勇者達が来てからずっと考えていて、実行出来なかった事。でも俺の気持ち一つで、いつでも実行出来た事。ソレを今日、実行する。

 と、学校と家と目的地、その三つに分かれている路地まで辿りつくと、一旦足を止めて息を整える。……万年帰宅部の引きこもり男の体力じゃあ、走って辿りつけるのはここまで。これ以上は走れない。限界だ。でも、走ることは出来なくても、歩くことは出来る。

 少しでも目的地へと向かうため、歩く。

 カバンを抱えなおし、ブレザーの袖で額の汗を拭い、歩く。

 目的地は……俺の実家だ。

 

 

 

“将来なりたいものを目指して頑張れば良い”

 “なれなかったとしても、目指さなかった人生よりかは楽しくなる”

 セリアはそう言っていた。俺が将来なりたいもの……相変わらずソレはまだ決まっていない。でも“今なって欲しい状態”はある。

 セリアの望みが勇者の隣だったように、俺の望みは“勇者達皆が、家族のように家で楽しく過ごせるようになる”こと。

 だから……だから、あの追い出された家に行って、四人の親友と一緒に暮らしたいと、暮らさせて欲しいと、説得に行く。怖くないと言えばウソになる。出来れば行きたくない。……また、あのことで責められる……自分の立場を考えろと、怒鳴られる……。……怖い……背筋にゾクりとした悪寒が走る。でも……それでも、説得してみせる。

 俺は昨日まで、説得に失敗した場合のことばかり気にしていた。でも、そんなことばかり気にしていてはダメだ。

 もしバレた時、俺は絶対に後悔する。どうして一度も説得に行かなかったのかと、後悔する。

 それはセリアが言った“目指さなかった人生”になる。でも……もし一度でも説得に行っていれば……自分の力を最大まで使って説得すれば、少なくとも後悔はしないと思う。自分の力を出し切るから。セリアの言う“目指した人生”になるから。

 ここまでセリアのことを信じられる理由? そんなもの、あの幸せな雰囲気を直(じか)に感じれば分かる。願いを、思いを一途に追いかけ続けた“果て”。それが今の彼女の雰囲気。なら俺だって追いかけたい。そんな雰囲気を纏いたい。

 だから目指す。

 自分の“果て”を。

 

 

 

 少し寂れた商店街。ここを抜けて少し歩いたらある高級住宅街……その中の一つが、俺の実家。もう少し……もう少しで、両親を説得し始めないといけない。妙な緊張と高揚感。理想的には勇者達も立ち会ってもらいたかったが、仕方が無い。後日改めれば良いか。

 にしても……さすがにここまで来るとウチの制服は見かけないな。さっきまではチラホラと見かけていたのに……。たぶん、どこかに駅へと分岐する道があったのだろう。俺みたいに徒歩で通学するのは珍しいからな。

 と、商店街を眺めながら歩いていたら、先程まで見かけないと思っていた高校の制服。しかも女子の。でもあの後ろ姿……どこかで……。

 と、その子が横の店に視線を向けた時、横顔が見えた。……わかった。星辰だ。星辰茜。あの黒髪と赤いリボン、そして少しだけ暗いあの雰囲気と顔。間違いない。にしても……まさかここで彼女を見かけてしまうとは。本当に偶然だ。俺が周囲に視線を向けていなかったら気付かなかっただろう。それ程までに開いた距離。

 さて問題は……話しかけるべきか否か。東ぐらい親しい仲なら話しかけただろう。でも俺と彼女は、そこまで仲良くない。ちゃんとした会話をしたのは一度だけ。しかもその一度というのが、東のことが好きなんだけど、といった内容。そもそも彼女が俺に相談してきた理由と言うのが、ただ東と仲が良さそうだったから、ってだけ。だからだろうか。それ以来まともに会話をしていない。

 ……うん、やめた。今日無理に話しかける必要も無い。何より今日は、これから実家に行ってあの親を説得するのだ。どう言って説得するかぐらい考えていた方がいいだろう。なんて話題を振ったら良いのかを考えるより百倍は良い!

 そう心でガッツポーズを決めながら結論を出す頃には、商店街中頃にまで差し掛かっていた。……もしかして、このまま商店街を抜けきる気か? もしそうなら彼女も、俺と同じで高級住宅街の一つに住んでいる事になる。……って、何で俺はずっと彼女のことを見てるんだ? “見る”ということはそれだけで本人に存在を教えるようなものだ、とゲームで言ってた。だったら見てたらダメじゃないか。俺は慌てて視線を逸らす。と、逸らそうとした視界の端に、サラリーマン風の男がその場に跪く映像。気になってそちらへと視線を戻す。男は苦しそうに胸を押さえ、大きく咳き込んでいる。

「大丈夫ですか?」

 OL風の女性がその男性に近付き、しゃがみ込んで声をかける。ソレをきっかけに、周囲の人達も心配そうに周りに集まる。そしてその集まった人たちに引き寄せられるように人が集まる。そうして男の周りには軽い人垣が出来ていた。歩きながら人垣が出来上がる工程を眺めていた俺は、そのままその現場を横切る。……これだけの人がいるんだ。俺が手助け出来る事なんて何も無い。だから俺は、名残惜しそうに人垣へと向けていた視線も、商店街の先へと戻す。

 その時、星辰と目が合ってしまった。どうやら彼女、自分とすれ違ってしばらくして倒れたあの男性が気になっていたようで、歩きながらもチラチラと後ろを振り返り、その男性の様子を遠くから確認していたみたいなのだ。その内の一回のタイミングで俺が前を向いたせいで、彼女と目が合ってしまったと言う訳だ。……どうする? あの表情(かお)は向こうも俺に気付いている。そのうえどうすればいいかも迷っている。多分俺も、星辰から見たらああいう表情(かお)をしていると思う。……仕方が無い。話しかけるか。ここまできて無視をする勇気を俺は持ち合わせていない。さて……何と話しかけるか。とりあえずはまぁ、俺と彼女の共通話題、東のことでも話すとするか。近頃東とどうなのか? と、たった一度相談を受けただけなのに訊いても大丈夫だろうか……?

 そんな風に、話すための話題を必死に考えながら彼女に近付くのと――

 

 ――グチャグチャと、そんな稚拙な表現では物足りない程、ナニカ大きなモノが連続で潰れていく不快な音と――

 「ウウウウウゥゥゥゥゥ……オオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォ……――!!」

 ――獣の大きな雄叫びが聞こえたのは、ほぼ同時だった。

 

 思わずそちらへと視線を向ける。

 ……紅い……水溜り……? でもさっきまで、あんなものはまったくなかった。あんな、赤黒い欠片が浮かぶ、見ているだけで何故か不快感が沸いてくる、紅い水溜りなんて……。

 そしてその中央に佇む、おそらく雄叫びを上げたであろう獣も先程まではいなかった。その獣は、自らの真上へと視線を向けながら、自らの強さを誇るように両肘両膝に力を込めていた。その姿はまさに、漫画などで見かける獣そのもの。でも何故だろう。あの獣から、人と同じ雰囲気を感じる。……人と同じ雰囲気? アレが人な訳無いじゃないか。俺は何を考えている。混乱しているのか。

 人の顔・腕・体・足。その全ての筋肉を内側から爆発させたような、異形な形をしている獣。ソレは雄叫びを止めた今でも、同じ格好で紅い水溜りの中央に佇んだまま。そう言えばあの獣が佇んでいる場所。あそこは胸を押さえてうずくまった男を中心とした人垣が出来ていたはずだ。何故急に、紅い水溜りに……? と、鼻をつく鉄の匂い。どうして? ここは商店街。急に鉄の匂いがする訳が無いじゃないか。とうとう嗅覚まで混乱してきたのか。

 そう自分に言い聞かせ、冷静さを取り戻していこうとする。と、ドサッ、と何かが倒れるような音。音の方へと視線を向けると、星辰が尻餅をついて座り込んでいた。恐怖に表情を歪め、喉の奥から何か音を発している。おそらく、喋りたくても喋れないのだろう。あの獣を目の前にしているのだ。無理も無い。大丈夫か? そう声をかけながら近付こうとして、気付く。

 

 自分の足が震えていると言うことを。

 

 歩けない。しかも喉もカラカラ。たぶん俺は声なんて出していなかっただろう。

 何故……? と、俺の脳内にゲームの一説が過ぎる。「恐怖とは体で感じるものじゃない。本能で感じるものだ」。その一説が。もしかして今の俺は……それに該当するのでは?

 足の震え。喉の渇き。現実を否定しようとする考え。

 そう、現実を否定しようとする考え。もう俺の本能は分かっている。でもそれを受け入れたくなくて、現実を直視しないようにしている。

 

 人垣が出来ていた場所。そこに出来た紅い水溜り。そこに浮かぶ赤黒い欠片。

 でも俺は、直視する。現実を。

 紅い水溜りは、人の血液。浮かぶ赤黒い欠片は、コナゴナにされながらも残った、人の肉片。獣の周囲にある水溜りは、かつて人であったモノ達の、ナレノハテ。

 

 直視した瞬間、分かった瞬間、激しい嘔吐感と広がる虚無感。

 哀しいとか、辛いとか、惨めとか、そんな言葉が頭の中に何度も浮かんでは消えていく。ソレと同時に、心を掴み、心自体を引き抜かれていくような感覚。体の中から、何もかもが無くなる。

 どうして? 見知らぬ人だから? 現実を受け入れたくないから? 次に殺されるのが怖いから? どうしたら良いのか分からないから?

「いやああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーー……!!」

 その悲鳴で意識が呼び戻された。地面が近い。いつの間にか膝を折り、座り込み、胃の中のものをぶちまけていた。それでもまだ、嘔吐感は消えてくれない。

 さっきの悲鳴は誰なのか……朦朧とした頭ではすぐに分からなかった。

 でも視線を上げ、星辰を見て、わかった。

 「いや、いや……」と呟きながら、ズリズリと、座り込んだまま逃げようとする彼女を見て、わかった。

 悲鳴を上げたのは彼女だと言うことが。

 だが、先程の悲鳴に反応したのは俺だけではなかった。

 星辰の視線を辿れば、そこには非現実な獣。

 先程の雄叫びを上げた格好から解放され、星辰を睨みつけている異形な獣。

 そいつもまた、星辰の声に反応していた。……ヤバイ。殺される。本能がそう告げる。

 このままだと彼女は殺される。あそこにある紅い水溜りと同化させられてしまう。浮いてある赤黒い欠片の一部になってしまう。

 

 そう思うと、体中に激しい絶望感。虚無感すらも飲み込むほどの、絶望感。それが頭の上から水をかぶせられたかの様に、体中に染み渡る。

 だって俺には、何も出来ないとわかってしまったから。

 強くなろうと足掻くつもりの俺では、どうすることも出来ないとわかってしまったから。

 

 獣に立ち向かおうとも、俺の腹が獣の腕に貫かれた後、彼女は殺される。

 彼女を連れて逃げようとも、二人とも背中から獣の腕に貫かれ殺される。

 だったら……どうしようも出来ない。むしろここは、彼女を犠牲にしてでも生き残るのが賢いのではないのか? 彼女を見捨て、その後も生きていく覚悟。それもまた強さではないのか? 俺は強くなりたいのだろう? だったらそんな強さでも良いじゃないか。少なくとも、強くなれることに変わりは無い。方向性が変わるだけだ。

 そもそも彼女が獣に狙われているのは、恐怖を抑えきれずに叫んでしまったこと。それはまさに、彼女自身の非。そんな彼女と俺は、身を挺してまで助け合うほど親しい仲でもない。……何を言っている、俺は。そんなことはどうでも良い。そんな言い訳をする暇があったら、いい加減認めろ。自分の弱さを認めろ。

 そうだ。俺は“自分の弱さを認めた上で強くなりたい”んだ。だから、認めろ。恐怖で体が動かなくて、彼女が助けられないという弱さを認めろ。いつの間にか膝を折ってしまう位、いつの間にか吐いてしまう位、俺はあの獣に恐怖していると。

 だから――

 獣が腰を落とす。

 ――だから――。

 姿勢を低くし、彼女目掛けて駆け出す。

 ――だから――。

 彼女に死が迫る。視覚出来る死が。

 

 ――だけど――!

 

「弱いからって逃げるなんて、そんな男らしくないこと出来るかよっ!!!」

 枯れた喉から無理矢理声を出す。

 折れた膝を無理矢理奮い立たせる。

 そして全力で、駆け出した。

 

 そうだ! 自分が弱いとか、敵わないとか関係無い! 俺の憧れる全ての人達は、自分を犠牲にしてでも他人を助けて、すぐそこに死が待っていようとも人前では泣かなくて、辛くても愚痴を零さなくて、どんな局面でも切り抜ける、弱いと自覚していることですら味方につける、そんなとんでもない強さを持った人達なんだよっ!!

 ガッ! と、彼女の元に辿りつく前に、右足に何かが引っ掛かって転びそうになる。獣と彼女の距離は遠い。少なくとも、彼女に近付こうとしていた俺よりは遠い。でもここで転び、悠然と立ち上がって彼女の元へと駆け出せる余裕は無い! もう少しで……もう少しで、その手を引いて逃げ出すことが出来たのに……!

 ……いや、まだだ! このまま彼女に倒れこむように、彼女の姿勢を崩しさえすれば、あの獣の初撃を避けさせてあげることぐらいは出来る! 左足を、体を支えるために使うのではなく、体をさらに前に倒すように使う! 彼女に向かって飛び込む!

 抱きかかえる……なんて器用な真似は出来なかった。彼女に勢いよく抱きつく形で一緒に転ぶ。階段から突き落とされた時と同じぐらいの衝撃が、俺の体へと駆け巡る!

 ……衝撃が、止まった。恐怖で目を閉じていた俺は、その周囲の静寂に違和感を覚える。……今まで色々と考えすぎていたからか。元々これぐらい静かだったのに気付いてなかった。目を開ける。最初に入った映像は、両目を強くつぶった星辰の整った顔。長いまつ毛、ふっくりと柔らかそうな唇、整った眉につくぐらいのキレイな黒い前髪。女の人の顔をこんなに間近で見たのは初めてだった。……可愛い。こんな状況にとても不釣合いなことを思ってしまう。そのことを自覚するととても恥ずかしくて、慌てて彼女の顔から視線を逸らす。

 

 と、そこには大きな足。

 

 その足を辿るように視線を上げれば、そこには非現実な異形の獣。俺達を見下ろすその高さは最低でも二メートル。……眼前に佇むその姿。さっき奮い立たせた気合もなく、再び体中に絶望感。いや、もう絶望感すら沸かない。俺の体を支配するのは、諦めという名の感情。もう、どうすることも出来ない。毎日行っている妄想だと勝てるのに。

 こんな状況でも跳ねるように飛び蹴りを獣の顔に浴びせ、反撃してきた攻撃を悠然と片手で流す。そしてその腹に気を集中させた正拳突き。グラつく獣の肩に手を乗せ、肘の力を使って宙返り。そのまま後ろに回り、着地する前に後ろの首目掛けて踵落とし。そしてその倒れた背中を、勢い良く踏みつける。大地が揺れるほど、踏みつける。

 そうして仕舞いだった。妄想では。

 だが現実は、そんな力があれば良いなと思う、かなりオタクな高校生。

 それは、日常から非日常へと移り変わろうとも、変わらない真実。

「峰岸君……」

 腕の中からの声。そちらを見ると、泣きそうな、不安そうな、怖そうな、申し訳なさそうな、何とも言えない表情(かお)をした星辰。……彼女だけでも逃がせるか? ……無理だ。それはいくら立ち向かおうとも変わらない真実。だってそうなると、足止めの役目は俺。でも俺では、彼女の生きる時間を何秒か増やすことしか出来ない。

 獣が右手を振り上げる。血肉が付いた鋭い爪。ソレを俺達目掛けて振り下ろすだけで、俺達は死ぬ。

 獣がその凶器振り下ろそうとした刹那、俺は獣に背中を見せるように、彼女の顔を俺の胸へと埋め込んで隠すように抱きしめる。こうすることで彼女の身を少しは守れれば良いと思った、ちょっとした足掻き。でももう、俺にはこれしか残っていなかった。両目を強くつぶる。痛みは一瞬だろうが、視覚による恐怖はもらいたくない。死が間近に迫る光景を、見たくなかった。見せたくなかった。

 肉が、引き裂かれる音――

「まったく……俺が来るたびに死にそうではないか、雄樹」

 ――と同時に、声。誰? とは思わなかった。首だけを後ろに向ける。

「よう、雄樹」

 左手を軽く挙げ、道端で会ったような軽い挨拶をしてくるその声の主。制服ではなく、いつも家で見かける紅い印象を与える胸甲冑と外套。

「ホント、助けられてばっかりだな、俺」

 今回は涙が出なかった。たぶん、無意識的に分かっていたんだと思う。こんな非現実な異形の獣を倒せるのは、目の前にいる声の主、勇者しかいないと。

 だから胸の中にあるのは、悲しさとか、悔しさとか、虚無感とか、絶望感とか、諦めとかじゃない。

 あるのはただ一つ。

 

 勝利の確信だけ。

 

「親友なのだからな。それぐらい気にするな。それに今回のは、俺達の世界の話だ」

 一歩近付き、俺の腕の中にいる星辰の頭に触れる。と同時――

「我望むは眠りの世界。その力、触れし者を眠らせたまえ」

 ――そんなことを言う。何を、と思った刹那、ガクッ、と彼女の重量が増す。顔を見てみると、彼女は安らかな寝息を立てていた。慌てて顔を上げ、勇者へと視線を移す。

「ちょっ――」
「許せ。これから先は、どうしても誤魔化すことが出来なくなるのでな」
「いや、今でも無理だと思うけど……」
「今は何とかなる。近隣住民にも、結界の効果でバレる心配は無い」
「結界の? もしかして勇者達が?」
「そんな訳は無い。誰が仕掛けたのかは知らぬ結界だ」
「その……どういう効果の結界なんだ?」
「この空間を認識できなくなる結界。詳しくは後で話す。今はまず、この結界の破壊を最優先したい。そしてそのためにはまず、あの獣を消さなくてはな。作業に支障をきたす」

 そう言って勇者は、俺に背中を向ける。建物の壁、そこに埋まる獣と対峙する為に。だがその時、俺はようやく勇者の異変に気付いた。

 気付くのがあまりにも遅すぎる、異変。

「勇者?! その右腕は?!」

 勇者の右腕が、無い。肩から先が見事に消失している。

 俺が驚くのに反して勇者は、自分の右肩をことも何気に見て、まったく焦りも痛みもない表情で言葉を発する。

「ああ……結界内に入ってすぐ、雄樹に攻撃しようとしていたからな。咄嗟に割り込んだらこうなってしまった。だがま、無理矢理とは言え魔力で止血はしてある。安心しろ」
「安心しろって……そんなの無理だ!」
「こんなことは何度もあるし、スルトに頼めば治してもらえる。だから大丈――」
「うごおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーー……」

 天空目掛けて咆哮を上げる獣。そのせいで勇者の言葉が中断された。埋もれていた獣はいつの間にか立ち上がり、紅い水溜りの中で雄叫びを上げていた時と同じ格好をしていた。

 その姿に勇者は怯える訳でもなく、悠然と左手を前に突き出す。

「まがりなりにも俺の腕を奪ったのだ。多少本気を出させてもらうぞ」

 そう勇者が言い終えるのと、獣が駆け出すのはほぼ同時だった。

 勇者は突き出していた左手を握る。するとそこには、いつの間にか鞘に納められた剣。長くはない。でも短くも無い。長剣と小剣の中間ぐらいの長さ……中剣とでも言うのだろうか。勇者と呼ばれるには不釣合いなその剣を、鞘を口で咥えて抜き放ち、右頬の横で刺突の構えをする。

 ――獣が迫る。

 それに合わせて、勇者の姿勢が低くなっていく。

 ――迫る。

 前足を伸ばしながら低く。

 ――迫る。

 後ろ足を曲げて低く。

 ――迫る。

 ――爆ぜた。

 そう俺が視認するのとほぼ同時、勇者は獣の後ろに立っていた。先程の構えも解いている。

 獣の動きが、止まる。

 アレ程速く駆けていた獣が、止まる。

 ……一体、何が起きた? そう口に出そうとした刹那、獣がグラリと倒れた。軽く身を乗り出して腹の部分を覗き見ると、真っ二つに斬り裂かれていた。その確認を合図にしたかのように、獣の身体が蒼く光る粒子となり、舞い上がっていく。やがて全ての身体が粒子と化し、完全に獣の姿は消え失せた。

 

 瞬殺。言葉通りの結果が、この場には存在した。

 

 

 

「それはそうと、結界ってどうやって解除するんだ?」

 獣を倒した場所から移動し、何も無い空間に腕を伸ばしている勇者に喋りかける。かれこれ五分程ああしている。

「ふむ……雄樹、これは厳密に言うと結界の解除では無い。結界の破壊だ」
「結界の破壊? どう違うんだ?」
「結界の解除、その方法は三通りある。一つ、結界を仕掛けた本人が解除する。一つ、結界を仕掛けた本人を殺す。一つ、結界の基点を破壊する。この三つだ。今回のこの結界、仕掛けた本人がわからないので前の二つは除外。最後の一つも、特殊な結界の組み立て方をされているせいで基点を探ることが極めて困難となっている。だから最終手段として、結界の破壊をする。これは大量の魔力を消費する上に、結界の内側と外側から同時に、しかも同箇所の結界の膜に衝撃を与えないといけない。最低人数二人、互いに並みの能力では不可能な程高度な法術だ。もっとも、俺とスルトだと余裕だがな」
「ってことは、外にはスルトさんが待機してるのか……良かった。それなら結界を破壊した後すぐに治療してもらえるな」
「……いや、結界を破壊したら、俺と雄樹とその娘(こ)はすぐに空間移動をする」
「は?! 何で?!」
「血の水溜りと浮かぶ肉片、それについて説明しろと言われたらどう説明するつもりだ?」

 俺の怒鳴り声とは真逆の、落ち着いた勇者の言葉。その言葉で思い出す。

 勇者が来てくれたことによる安心感で、嘔吐感がしていた元凶の存在を。

 結界を破壊する……それはつまり、この結界内(ばしょ)とあの結界外(ばしょ)を繋げると言うこと。そうなればこの惨状を、何も知らない一般人の目に晒してしまう。

 いきなり目の前に現れる血溜まりの惨状。その中には、気絶している一人の少女、片腕が取れている一人の男性、そしてピンピンしている一人の男性。誰の目から見ても犯人は、ピンピンしている一人の男性。つまり、俺。その先入観を与えてしまうと仕舞いだ。たとえ犯人じゃないと言い張ろうとも、証拠が全く出てこなくても、非現実な異形の獣がやったと真実を言おうとも、誰も信じてくれはしない。

 だって警察は、必ず俺を追い詰める。それは先入観じゃなくて、体験したから分かること。指紋を採られるようなことをした俺を“やっているかもしれない”なんて目で見るはずがない。“絶対やっているに決まっている”って目で見てくる。

 追い詰めてくる。

 嫌って程、わかっている。

「…………」

 だから俺は、何も言えなかった。勇者を早く治療したいと思うと同時に、警察(あそこ)には絶対連れて行かれたくないとも思う。だから俺は、何も言えなかった。

「俺の傷なら心配ない。結界の破壊に成功したら、スルトにはまっすぐ家に帰るよう言ってある。それまで魔力を持たせれば良いだけの話だ」
「……ごめん」
「何を謝っている? これは俺の決定だ。お前が気に病む必要など無い」

 ……違う。ここは無理にでも空間移動を拒否する場面だ。警察や世間と戦うと、腹を括る場面だ。

 今は逃げるべき場面じゃない。

 俺の心は確かに弱い。が、それぐらい乗り切れる強さはある。勇者と一緒なら、絶対に乗り切れる。それはわかっている。でも……わかっているのにっ、どうして空間移動を拒否出来ないっ! どうしてっ、意地でもここに残ろうと言い続けないっ!

 どうしてっ! 勇者のために犠牲になれないっ!

「さて……そろそろ時間だ」

 勇者のその言葉で我に帰る。手の平に軽い痛み。見てみるとそこには、爪でエグられたような傷。……いつの間にか、こんなに強く自分の拳を握ってたのか……。

「雄樹、その娘(こ)を抱えて近くに来てくれ」

 そう言われて、腕の中で眠ったままの星辰をお姫様抱っこのようにして抱える。……って重っ! 眠っている人間ってここまで重いのか! 立ち上がれる気がまったくしない! ……仕方が無い。格好悪いが、しゃがみ込んだままズリ足で進むか。

 そうして何とか勇者の左隣に辿りつく。そんなに距離は無かったのに腕がプルプルする。

「さて……後三秒だ」
「何が?」
「結界の破壊が」

 えっ? そう口を開けた刹那、光で視界が覆われる。思わず目を瞑る俺の右肩に感触。……手? その感触を推測した直後、眩しかった感覚が取り除かれる。恐る恐る目を開けるとそこは、俺の家の玄関前。……どういうことだ? 司会を覆った光は、たぶん結界の破壊。じゃあ肩への感触は勇者の手? こうしてここにいるのは空間移動をしたから?

「峰岸君?! 突然勇者様と帰ってきてどうしたの?!」

 声のした左側を見ると、そこには驚きの表情をしたセリア。座り込んだままの俺は必然的に見上げる形になる。

「いや……それが――」
「って勇者様?! その右腕はどうしたの?!」

 戸惑いながらも事情を説明しようとした俺だが、勇者の右腕が消失していることに気付いたセリアの言葉に防がれる。

「ちょっと刈り取られた。何、大丈夫だ。そんな不安そうな顔をするな。スルトが帰ってきたらすぐに治療してもらう」
「でも……!」
「俺が大丈夫と言ったら大丈夫だ。まったく……お前も雄樹も心配性だな」

 力無く微笑む勇者。その額には大粒の汗。大丈夫と言ってはいるが、それはたぶん、命に別状は無いという意味での大丈夫。痛くないという意味での大丈夫ではないだろう。

「それよりも雄樹、早く部屋へ戻ってくれ」
「お前を放ってか?!」
「ああ。“次元の種刻印”の波動を持っていて、ノーリスクで家に帰れるのはお前だけだ。こんなところでその娘(こ)と俺を放置するつもりか?」
「……わかった」

 渋々ながら従う。でも勇者の言うことは正しい。片腕が無くなった男性と気絶している女性、二人を一応家の敷地内とは言え、外に放置し続けると言うのは異常な行為だ。万が一にでも誰かに見られれば、そこから俺達があの現場にいたことがバレる可能性もある。せっかく勇者が自分の治療よりも優先してくれたんだ……それを無駄にしてはいけない。

 制服が汚れるのは申し訳ないが、星辰を塀にもたれさせ、玄関へと駆け足で向かう。勇者のことを溺愛しているセリアは、その表情(かお)に心配を塗り固め、勇者を支えてその場に座らせようとしていた。

 ブレザーの内ポケットから鍵を取り出し、急いで鍵を開ける。ガチャ――

「勇者様?!」

 ――鍵を開けるその音とセリアの声が、重なった。その冷静さを欠いた声に慌てて振り返ると、そこには荒い呼吸を繰り返し、苦しそうな表情をした勇者の姿があった。