時のためのリラックス効果を狙って……ってのはどうだ?」
「リラックス効果は自然の香りでどうとでもなります。と言うか、どうだ? って聞いてる時点で色々と間違ってる気がします」
「……ま、そんなことはどうでも良いさ――」
あ、誤魔化した。
「――それよりも皆、遅いな」
……ま、深く言及したところで、やっぱりのらりくらりとやり過ごされるだけだしな……――
「――そうですねぇ……と言うか、部長はいつから来てたんですか?」
「ん? 俺はお前が来る十分前には着いてたぞ」
「ってことは、予定の集合時間三十分前……いくらなんでも早すぎません?」
「ま、そう言うな。今日は部活なんて関係ないが、それでも俺はお前たちの部長だからな。待ち合わせ場所の基点が必要だろうと思ってな」
「それで早くですか……さすがです」
「ま、年長者として当然のことさ」
「同じ年長者の雪音さんは来てませんが」
「……ま、それもまた雪音らしいってことで」
ちょっと遠い目をして、何処か達観者っぽいセリフを吐く部長。……ああ、どうやらコレ、二人で示し合わせて三十分前に来るつもりだったな……。
で、雪音さんは寝坊か何かで遅刻。仕方無しに部長一人で待っていたと。
で、暇だから近くをブラブラとして、暇つぶしにあの手に持っている物を買ったと……そんなところか。売ってる店を見られたくない部長のことだから、たぶん今日は寄ることの無い、山とは反対方向にある店で買ったことだろう。
そんな部長の今日の服装は、皮のズボンに白のTシャツ、さらにその上から薄ピンク色の半袖シャツを羽織った、街中にいてもおかしくないが動きやすさもある格好。山登りをするには不向きなような気もするが、部長の足元にある茶色くて大きめなナップザックを見ると、服装に反して準備はバッチリなのだろう。
……と言うか、部長があの服を木の枝に引っ掛けて破く姿なんて想像できないし……。
完璧超人、ってイメージがオレの中で定着しつつあるからなぁ……。
「それよりも桐生、次の電車が来るまでオセロでもしてるか?」
部長は自分のリュックサックに手を突っ込み、マグネット式のオセロ盤を取り出して訊いてくる。
「山を登る時までオセロですか……」
「イヤなら構わないんだが」
「いや、イヤとかじゃなくてですね、まさか山登りの時まで持ってくると思ってなかっただけですよ」
「じゃあやるのか?」
「もちろんです。受けて立ちましょう」
オレの返事を聞いた部長は、折りたたみ式のオセロ盤を広げ、中に収納されているコマを取り出して半分をオレに手渡し、そのままオレの隣に盤を置く。
そしてその盤を挟んでオレと向かい合うよう座る。
三人掛けのベンチをオレ達二人で占領して良いものか……と懸念はしたが、周囲を見回すと人なんて一人もいなかった。むしろ駅員ですらいなかった。……やっぱ田舎なんだなぁ……。
◇◆◇◆◇
「……う〜ん……」
中盤戦、そろそろ何処に置くかを真剣に考えないといけなくなってきた頃、ようやく電車の着く音が聞こえてきた。
「……ああ、くそぉ……勝負はここまでですかねぇ……」
唸り、自分が置いた結果から部長がどう置くかの過程を必死に想像していたオレとしては、この勝負の中断は果てしなく消化不良な感じ。
部室で打ってる分ならそのまま放置して翌日なんてことも出来るのだが、生憎とここは外で、しかもこれから山登り。とてもじゃないが棋譜を記憶したり記録したりして置いておくことも出来そうに無い。
「そうだな……ま、続きは明日にでも打とうじゃないか」
「えっ? このまま置いておけるんですか?」
「いや、さすがにそれは無理だが――」
至極あっさりと、いつも部室で打っている時みたいな流れで言うものだから、このままの状態を維持できるもんだと思ったんだけど……。
「――この程度の数なら一週間ぐらい憶えておけるさ」
それよりもスゴイことを、この人はサラりと口にした。
「……えっと……今なんて言いました?」
「ん? だから、これぐらいの数なら一週間ぐらい憶えていられるって話だ」
あ……聞き間違いじゃなかったんだ……――
「――それじゃあもし、オレがこの状況を盤ごと引っくり返しても、すぐに同じようにコマを置けるってことですか?」
「ああ、当然だ。むしろすぐに置かせてくれるなら、勝負が全部終わって一から全部、順番どおりに置いていけるぐらいだ」
「それってもしかして……かなりスゴイんじゃないですか?」
「もしかして、じゃない。かなりスゴイんだ」
「自分で言いますか……それ」
「ああ。と言うより桐生、お前だって昨日は盤を巻き戻していたじゃないか」
「アレは巻き戻した場所が、自分なりに節目となる場所だと思ってたからですよ。あそこより前まで戻せって言われても無理です。現にあの後、教えてもらう時は全部部長にまかせっきりだったでしょ」
「そう言われればそうだったな……ま、何にせよ、この続きは帰ってからにしよう」
「……何だか死亡フラグみたいですね」
「このまま帰ってこなくなるってか」
互いに笑みを浮かべながらの冗談。そんな言葉を交わしながら盤を片付けていると、改札を抜ける人の群れ。
「……また年寄りが多いなぁ」
「そうですねぇ……」
部長の言葉に同意を返しながら、その中から癒枝と雪音さんの姿を探し続ける。
……んん〜……中々見つからない……。やっぱ二人とも小さいからなぁ……特に癒枝は。
「すいません! 遅れました!」
と、昨日と一字一句同じ言葉を発しながら雪音さんが駆けて来た。
「特に兄さんすいません! 予定よりも二十分も遅れてしまって……」
「いや、それは構わんが……マイシスター、その格好はどうしたんだ?」
「どうって……山登りのための格好ですよ」
あの部長が冷や汗を流しながら戸惑いを浮かべている……珍しいなぁ……。
でもその反応をものともせず、自分の格好が至極当然とばかりに返事をする雪音さんも相当だなぁ……やっぱ双子の兄妹か。
確かに雪音さんの格好は山登りをするのに適しているだろう。でもアレじゃあまるでロッククライミングの方の登山だ。今日オレ達がするのはあくまでレクリエーションとしての登山なのに。
それにあの土色の服、色気も何もあったもんじゃない。身体のラインが隠れまくり……って訳でもないか。相変わらず胸の大きさは分かるままだし。
だがそれでも、まだ一緒に改札から出てきた初老の方々の方が、肌の露出もあって色気が多いかもしれない。……んまぁ、雪音さん自身が人に慣れてないから当然なのかな……。
と言うか、あの格好で電車を乗り継いできたのか……。ある種の英雄だなぁ……雪音さん……。
「ま、確かに山登りをするには適しているが……もう少し軽くても良かったんじゃないか?」
「山を侮っちゃいけません! 兄さん!」
雪音さんの背負っているリュックサックを指差しながらの部長の言葉に、雪音さんは強く否定の言葉を返して続ける。
「良いですか?! 山というのは恐怖の対象なんです! かの武田信玄も言ってました! 風林火山って!」
「それは山の恐怖と関係ないような……」
「何言ってるんです! 関係大ありですよっ! そうして武の中の策略に埋め込んでも違和感のないほど危険な事象だってことなんです! だから! 山はとても危険なんです!」
「ああ……わかった。それは理解できた。それじゃあ訊くが、そのリュックの中には何が入ってるんだ?」
「コンパス・雨具・コンパス・日本地図に、この山の登山地図のコピー、それと懐中電灯と非常食と飯ごうと――」
「OKOK。わかった、もう良い。準備万端だってことは伝わったからな。俺が責めて悪かったよ」
お手上げのポーズをしての部長の言葉に納得がいったのか、雪音さんは言葉を止めた。
「にしても、癒枝は来てないんですかね?」
人の群れと二人の会話が止まったタイミングを見計らい、二人に言葉をかける。
「待ち合わせの時間十分前何ですけど……」
「……俺が思うにだな、おそらく堀井はこの次の電車で来ると思うぞ」
部長の返事に、思わず、えっ、と言葉を発してしまう。
「アイツのことだ。待ち合わせの時間=電車の到着時間ってところだろ」
続く部長の言葉に、思わず納得してしまう自分がいた。
「あんのガキャぁ……」
それでもやっぱり、そんな呟きが漏れてしまう。
だってさ、一番乗り気じゃないオレが二番目に到着して、一番乗り気のアイツが一番最後って……むしろアイツこそ、部長よりも早く、一番乗りで来ているべきだろうと! ――
「――と言うか部長、どうしてそう思っているのに、三十分も前にココに来てたんですか?」
「おっ、何だその突拍子もない質問は」
「当然の質問ですよ。だって癒枝の到着時間についてそう思うなら、雪音さんが着いた時間に着いてても大丈夫だったじゃないですか」
「そりゃそうなんだが……桐生は違っただろ?」
「えっ?」
「俺はさ、桐生は何だかんだ言って二・三十前に着くだろうと思ったのさ。だから、三十分前に目的地に着くように家を出たって訳だ」
それじゃあ……まさか部長は、オレのために……――
「――何か、迷惑かけちゃいましたね」
「そんなことはない。俺が勝手にやったことだからな。それにま、俺としても狙いはあったのさ」
「狙い?」
「そ。ま、誰かさんが遅れたせいで無駄になっちまったがな」
誰かさんが遅れてしまったせい……それって間違いなく、雪音さんのことだよな……それじゃあもしかして部長、オレが雪音さんのことを好きなのを、気付いている……? そんで、早く来ることで、オレと雪音さんの仲を進展させようと……。……ま、確かに、お節介だし、勝手にやったことだって言えばそれまで何だけどさ……それでも――
「――何か、やっぱり気を遣わせちゃったみたいですね。その……ありがとうございます」
お礼を言うのは、間違いじゃないよな。
……何故か部長が驚きの表情を作っている。……お礼を言うのがそこまで変だったか? ――
「――その、何かおかしなことでも言いました?」
「……ああ、いや……そうじゃないさ。……ただまぁ、ちょっとな」
何故か言葉を濁された。……んまぁ、疑問には思うも、オレじゃあ到底理解できないことなんだろう。部長が考えるほどのことだし。
◇◆◇◆◇
結局癒枝の奴は、部長の予想通り次の電車で来た。
「あれ? もう皆揃ってんの?」
でも同じ電車の中で見かけなかったんだけどなぁ……なんて呟きながら近付いてくるロリータ暴君。
銀色のツインテールをなびかせながら悠然と現れるその様はどこか絵に……なる訳がない。むしろそんな詩的な言葉よりも、オレの中は苛立ちで支配されていた。
「お前さぁ……発案者なんだから少しでもいいから早く来とけよな」
自分でも分かるぐらいの苛立ちがその言葉にはこもっていた。
それでも癒枝は平然と、コイツ何怒ってんの? と言わんばかりの表情で見つめ返してくる。
「何で? 待ち合わせの時間はこの時間に指定してたじゃん。それより遥かに遅くにさえ来なければ大丈夫でしょ。決めたのはあたしだし」
んまぁ……決めるべきこと全てを任せたのはオレだし……確かにそう言われると返す言葉も無い。だがそれがわかっていても、苛立ちは拭い去れない。
「それにしてもあんた……ダッサい格好ねぇ」
……残念ながら、こんな心の状態でそんなことを言われて自分の感情を抑えきれるほど、オレは大人じゃなかった。
「うっせぇ! おめぇこそその格好なんだよ! 山舐めてんのか! 山舐めてんのかっ!」
「何で二回言うのよ」
「何となくだよ!」
「逆切れ、カッコ悪い」
「公共広告機構みたく言うなよ! っつかマジその格好は山登りに適して無いって!」
「そんなこと無いわよ。ま、確かに雪音とかあんたに比べれば適してないのは事実だけど、それでも激しく動くことに支障は無いわ」
ええまぁ、どうしてこんなに自分はキレているのか、と冷静に考える自分がこうしているのは事実ですよ。でもね、こうして冷静な局面の自分から見ても、あの癒枝の格好は山登りに適していない。
だってジーパンにTシャツですよ? Tシャツはまぁ、たとえ柄物であっても許すよ。動きやすいことに変わりはないし。たとえブラのラインが透けて見えていて「おいおい、生物学的性別では女なんだからもう少し気を遣えよ」とか思っても、本人の問題だし、何よりオレ自身悶々として集中できなくなる訳でもないから、このことに関しては放置で良いと思うんだ。
でもジーパンはダメだろ。しかも腰パン。
どんだけ山道舐めてんだよっ! 現代っ子にも程があるだろっ! そりゃオレだって雪音さんみたいに本格的にしろとは言わないさ! でももう少し、せめて部長ぐらいには気を遣って欲しいよ! まったく!
ちなみに、癒枝に格好悪いと言われたオレの格好は、白を基調とした二本の黒いラインが入ったジャージの上下。長袖長ズボンだが、生地自体は薄めで通気性は良く、しかも上は羽織っているだけで袖も捲くってある。ジャージの下には黒のTシャツも着ているし、まさにこれから「運動開始だっ!」と言わんばかりな格好。
……ま、ぶっちゃけ硬式テニス部の時にしている服装なんだけど。……別に山登りをするからって、変じゃないよな?
「まぁまぁお二人さん、その辺にしておこうじゃないか」
デッドヒートしそうになってきた口喧嘩は、部長のその一言で止められた。
「それじゃあま、山に向かって出発だ!」
言葉を止めたオレ達に向かって、そのまま元気良く宣言。……じつは何だかんだで、この人が一番楽しみにしていたのかもしれない。