翌日、昨日と同じ視聴覚室へと向かう道のり。
ああ……昨日ぶつけた額が痛い。
昨日気絶から回復した後、机に突っ伏していた紅先輩に事情を聞いたところ、どうやらオレは麻枝が投げつけた椅子を顔面キャッチしてしまったらしい。んでその後は机の上に運ばれて休まされていた、とのこと。
……もっとも、詳しい事情は当人である麻枝とその場に居合わせていた蒼莉さんしか知らないらしく、紅先輩もトイレから帰ってきた途端にそう伝えてくれと蒼莉さんに言われただけで状況に関してはまったく知らないようだった。
んまぁ、で……肝心の蒼莉さんは麻枝と一緒に下校していった、と……。
……つうかあの時の悲鳴、アレは麻枝のだったのか……。……まぁ、見られても大丈夫だって言ってたのに悲鳴を上げる理由も分からんでもないんだけどさ。
だってそんな宣言をしていようとも、彼女も女の子。白沢との戦いでソレを改めて認識したオレには、彼女の気持ちが手に取るように分かる。
たとえ投げた椅子の威力が、あと数センチ下に当たってれば鼻の骨が砕けるほどの殺傷能力を誇っていようとも、彼女が怒ったことに納得できるし理由も分かる。
おそらく彼女は、本当にオレ程度の男になら見られても大丈夫なんだろう。
だが如何せん、いきなりなのがいけなかった。
この前はほら、事前にオレがいるってことを知ってたじゃん? それなのに今回は最初からオレがいなくて、しかも見られたタイミングが不意打ちすぎた。
まぁつまり、彼女自身の心の準備さえ出来ていれば大丈夫だってことだ。それが無かったから驚いてあんなことに……。
まぁ結論としては、ちゃんとノックしましょうってことで。
……つうか、恥ずかしがった原因とかは置いといて、今日会ったら真っ先に謝ろう、うん。と言うか、どうして休み時間とか昼休みに謝りに行かなかったのか……オレは。本当に悪いと思ってるならそれぐらいするだろ……。見てしまった件と言い、ホントオレはダメすぎる。
放課後になるまで昨日の“このこと”を思い出せてない、ってことだもんな……指摘されたらこのことも謝ろう。
「……ん?」
と、視聴覚室の前。その入口の横の壁に、制服姿の麻枝が背を預けて立っていた。
「麻枝!」
「っ!」
とりあえず謝ろうと、彼女に駆け寄りながら名前を呼びかける。
……って、途端に身体をビクッと震わせて顔を真っ赤にするのは失礼過ぎやしないか……? ……いやまぁ、半裸を見られたんだから、これぐらいの反応が当然か……でもあくまでこの反応って恥ずかしがってだよな!? 見られて恥ずかしいからそんな反応になってるんだよな!? 決してオレのことを軽蔑して避けたいが故の反応じゃないよなっ!?
「…………」
……まぁ、そんなことを訊く勇気なんて持ち合わせてないんだけど……オレの勇気はあくまで謝るだけの分しかねぇや。
「……その、昨日はゴメン!」
大きく深呼吸をして一拍置いた後、顔は赤いのに相変わらず無表情、それなのに何故か恥ずかしがってると分かる雰囲気を纏った麻枝に勢いよく頭を下げて謝る!
「いきなり戸を開けて、しかも、その……き、着替えを、見てしまって……!」
……いざ言うとなると無性に恥ずかしいな……。
「だから、その、本当にゴメン!」
「だ、大丈夫。……その、むしろこっちこそ、いきなり椅子を投げつけてしまって、その……ごめんなさい……」
珍しく言葉をつっかえ、これまた珍しくシュンとした表情を作る麻枝。
「見られても大丈夫だって言ったのは私なのに……見られた途端、椅子を投げつけた……だから私の方こそ、本当にごめんなさい」
その言葉の端々には、本当に悪いことをしたと後悔しているのが見て取れる。
日頃から無表情な彼女だからこそ、こんなに感情が表に出ていると、ソレを余計に感じてしまう。
「い、いや、その、悪いのは本当にオレなんだ。だからさ、そんなに気を落とさないで、ね?」
思わず出た言葉だが、コレはオレの本心だ。だからそんなに申し訳なさそうにされると、こちらが余計に申し訳ない気分になってしまう。
「でも……本当に、私が悪い。だって今までこんことは無かった。こんな……異性に見られた程度で、恥ずかしい気持ちで心が昂ぶってしまうことなんて……」
……もしかしてオレ、麻枝にとって特別な存在になれてるのだろうか……? ただのチームメイトや、一時的な協力者といった立場よりも、上に位置できているのだろう……?
……なんだろ……もしそうなら、とてつもなくうれしい。そう思えてくる。
「…………」
「…………」
しばらく、互いに互いの爪先を見つめるように無言。
おそらく麻枝は自分の言葉が恥ずかしくて、オレはさっきの言葉を噛み締めていて――ってもしかして、何か話しかけたほうが良いのだろうか……?
「そう言えば」
と、先に沈黙を破ってくれたのは麻枝。
「昨日は、助けてくれてありがとう」
その、思い出したかのように口をついた言葉。……何だろう……いつもの無表情なのに、いつもの淡々として口調なのに、何故か彼女が本当に感謝しているということが分かってしまう。
「い、いや、そんな……だってさ、その、アレが、作戦の一つじゃん?」
「それでも、ありがとう。助けてくれたときの言葉は、嬉しかったから」
今まで読み取れなかった感情が読み取れてしまうことの動揺か、思わずどもった返事をしてしまう。
それなのに彼女は気にすることも無く、まるで宝物を見せてくれているような、心底嬉しそうに、それでいて大切そうに、言葉を紡いだ。
でも……助けてくれたときの言葉か……。……正直な話、あの時オレって何叫んだっけ……?
何かを叫んだ記憶はあるんだが……詳細な言葉までは無我夢中すぎて憶えてねぇや……。
……でも……言葉と言えば、オレの方こそ彼女に感謝しないといけないことがある。
「でも……それならオレこそ、麻枝に感謝しないといけない」
どうして? と視線で訴えかけてくる麻枝に、オレは微笑みを返して続ける。
「一昨日、麻枝自身が言ってたじゃん? 何を目指して強くなるのかって。……それをさ、オレ、麻枝を助ける時にやっと見つけれたんだ」
オレを傷つけた奴に復讐するとか、そんなのじゃない。
別の、オレの中でもっと、しっくりとくるものが、彼女のおかげで見つかった。
「…………」
麻枝はたた、無言で先を促してくる。
でもそれは同時に、無理なら言わなくても良いと、そうも言ってくれている。自分がきっかけになったけど、言いたくなければ気にしなくて良いと、そうも言ってくれている。
ただ静かに、先を促してくれるだけ。
それが妙に嬉しくて、やっぱこの目標にして良かったと、そんな気持ちで心が満たされる。
「最初は、復讐かとも思った。でも、言葉がしっくりとこなかった。……その時に、気付けたんだ。オレは、オレと同じような目に遭っている人を、オレなんかを頼ってくれる人を、オレにとって大切な人を、ただ護りたいだけなんだって」
その気持ちを精一杯乗せた言葉を、どんな表情を作って発したのか自分じゃわからない。
でも、さっきよりも清々しい気分になったのは事実だ。
「昔は、復讐のために他人を助けていた。そのついでに、復讐心以外の自己満足心を満たしてた。自分が助けようとしている人と、誰にも助けられなかった昔の自分……その二つを重ね合わせることで、“昔の自分を助ける気分”になることでさ」
きっかけは、麻枝を助けるための作戦を、蒼莉さんに聞いたあの時。
震えていた足が、麻枝を助けると思ったあの時から震えなくなった、あの時。
「でも、今は違う。今はただ、その人のためだけに助けたいんだ。自分の力で助けられる人を、自分の力で助けたいと思う人を、自分みたいな力を頼ってくれる人を、ただ助けていきたい」
気付けたのは、麻枝を護っていた時。
狙われている彼女を逃がすために、自分が思っていた限界以上の力を引き出せた、あの時。
「……ま、そんなこと言ってても結局、自己満足心を満たすために戦おうとしていることに変わりは無いんだけどさ。今の目標だって、大層なこと言った割にただのエゴの押し付けで、昔とそんな変わらんしさ。正直、こんな目標で良いのかさえ自信がねぇや」
自分でも自覚できるほどの苦笑いを表情に張り付かせ、肩をすくめる。
「でも、その自覚があるのなら、それは確かに昔とは違う」
でもそんなオレに麻枝は、無表情で淡々とした、いつも通りの言葉をぶつけてくる。
庇ってくれるかのようなその言葉の真意を確かめるために、思わず瞳の奥を見つめてしまう。
その、力強く、真正面からこちらを見据えてくる瞳を。
その、まるで自分の目標に自信を持てと言わんばかりの、同情じゃない思いが分かる、嬉しい瞳を。
「昔のあなたは、力に溺れていた。他人の痛みを理解しようともせず、ただがむしゃらに力を振るって、自分の心を満たしていた。……出会った時にも言ったと思うけどね」
弱い自分を認めたくなくて、その“認めたくない”という弱い思いを、力を誇示して“自分は強いんだ”と思うことで心を誤魔化し、満たしていた。
「でも、今のあなたは違う。だって昔みたいに力に溺れているのなら、自分の弱さとなんて向き合ってない。“自分の考えが正しくないんじゃないか”、なんていう自分の内面という弱さと、向き合うなんてことは出来ない。だから今のソレは、間違いなく昔とは違う、何よりの証よ」
とそこで突然、ふっ、と瞳を柔らかく細める。
「自分の弱さを誤魔化すために他人を傷つける……昔のあなたはそうだった。でもそれが復讐心からくるものだと言うのなら……あなたは一度、同じ目に遭わされていたという事。なら峰君、たぶんあなたは、私と同じ。弱さの誤魔化しのために傷つけられた、“他人”に位置する人じゃないの?」
「……ってことは、麻枝も?」
弱さの誤魔化しのために傷つけられた……それってつまり、イジメの対象にされてたってことだろ……?
「……やっぱりね……その右腕も、その時に?」
「……ああ」
「……他に傷は?」
右腕に巻かれた包帯を指差しながらの言葉。
そこには同情とか、哀れみとか、そんな気持ちが微塵も感じられない。ただ淡々と、無表情に、確認作業のように訊ねてくるだけ。
それが尚のこと、オレと同じ境遇なのだと、オレに分からせてくる。
「……体中のあちこちに、青アザがあるぐらい」
「……なるほどね……だから今のあなたから、今の私と同じ空気を感じたのね」
「麻枝と同じ空気?」
「ええ。傷つけられて痛みを知ったからこそ、大切な人を傷つけられないよう護っていきたい、っていうね」
その言葉だけは何故か、淡々として口調ではなく、とても柔らかな口調だった。
「……麻枝も、護りたい人がいるのか……?」
その大切そうな言葉に、思わず好奇心が突付かれる。
……いや、違うか。同じ境遇だと言われたことが、不謹慎ながらも妙に嬉しいんだ。
「うん、いる。大切な妹が三人」
……麻枝って、自分にとって大切なものを話す時だけ、いつもの淡々とした口調がウソのように言葉が柔らかくなるんだな……何か、普通の女子っぽくてカワイイ……。
「父も母も共働きで家を留守にしがちだから、お姉ちゃんの私が三人とも護っていかないといけないの。……たとえソレが、他人を傷つけることになっても。他人の願いを、踏み躙ることになったとしても……」
でも言葉が終わるにつれ、段々と、いつもの淡々とした口調に戻っていく。
……いやでも、よく聞くといつもとは違う。
ただ静かに淡々としているんじゃなくて、覚悟を乗せた上で、淡々とした言葉で喋っているように聞こえる。
……表情に反して、麻枝って感情が言葉に乗り易いんだな……何か今までの会話だけで、麻枝の一面を色々と見ることが出来ている。……何だろ……心がホワホワとして、妙な嬉しさが内面を包んでるような……。
「だから私は、この妄想能力を、捨てないといけない」
「えっ!?」
でも、そのあまりにも突拍子の無い言葉に、自分の内面を包んでいた気持ちが吹き飛んでいた。
「……それって、どういうことだ……?」
今の心の中には、ただ疑問が渦巻いているのみ。
「……峰くんは知らなかったんだね……。……ううん、忘れているだけなのかもしれない……」
呆然とした口調で出た疑問に、麻枝はいつもの口調に戻り、静かに瞳を伏せる。
「教えてもまた、無駄に終わるだけなのかもしれない。……でも……もしかしたら今度こそ、って期待しちゃう」
独り言のように呟くその言葉の意味は、まったく分からない。
でもオレにとって重要なのは、どうして彼女が何かを護るために、その護るための力である妄想能力を捨てないといけない、って言ってるかだけだ。
だからその他に関しては、まったく関係ない。
教えてくれるかどうか、それだけが重要なんだ。
「峰くんが理解して、憶えてくれて協力してくれたら、とても戦略の幅が広がるって先輩も言ってた……なら……期待があるうちは、何度も足掻いたら良いのかもしれない……。もしかしたら今度こそ、いけるのかもしれないんだから」
呟きを止め、閉じていた瞳を開き、オレの目を見つめてくる麻枝。その瞳の色は、どこか覚悟を決めているようにも見える。
そしてそれは間違いではなかったようで、次の彼女の言葉は、とても意を決しているように聞こえてきた。
「良いよ。教えてあげる、峰くん。妄想能力が、本来どういうものなのかを」