翌朝。予定通り自宅へと向かう道すがら、俺の頭の中はある言葉で埋め尽くされていた。

 ……眠い。果てしなく眠い。

 一昨日に引き続き昨日まで満足に寝ていない。

 一昨日は踏まれ、蹴られ、突き落とされた恐怖で。

 昨日は、獣と血と肉片と、間近に迫った死の恐怖で。

 昨日も言ったと思うが、他人の前なら人間は強がれる。人との繋がりと言う温かさ、心配をかけたくないという気持ちの有り方、それら諸々のおかげで。それはもちろん、俺にも適用される。

 でも一人だとそうはいかない。

 人との繋がりがないという寂しさ、心配をかける人がいないという気持ちの有り方、それら諸々が心を締め付ける。それにより心は、途端に弱くなってしまう。そして、今の俺のようになってしまう。

「大丈夫か? 雄樹」

 俺の隣を歩いている勇者が声をかけてくる。他の三人はと言うと、俺の前を歩いている彩香さんを交えて楽しそうに会話している。昨日俺が星辰を送って家に帰って来た時には、すでにあれぐらい仲良しになっていた。セリアとミレイに至っては、一緒に風呂にまで入ってたぐらいだ。

「ああ、大丈夫だ」
「とてもそうは見えないのだが……やはり、昨日のことが残っているのか……?」
「……まぁな」

 勇者にウソなんてついても仕方が無い。親友なんだから正直に話す。

「でも、それでも大丈夫だ。俺は、強がるのだけは得意だからな」

 そう言って、微笑む。寝不足のこの顔で微笑んだところで効果があるのかどうか疑わしいが……それでも勇者はとりあえず納得してくれたみたいだ。

「そうか……。俺が言うことでは無いが、無理はするな」

 それっきり勇者から喋りかけてくることは無かった。

 その俺の望んでいた優しさがうれしくて、俺はお礼を言うことすら忘れてしまっていた。

 

 

 

 そうして前の集団だけ仲良さ気なまま自宅前に到着。まずは彩香さんが挨拶に行くということなので俺達は門扉の前で待機。

 にしても……相変わらず無駄に広い。すでに散り去った桜の大樹、手が行き届いているのに家のキッチン程の広さはある花壇、それらがありながらもまだ余裕のある庭。その広さのせいで、門から扉までの距離は結構ある。しかもその扉を入口とした建物もデカい。家の二倍ほどの広さ、星辰の家程ある高さ。……まぁ自宅なんだから、遠回しに自慢してるみたいだけど……正直、中学卒業までこの広い家に住んでいた実感があまり沸かない。向こうの家の方が暮らしている期間は短いのに……それだけ向こうの方が充実していると言うことか、それとも大事と言うことか……。

「と言うより、何で制服?」

 今更気付いた。勇者たち全員が制服で家に訪れているという事実に。

「他に服が無いからに決まっているだろう」
「ああ……そうか」

 勇者のその答えを聞いて納得した。何か、色々な事がありすぎたせいで抜けていたけど、俺と勇者達は出会ってまだ一週間も経ってない。それはつまり、休日を共に過ごしたことすらないと言う事。そりゃ服も買いに行けないわな。……ん?

「それじゃあ、その制服はどこで手に入れたんだ?」

 当然の疑問。時間が無かったのは先程も話したが、むしろ勇者たちにはお金も無い。

「ああ、これは手に入れたのではない。形状を変えているだけだ」
「形状?」
「まあ見ていろ」

 そう言うと勇者は目を閉じて集中。すると勇者の制服が淡い光を放ちながら形を変える。そして光が鎮まる頃には、いつもの赤黒い胸甲冑に真紅の外套という姿になっていた。

「こういうことだ」

 勇者はそう言うと、再び服装を制服に戻す。戻し終えたタイミングを見計らい、再び発生した疑問をぶつける。

「それじゃあ、それで私服姿になることは出来ないのか?」
「それは無理ね」

 その俺の疑問にはセリアが答えてくれた。そのままセリアに訊いてみる。

「何で?」
「この形状が変えれる服装、登録できる服はいつもの服を除いて三つまでなの。もし登録したら、登録した服装の世界換算で一ヵ月は変更できないし」
「それじゃあ大丈夫じゃないか。まだ制服しか登録して無いだろ?」
「あたし達、ちゃんと体育の授業も出てたでしょ」

 そう言えばそうだった。たった今呆れた口調で言われるまで思い出せなかった。

「それでも後一つあるじゃないか」
「後一つしかないの。それだったらせめて、自分が一番気に入った服にしたいじゃない」

 ……それもそうか。妙に納得。

 なんて会話をしてたら、向こうから彩香さんが戻ってきた。……とうとう親と再会か……感動よりも緊張の方がデカい。心臓がバクバクする。……でも、大丈夫。昨日のうちに腹は括った。緊張はするが、逃げようとなんて思わない。昔までの俺とは違い、立ち向おうと思えている。それだけで十分。その覚悟が出来てるだけで、十分だ。

「それでは雄樹さん、ご案内いたします。奥様がいる場所まで」

 そう言うと彩香さんは門を開ける。……この一歩、この家の敷地と公共の道とを隔てる線を跨げば、戦いだ。そう心の中で念じ、深呼吸。

 …………ふぅ。よしっ!

 俺は心の中で渇を入れ、一歩、踏み込んだ。……そう。ここからが、戦いだ。

 

 

 

 部屋に通されて最初に感じたのは、重圧。客間として利用されている部屋としてはまったく相応しくない雰囲気。それを肌で感じた。

 柔らかくてフカフカな記憶のある、四人掛けのソファ。ソレが二つ、向かい合うように部屋の中央に鎮座してある。その間には、ソファと同じ長さ、客とある程度の距離が設けられる幅のテーブルがある。だから厳密に言うと、部屋の中央に存在する家具はこのテーブルということになる。

「久しいですね、雄樹」

 声。懐かしくも、少し恐怖を感じる声。

「どうしたのです。早く部屋に入りなさい」

 その声で俺は、ようやく部屋の入口で呆然としていることに気が付いた。後ろから付いてきていた勇者達が部屋に入れていない。慌てて俺は部屋に入る。

 部屋に入って左手側に鎮座させられているソファ。そこに座っている、先程からこの部屋に相応しくない雰囲気を発し、先程俺に声をかけた張本人……俺の母親が、そこにいた。

「お久しぶりです、母さん」
「ええ、お久しぶり。時間が惜しいから早く用件を聞きたいところだけど……まずはそこに掛けなさい。ご友人も一緒にね」

 そう言われ俺は、母さんの真正面に座る。だが他の皆はソファに座ろうとしない。

「どうした? 皆」
「せっかくの申し出で悪いのだが、今は俺達が当事者ぶるには早い」

 思わず訊ねた俺の言葉を、勇者はそう切り捨てる。不安と不服……それを感じなかったと言ったら嘘になる。でもこれは勇者が、自分のことは自分でケジメをつけろ、と言っているのだと思う。そう思うと、不服は霧散した。相変わらず不安は消えないが……そんなの、この場に来る前から感じてたことだ。今までは、無意識的に感じないように努めてただけ。

「それで雄樹、昨日彩香さんが言っていた、お前から私に話したいことって何?」

 およそ母親とは思えない声音。この人は本当に、俺のことを息子と思っているのか疑いそうになる。

「その……今日は、お願いがあって来ました」
「お願い?」
「はい。じつは、僕の親友が宿に困っておりまして……母さんさえよろしければ、僕の家に一時的に住まわせていただけないかと」
「親友、と言うのは、周りの皆さんのことか?」
「はい」
「ふむ……」

 母親は少しだ考えた後――

「ま、あそこはお前に与えた場所だ。好きにしてくれて構わん」

 ――そう、予想外な言葉を口にした。

「えっ?」

 思わず母親の顔を凝視してしまう。

「だが、一つだけ条件がある」
「条件……ですか?」
「ああ。ただでさえお前は、お前の言う“底辺の高校”へと満足に登校していないそうじゃないか。それなのに親友と同居となると、さらに行かなくなるだろ?」
「もしかして、ちゃんと高校に行けと……?」

 それなら余裕だ。あそこにはこれから、勇者達皆が行くのだから。

「そんなこと小学生でも出来る。私は別に、行きたくも無い高校へは行かなくても構わないと思っている。とっくに義務教育ではなくなっているのだからな」
「それじゃあ、どうすればいいのですか?」
「簡単なことだ。柏木さんへの給与は別にして、お前へ与えている生活費の一切、それを与えないだけ」
「なっ……! どうして?!」

 再び予想外の言葉。でも今度は、悪い方向への。

「さっきも説明しただろう。お前が学校へと行かなくなるからだ」
「行きます! 学校へはちゃんと!」
「今まで学校へ行ってなかった者の言葉を、そう易々と信用出来るはずがないだろう?」

 それが息子にかける言葉なのか……!

「それじゃあ俺は……どうすれば良いのですか?」

 何とかして声を絞り出す。

「働けば良い、この私のように。父であるあの人のように」
「……どうしても、ダメですか?」
「……雄樹、この世にはこんな諺がある。働かざる者食うべからず。そして学生の仕事は勉学だ。ソレを支えるのが私達親だ。だがお前は、その勉学を厳かにしている。なら私達が、もうお前を支える必要は無いということだ」
「……ダメなこと、無理なことは百も承知です。それでもどうか、最後にもう一度、僕を信じて下さい! あなたの息子である僕をどうか、信じて支えて下さい! お願いします!」

 めい一杯叫び、ソファから降りてその場で土下座した。

 俺が楽をしたい訳じゃない。ただ、勇者達に苦労してほしく無いだけだ。

 俺一人が働くなら文句言わない。学校だって、勇者達と一緒なら楽しいだろうけどやめてやる。でももしここで、勇者達の生活費を出してもらえないと……実害的に勇者達へ苦労をさせてしまう。

 それだけは避けたい。俺を助けてくれる、親友達だから。

 恩返しをしたい、親友達だから。

 

 確かに俺自身、母親に勝てないぐらい弱い。

 でも……だからと言って、一度自分から挑んだのなら、逃げることは許されない。

 土下座をした時点で“負け”の烙印を押されても、引き下がることは許されない。

 

 だって俺は、強くなりたいから。

「……はぁ、雄樹、顔を上げなさい」

 ため息混じりに言われた言葉に従う。心のどこかに、認めてくれたのではと言う、淡い期待が生まれる。

「お前は勘違いしている。いくら引き下がれないと主張し、土下座をしようとも、私の心はまったく変わらない」

 だが淡い期待はあっさりと、打ち砕かれた。

「どうしてです?!」

 その衝撃で、思わず声を荒げてしまう。

 だがいつの間にか立ち上がった母親は、上から俺を蔑ずみの目で見ながら、言った。

「……盗人が何を言っている?」

 そう、言った。

 そして俺は、言葉を失った。

 言葉と、目と、雰囲気と……それら全てが、息子である俺に向けられるものじゃなかったから。……やっぱり、この女は、俺を、息子となんて、思ってないんだ。

 それを認識すると、心の奥底から怒りが沸いてくる。女の言葉はそれでも続く。

「手を汚した者の土下座ほど意味が無いものは無い。キレイな手を、地面につけるからこそ土下座は意味がある。だから今のお前じゃあ、意味が全く無い。罪が償えたと勘違いし、自分の手が汚れたままの自覚が無いお前ではな」
「何で! 俺は十分償っただろ?! 受かってた高校も落とされたし、そのせいで低レベルな高校に通うハメになるし、俺がやったことを知った中学の友達も離れていったし、家族間でも隔離されて、兄貴や姉貴、加奈子とも顔を会わせられない! これだけのことをされても俺の罪はまだ償えて無いって言うのかよっ!」
「ええ。お前はただ、自分の犯した罪を償いきったと思い込むことで現実逃避している。確かに変わろう、強くなろうする意思は感じられるんだけど……」
「それじゃあ……どうすりゃ償える?! どうすりゃこの罪は無くなる?!」
「…………」
「ほらっ! 答えられないんじゃないか! それが俺の罪を償えたと言う何よりの証拠じゃねぇか! 難癖つけて、ただ金払うのをもったいぶってるだけじゃねぇのかっ?!」
「……やっぱり、生活費を出す訳にはいかないわね。少しはマシになったみたいだけど……土台がまだまだね」
「んでだよっ! ええっ?!」

 変わった口調。それが母親としてのこいつなのかどうか判断出来る前に、俺は立ち上がって胸倉を掴んでいた。

「ふむ、盗人の次は暴行犯か。それで、次はどうやって償った気になるつもり?」

 カッ! と頭に血が昇る。

 殴りたくなる衝動が体を駆け巡る。

 でも寸前で、止める。

 ギリギリのところで、踏み止まる。

 

 周囲の視線が、勇者達の視線が俺を射抜く。

 お前は強くなると心に誓ったのではないかと、親に立ち向うと心に誓ったのではないかと、こんな形で終わらして良いのかと、そう言っている気がしたから。

 

「くっ……」

 涙が溢れそうになる。自分があまりにも愚かで。

 土下座までして、結局親の考えを変えられなくて、真っ向からの勝負に負けて、暴力に頼ろうとして……とても自分が、惨めだった。愚かだった。下衆だった。

 そんな姿を、親友である勇者達に見せるのがイヤで……俺は部屋を飛び出した。