翌朝。

 俺は何故か一人で学校へと向かっていた。

 

 隣の空き部屋で寝かせた勇者一行。

 朝、勇者と一緒に登校するために部屋を訪れると――

 

「あれ? スルトさん、勇者は?」

「勇者さんなら、もうとっくに登校なされましたよ」

「あ、そうなんですか……」

「ちょっとだけ、残念ですか?」

「いえそんな……まぁ、残念じゃない、って言えばウソになりますけど」

「ふふっ……まぁ、明日でしたら一緒に登校できると思いますよ」

「そうですか、ありがとうございます。……時にスルトさん」

「はい?」

「その……何してるんですか? セリアとミレイの額に手を当てて」

「あ、これはですね、セリアとミレイの二人に、この世界がどういういものか、という情報を直接脳に与えてるんです」

「直接脳に?」

「ええ。こうすることで、まるで昔から知っていた、知っていて当然、という認識での知識が得られますから」

「なるほど……でも何故今更そんなことを? 勇者が言ってましたけど、この世界に来た段階で、ある程度この世界のことは知っているんじゃ……」

「それは私と勇者さんだけです。セリアとミレイの二人は、こうでもしないとこの世界のことがわかりませんから」

「へ〜……それって、何時間ぐらいかかるんですか?」

「だいたい十二時間ぐらいですね。昨日この部屋を渡された時からずっとやってるんですよ」

「ほへぇ〜……長いですねぇ〜……」

「長いですよ。時に雄樹さん、時間は大丈夫なんですか?」

「あ、そうだ。それじゃあ行って来ます、スルトさん」

「はい、いってらっしゃい」

「おっと、言い忘れてました。その作業が終わったらで良いので、隣の俺の部屋に移っておいて下さい」

 

 ――勇者がとっくにいないと、スルトさんから聞いたからだ。

 ……なんか結構いらない会話まで思い出してたけど……いやでも、スルトさんとの会話だからいらない訳はないんだけどさ。

 

 とりあえず今から追いかけても間に合わないだろうから、登校する際、例によって例の如く、彩香さんに俺の部屋に入らないで欲しいと言って登校。

 んで、現在に至る。

 

 ちなみに彩香さんにはかなり喜ばれてしまった。

 ……昨日の事でじゃないぞ? 俺が三日連続で登校することにだ。

 ま、俺も勇者が学校に行くことになってなかったら休んでいたに決まってる。

 誰だってそうする。俺だってそうする。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 予想外というかなんというか、教室の中に勇者の姿はなかった。

 ……先に家を出たはずなんだけどな。昨日の結界の説明を聞く限りでは、もうとっくにクラスの中で普通にクラスメイトをやってるもんだと思ってたんだが……。

 

 とりあえず自分の席にカバンを乱雑に置き、文庫本(ライトノベル)を黙々と読んでいる東の元へと向かって、挨拶。

 

「おはよう」

「…………」

「なんだその、珍しいものを見た、って顔は」

「いや、現に珍しいものを見ているんだけど」

「俺が三日連続で学校に来たことがか?」

「自覚はあるんだ……」

「ある程度は。無遅刻無欠席皆勤賞狙いの東とは違うからな、俺は」

「僕はただ、峰岸と違って授業を受けないとついていけないからだよ」

 

 なんて、昨日とは違った極々普通な日常会話をする。

 ……んん〜……勇者のことを訊いてみるべきか、それとも……。

 

 なんて考えていたらタイムリミット。

 予鈴が鳴り、星辰が来てしまった。

 

 ……ま、いっか。もしかしたら違うクラスにしたのかもしれないし、突然気が変わって来る気がなくなってしまったのかもしれない。

 極々普通の日常になってしまったけど……それはかなり残念なことだけど、ま、仕方が無いか。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 なんて考えていたのは甘かった。

 結論から言おう。

 

 勇者は転校生としてこのクラスにやってきやがった。

 

「峰山勇者です。よろしくお願いします」

 

 自分の席で頭を抱える俺を尻目に、制服姿で極々普通な自己紹介を偽名でしている勇者。

 なんだよ「峰山」って。

 ちなみに周囲はポカンだ。

 そりゃそうだ。

 あらかじめクラスに溶け込んでいるならまだしも、転校生としてこの学校に、しかも自分のクラスに、あんなカッコイイ男が登場したんだ。

 普通のカッコ良さならザワつくだろうが、この勇者という男は、男の俺が見惚れてしまうぐらい、美少女三人が好意を抱いてしまうのが当然だと思ってしまうぐらい、カッコイイ男なんだ。

 全ての人が見惚れて無言になってしまい、静寂が場を支配してしまう程に。

 

 ああ〜……ここにきてわかった。

 何で勇者が、俺より先に学校へと向かったのに、クラス内にいなかったのか。

 

 転校生として当然、という考え方も出来るが、昨日の結界の説明を鵜呑みにするなら、勇者はとっくにクラスに溶け込んでいるはずだ。

 でも転校生としてきた……ということは“早く学校に登校し、結界の効果を変えた”としか考えられない。

 昨日の勇者を見ていた限りでは、結界自体がどういうものかの説明にウソを言っているようには見えない。結界の効果についての説明にもコレが当てはまる。

 それにもし、万が一ウソを言っていようとも、それをすることでの得が俺には見当たらない。

 もっとも、俺がわからないだけなのかもしれないが……とりあえず俺が考える限りでは、勇者は“クラスに自分を溶け込ます”という結界の効果を“自分を転入生として迎え入れる”というものに変えた可能性が高い。

 それも、朝早くに学校を訪れて……。

 

 とまぁ、俺がそんなことを考えている間に朝礼は終わってしまった。

 勇者の席は……ああ、窓際の一番前の席か。

 とりあえず事情を聞きに行ってみるか。

 

 先生が教室を出て行くのと同時、自分の席から立ち上がる。

 勇者に近付こうとして……無理だった。

 いやまぁ、まだ立ち上がった段階なんだけど……もうこの段階から無理だってわかってしまった。

 簡潔に言おう。

 

 人の壁が出来ている。

 

 そりゃ当然なんだけどね。

 あれだけカッコイイ男が自分のクラスに転入してきたんだ。興味を惹かないほうが珍しい。

 昨日俺に昼飯を買いに行かせたあの五人組まで勇者の周りに集(たか)っている。

 

 その興味を惹かない珍しい方々は、ああして人の壁の一部になっている、積極性の強い人達とはあまり仲がよろしくない方々だったり、三次元の女性に興味がないのに男性なんてもっと興味がない人だったり、三次元の女性にしか興味がない男性のことが好きな人だったりと、まぁそんな人たちだ。

 ちなみに後に言った二人は東と星辰のことだけど。

 

 朝礼でこの調子だ……きっと他の休み時間は、他のクラスから見に来る人達もいるんだろうなぁ……。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 その予想は見事的中してしまった。

 今日もうちのクラスは体育が無いからなぁ……しかも今日は、移動教室まで無いと言うオマケつき。

 つまりは、全ての休み時間、他のクラスから見に来たことになる。

 しかも休み時間を重ねるごとに人数は増え、最終的には廊下から彼を見るだけために来た人までいた。

 もう教室内も廊下も人でごったごた。

 あれはたぶん、上級生まで見に来ていたな。

 

 なんて、廊下から勇者を眺めている人たちを眺めながら考える。

 ちなみに今は昼休み。昼休みになったばかりなのにこの人数……購買まで行くのに一苦労だ。

 

「なぁ峰岸、今日も昼飯買って来いよ」

 

 昨日の五人組。

 さすがに全ての休み時間を勇者と共に過ごしていた奴は器が違う。こんな俺にまで声をかけてきた。

 もっとも歓迎された内容ではなかったけど。

 

「昨日のお金を払ってくれたら買って来てやる」

「あ? んだよてめぇ」

 

 俺の言葉に苛立ったのか、また胸倉を掴まれ、睨まれる。

 

「んなことは関係ねぇんだよ。てめぇはただ、黙って俺たちの飯を買って来りゃいい」

「…………」

 

 俺はその言葉に、ビビっていることを悟られないよう不機嫌そうな顔を作り、胸倉を掴んでいる腕を思いっきり振り解く。

 そして無言で立ち上がり、教室を出て行く。

 

 今日ばかりはこの喧騒であいつらの笑い声も聞こえない。

 まぁたぶん、教室の中で大笑いしていることだろうけど。

 でも……残念ながらお前達は、昼飯にありつけない。

 なんて心の中で思ってみたりする。

 

 簡単なことだ。無理に昼飯なんて買いに行かなきゃいいんだ。

 俺はちゃんと、昨日のお金を払ってくれないと昼飯を買いに行かないと言った。

 そんであいつらは、お金を払わなかった。

 だから今、こうして教室を出たのは自分だけの昼飯を買いに行くためだ。

 買わずに教室に戻ったらシバかれるだろうけど……それなら教室に戻らなければ良い。

 ただでさえ授業中は寝ているだけだ。他の場所で寝ようとも変わりはしないしな。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 チャイムの音で目が覚める。

 今は何時だろうか……携帯電話も腕時計もないからわからない。

 でも陽の傾き具合から見て放課後にはなっている。しかもかなり遅めの。

 部活をしていないものの九割の人が帰っているぐらいの、たぶんそれぐらい。

 

 俺のいる場所は屋上一歩手前の踊り場。

 このドアさえ開ければ屋上へといける、そんな場所。

 屋上へは……行けない。

 勇者がドアの鍵を開けたからいけるかと思ったんだけど……ちゃんと閉めなおしてたか。

 

 こんな生徒立ち入り禁止区域にいる理由? 

 そんなのあいつら五人組から逃げるためじゃないか。

 じつは、ここには昼休みの時からいる。

 昼飯のためのパンとおにぎりを買い、ここに来て食べ、そのまま眠りについた。

 昼休みが終わるチャイムの時に一旦目を覚ましたような気もするけど……それからはずっとここで寝ていた。

 埃っぽくて固い床だったけど……何もすることが無いと人間って眠気が来るんだな、ってことを学んだ。

 

 さて……それじゃあ帰るとするか。

 さっきのチャイム、おそらく校内にいる生徒を帰らせるために鳴らしたものだろう。

 ……そう言えば、勇者はもう先に帰っちまったかな? 

 いやもしかしたら、部活見学とかしているかもしれない。

 教室に残ってまだ話をしている可能性もあるけど……ま、どっちにしろ教室にはカバンを取りに一旦行くんだし、それぐらいすぐにわかるか。

 

 なんて考えながら階段を降りる。

 七階の踊り場を素通りしようとして、不意に――

 

 襟首をつかまれ、後ろに思いっきり引っ張られた。

 

 ――視界が、視点が、無理矢理、急速に、移動した。

 定まらない。

 見ることが出来ない。

 気が付けば、踊り場の向かいにある教室のドアに背中からぶつかり、尻餅をついていた。

 肩の後ろに激しい痛み。

 

 視界が、視点が、定まる。

 見ることが出来るようになる。

 そこに映ったのは、五人組のうちの二人だった。

 二人は俺の眼前に立ち、俺を見下ろしている。

 それだけで、理解した。

 

 俺は、こいつらに襟首をつかまれ、思いっきり引っ張られ、壁に投げつけられたのだと。

 

 何故そんなことをするのか、と訊くのは愚問。

 俺がこいつらの反感を買ったから。

 ただそれだけ。

 そしてこいつらがここにいる理由。

 それも簡単。

 

 反感を買った俺を、探していたから。

 

 俺は震える膝を奮い立たせ、ドアにもたれながらも立ち上がる。

 

「ずっと、俺を、探してたのか? はっ……ご苦労なことだ」

 

 残っている勇気を、数少ない虚勢を総動員させ、そんな言葉を吐き捨てる。

 喋ることで、少しだけ膝の震えが止まったような気がする。

 

「はっ、何その自意識過剰」

 

 二人のうちの、俺から見て左側に立っていた奴が、俺の言葉を一笑する。

 

「俺たちはただ、あいつをストレス発散でボコってただけよ」

 

 と、七階の廊下側を親指で示す。

 するとそこには、残りの三人に囲まれ、蹴られ、踏まれまくっている、俺の知らない男子生徒の姿が。

 

「すると上の階から誰かが降りてくる音がすっから、先公かもしれねぇからって隠れて見てたらテメェが降りてきたんだよ」

 

 上の階は何度も言うように生徒立ち入り禁止区域。

 そっから誰かが降りてくる音がする……ってことは、生徒の可能性なんてまったくない。係員やら先生だと思うのが普通。

 だから、ああしてボコしてる現場を見られないために、もしこの階に来そうだったら逃げるよう指示するため、隠れて見張っていた。

 そしたら思っていたものとはまったく違う、昼飯を買ってこなかった憎い奴が降りてきた。

 だからそいつもボコすため、こうして襟首を後ろから引っ掴み、思いっきりドアへと投げつけた。と、そういうとこだろう。

 

 なら俺が次にされることは……あの男子生徒と一緒。

 それがイヤなら……逃げるしかない。

 いつ? 

 そんなものは簡単。

 今だ。

 五人そろっていない今しかない。

 あの男子生徒を見捨てることになるが……俺一人では助けることが出来ない。

 それこそ、昨日妄想していた時の強さが俺に備わっていないといけない。

 でも俺は、こうしている今も、膝をガクガクと震わせている、情け無い一少年に過ぎない。

 だから今は、自分の身体だけでも逃がすことを、考える。

 薄情だと、人でなしだと罵られようとも、ただ逃げることだけを考える。

 自分の身の安全のためだけに。

 

 今俺の目の前にある階段は、この学校の出口から最も遠いC階段。

 つまり、人通りが最も無い階段。

 だからこそここであの人をボコしていたんだろう。

 こんな場所から逃げようとも、人と出会わない限りは追いかけられ、逃げ切れなければ同じ運命。

 人一人だけでも出会えれば、手は出しにくくなる。

 同じ運命を辿る確率は、格段に下がる。

 なら、どうする? 

 校舎の真ん中、人に出会う確率が上がるB階段を使うか? 

 いや、それは無理だ。

 そこに向かうまでの道に、残りの三人がいる。

 目の前の二人を振り切り、さらに三人を振り切るなんて芸当、こんなに膝を振るわせちまう情け無い俺が出来るわけ無い。

 同じ理由で校門に最も近いA階段も無理。

 なら必然、俺が使うのは目の前のC階段。

 でも出来れば、B階段を下りたい。

 なら、どうする? 

 ……簡単なことだ。

 冷静になれば答えなんて目の前にある。

 ……そう、一階だけ降りた後にB階段、もしくは校門に最も近いA階段まで逃げれば良い。

 そこまで行った後、階段を一気に駆け下りれば良い。

 それだけの話だ。

 教室においてきた俺のカバンは丸一日放置していても良いだろう。

 明日まで無事な可能性は格段に低いが……カバンを取りに行ったせいでボコされたら話しにならない。

 今は、自分の身体を逃がすことだけを考えろ。

 

 相変わらず、怖くて膝が震えてる。

 でもここで動かなければ、さらに怖いことになる。

 ならありったけの勇気を、奮い立たせろ!

 

「俺は、昼飯を買ってくるって返事をした覚えはないんだけどね」

 

 C階段を使って逃げる、にしても、今は目の前の二人から逃げないといけない。

 それをどうするか……喧嘩の弱い俺じゃ、普通に立ち向かっても無様にやられるだけ。

 なら……どうするか……。

 

「お前の返事なんて関係ねぇんだよ。お前のせいで昼飯が食えなかったことが大事なんだ」

「それこそ、俺にとってはどうでもいいことなんだけどね!」

 

 そう言葉を発すると同時、左側の男の顔面目掛け、右拳で殴りかかる。

 素人当然の俺の動き。

 でも、不意を突いたその攻撃。

 だが当然、そんな攻撃は男を少し驚かせるだけで、あっさりと避けられる。

 そこで確信する。

 内心で喜ぶ。

 

 “それで良い”と。

 

 素人の俺の攻撃が当たるだなんて思っていない。むしろ“掴まれる”とさえ思っていた。

 でも、掴まれたらダメだ。

 相手に避けさせないといけない。

 避けることで出来るその隙間。

 そのわずかな隙間から逃げるため、掴まれてはいけない。

 なら、どうするか? 

 “避けさせるために”どうするか?

 

 突然顔面目掛けて物が飛んでくる。

 すると大抵の人間は避けようとする。

 それが例えどんな些細なものであろうとも。

 人間の反射運動だから、どうして身体を動かしてしまう。

 だがあくまで“突然飛んでこないといけない”。

 だから、さっきの行動。

 素人当然の拳とはいえ、会話中に飛んでこればそれは“突然飛んでくる物”と同じになる。

 

 避けた左側の男。

 不登校気味の男である俺が突然襲うことで、驚きのせいで咄嗟に身体を動かすことが出来なくなる右側の男。

 その間を、駆け抜ける! 

 拳を振るうことで移動した体重をそのままに、俺は階段目掛けて駆け出した!

 背中に二人の感覚がある。

 逃げ切った! 

 

 そう確信した。

 そう、錯覚した。

 

 視界が、視点が、無理矢理、急速に、移動した。

 

 定まった時、見えるようになった時に映ったのは、天井。

 ああ……なるほど。

 俺は“地面目掛けて投げられたのか”。ドアに向かって投げ飛ばされた時と同じように。

 背中にかすかな痛み。それがその推測を、真実だと教えてくれる。

 そして同時に理解する。

 

 “理解するのが遅かった”と理解する。

 

 視界の左端に、倒れた俺の鳩尾(みぞおち)目掛け、足を振り下ろしてくる映像。

 

「ギゃっ!」

 

 格闘マンガのようなカッコイイ咳なんて出来なかった。

 肺にたまっていた空気が一瞬で消失する感覚。

 呼吸が出来ない感覚。

 周囲の空気を、根こそぎ奪われたのではないかという錯覚。

 失われた空気を再び得ようとするたび軋む臓器。

 

 そんな中、右側の視界の端に、足を後ろに下げている映像。

 それはまるで、俺の顔をサッカーボールに見立てて蹴るかのような……。

 

 ドッ!

 

 頭の中で、弾けるような強い衝撃。

 バキッ! とか、ドカッ! とか、そんな音はまったく聞こえない。

 ただ脳が揺さぶられ、頭の中で何かが爆発し、直接衝撃を与えられたような、そんな感覚。

 でもその感覚は一瞬で、すぐに右頬の痛みが訪れる。

 いや、違うか。

 脳内の衝撃で、右頬の痛みを忘れることが出来ていたのか。

 そして右頬の痛みもすぐ、奥歯の痛みへと変わる。

 頬を引っ叩かれたことはあるが、それとは比べものにならないほどの痛み。

 

 無意識的に手で押さえようとする。

 

 でも、押さえる前に、左脇腹に衝撃。

 

「グぁっ!」

 

 喉の奥から絞り出されるような声。

 音と表現してもいいような、醜い声。

 ……ヤバイ。

 このままじゃヤバイ。

 身体が使い物にならなくなる。

 少しでもダメージを減らすため、身体を丸める。

 蹴られた脇腹をおさえるように。

 鳩尾を庇うように。

 

 さっき顔面を蹴ってきた奴が、今度は首の後ろに蹴りを入れてくる。

 痛い。

 さっき脇腹を蹴った奴が、今度は思いっきり踏みつけてくる。

 痛い。

 

 目を思いっきりつぶる。

 痛みに耐えるため。

 視界から入る恐怖を消すため。

 

 顔を、

 肩を、

 腹を、

 足を……。

 何度も何度も、踏まれ、蹴られる。

 

 痛い。

 痛い。

 痛イ。

 痛イ。

 イタイ……。

 

 何度踏まれ、何度蹴られ……何処を踏まれ、何処を蹴られたのか、わからない……。

 もう、何処が痛いのかも、わからない。

 あまりにも体中が痛すぎて……。

 体全てが、痛すぎて……。

 

 そこでふと、攻撃がやんだ。

 

 助けでも来たのかと少しだけ期待してしまう。

 でもそれは、儚い期待だった。

 

「おもしろいもんボコしてんじゃん」

 

 期待とは正反対の存在が、訪れてしまった。

 

 廊下の向こう側から、三つの足音。

 

 ああ……そうか。

 とうとう五人全員にボコられるのか……。

 

 そんな、諦めの感情。

 と同時に、逃げるなら今しかないという感情。

 

 そう。

 逃げるのは、今しかない。

 これがラストチャンスだ。

 攻撃がやんでいる今しか無い。

 

 立ち上がろうと、腕と足に力を込める。

 だが、立てない。

 肘と膝が震えて、立ち上がれない。

 それでも、立ち上がろうとする。

 無理にでも、力をこめて立ち上がろうとする。

 上半身が少しだけ浮く。

 

 でも……そこまでだった。

 

 急に肘の力がガクッと抜けた。

 辛うじて浮いていた上半身が沈む。

 肩から地面に激突する。

 ……マンガで読んだことがある。

 痛みと恐怖は、身体をダメにする。

 痛み……それと、痛みのせいで感じなくなってしまったが、確実に蓄積されている恐怖。

 その二つが、俺の身体の自由を奪っているのか。

 この感覚が、マンガで読んだあの感覚なのか。

 

「おいおい、何逃げようとしてんだよっ!」

 

 背中を蹴られる。

 痛い。

 でもすぐに霧散される。

 身体中が痛いから。

 “めちゃくちゃ痛い”のは蹴られた瞬間だけで、すぐに“他の痛みと一緒の痛み”になる。

 

「峰岸ぃ……俺たちの昼飯はどうしたんだよ?」

 

 俺の顎をつま先で持ち上げながら訊いてくる、さっきやってきた三人のうちの一人。

 ただでさえ顎に力が入らないのに、そんなことされたら喋ることも出来ない。

 

「だんまりかよっ!」

 

 そんな俺の事情を露知らず、顎を持ち上げていた足をどけ、俺の顔面を横から蹴りつける。

 痛い。

 視界を無理矢理捻じ曲げられる。

 怖い。

 だから俺は再び、目をつむる。

 

「調子のってんじゃねぇぞ!」

 

 そんな言葉を吐き捨てながら、俺の肩を思いっきり踏みつける別の男。

 

「何とか言えよ! コラッ!」

 

 また別の男に脇腹を蹴られる。

 そしてまた身体中を蹴られ、踏まれる。

 今度は人数が先程の二倍以上の五人ときてる。

 

 あぁ……だんだんと意識が朦朧としてきた……。

 

 身体中を踏まれ、蹴られ、体内にある臓器全てを引っ掻き回されているような気がする。

 引っ掻き回されすぎて、もはや嘔吐感も吐血感も酸欠感も、全てわからなくなってしまった。

 もしかしたら心臓の位置が変わってるかもしれない。

 そんなありえないことを朧気な意識の中で考えてしまう。

 

「そうだ、いいこと思いついた」

 

 楽しそうな声が頭上からしたかと思うと、いきなり俺への攻撃がやんだ。

 糸一本で繋がっている意識。

 もう少しダメージがあったら、俺の意識はとっくに無くなっていただろう。

 この隙に逃げる……なんてことは出来ない。

 肘と膝に力が入らないのは、さっき自分の身体を使って実証したところだ。

 じゃあ、どうするべきなのか。

 ……簡単なことだ。

 あきらめて、こいつ等が飽きるまで痛みを堪え続けるしかない。

 身体を丸めて、極力痛みを感じないようにするしかない。

 また蹴られる……そう覚悟した俺の体が不意に、こいつらの手で持ち上げられた。

 

 違和感を覚え、俺は目を開ける。

 少ししか開けることの出来ないその目は、移動する地面を映し出している。

 ……いや、違う。

 地面が移動するはずが無い。

 これは“俺が移動させられている”のか。

 足の先が地面に触れている感覚がある。

 おそらく腕だけを持ち上げ、引きずっているのだろう。

 そしてその映像の上部に、階段が見える。

 下りの階段……ここにきて、こいつらの「いいこと」に思い至った。

 

 でももう、俺の力では……どうすることも……できなくて…………。

 

「せーの」

 

 その掛け声が左右から聞こえたかと思うと、腕が思いっきり上に持ち上げられ、無理矢理その場に立たされる。

 膝に力が入らない俺は、ガクッと、地面にへたり込みそうになる。

 だがその前に……背中から衝撃。

 たぶん背中を、押すように蹴られた。

 その先は下りの階段。

 今度は意識的にではなく、反射的に両目を閉じた。

 

 ゴロゴロゴロ……なんて音はしなかった。

 むしろ“音”なんてなかった。

 ただ体が落ちていく感覚と、それを防ごうと地面が、階段が、俺の体を浮かそうとする衝撃。

 その二つを何度も味わった。

 

「うっひゃあ〜……おもしれぇ」

 

 頭上からそんな声が聞こえる。

 反射的に閉じた目を、何とかして開ける。

 ……ほとんどが闇だった。

 天井が少ししか見えない。

 傍から見れば俺の目は開いていないように見えたかもしれない。

 その少ない視界で、男達の姿を確認するために、僅かに首を動かす。

 

「なあなあ、もう一回やろうぜ。次はそこの長い方で」

 

 そんなことを言いながら、男達は階段を下りてこようとする。

 その音と声が遠くから聞こえる。

 耳もそろそろヤバイのかもしれない。

 ……いや、もう……意識自体が、ヤバイのかもしれない。

 

 七階から六階へと続く階段、その折り返し部分ともいえるこの踊り場。

 七階からこの踊り場までの階段の数は少ない。

 でも次は……この踊り場から六階までの長い階段で俺を突き落とそうと言うのか。

 ……やっぱり両手足に力は入らない。

 ならもう……痛いのは……イヤだから…………このまま…………意識を………………無くしても……………………。

 

 ダンッ!!

 

 閉じる意識の中、耳元でスゴイ音が聞こえた。

 俺と階段の間から。

 まるで高いところから物が落ちてきたような……そんな音が。

 何事か気になり、閉じかけた意識を、目を、無理矢理こじ開ける。

 半分以上が闇に染まったその視界……天井を見上げるその視界に、金色の髪をした長身の男の姿が映っていた。