段々と、体の痛みが引いていく。
右手の平の痛みも、左腿と左脇腹を貫かれた痛みも、何故か無くなっていく。……不思議な戦場で行った戦いだからか……そこで受けた傷だけはすぐに引いていく、ってことになってても、なんら不思議に感じない。そもそも本当に血が垂れ流れてた訳でもないし。
「っつ……!」
とは言え、さすがにまだ立ち上がることは出来ないか……。
マシにはなってきてても、痛いことには変わりないんだし。
「はぁ……」
ため息を吐き、その場でごろんと横向きになる。
そうして思い出されるのは、やっぱりさっきの相手のこと。
ホント不思議な相手だった。
……鳥居琴美、か……敵のオレにあそこまで優しくしてくれるなんてな……。
まぁ最も、こっから先は彼女のような存在と戦えるとは思えないが。
――あんたさ、今まで真正面から戦ったこと、無かっただろ?――
……ふと脳裏で再生される、紅先輩と初めて戦ったときの言葉。
――他人同士の戦いに割り込み、驚いているところに一撃。そんなことばっかやってきただろ。……それが、今回の敗因だ――
突然思い出されていくその言葉に内心驚きながらも、それ以上に、なるほどと思い至る。
あの時は理由(わけ)が分からず、苛立って襲い掛かってしまった。でも今――弱い自分を認めて、否定せず変えていこうとしている今なら、なるほどその通りだと、分かってしまう。
「なんだ……結局、あの人の言う通りだったって訳か……」
オレの妄想能力が、紅先輩たちには筒抜けだった。
それはつまり、事前に誰かに聞いて、教えてもらっていたと言うこと。
でも、それ自体がおかしいことだったんだ。
もしオレが、全ての相手と真正面から勝負を挑み戦っていれば、相手は確実にオレの情報を紅先輩たちに喋らなかっただろう。
だって、情報を聞き出そうとしている紅先輩たちもまた、自分たちの敵になる可能性がある存在なんだから。
チームを組んだ仲間以外は全て敵。それがこの争奪戦の暗黙のルール――と言うよりも、常識だ。
つまり敵の敵は味方、となる訳じゃない。敵の敵もまた自分の敵なんだ。
そんな相手に情報を与える……自分しか知らないかもしれない、相手の妄想能力についての情報を与える。……そんなこと、するはずがない。
でもオレは不意打ちばかりし、正式な戦いに割り込んでばかりいた。
何度も何度も。
……だから、するはずのないことをされた。もしかしたら自分の代わりに倒してくれるかもしれないから。対抗策を練る一役を買うことになるかもしれないから。
そうして倒されてしまえば、皆から憎まれているオレの弱点は周りに伝えられ、誰にも勝つことが出来なくなり、いずれそのまま朽ち果てる。
だからあの時の敗因は、紅先輩の言う通り自分の行動のせいだったんだ。決して状況が悪かった訳じゃない。
むしろあの段階で教えてもらえたからこそ、今こうして朽ち果てることなく生きながらえているとも言えるのか……。
「帰ったら、お礼でも言おうかな……」
「誰に、かな〜?」
「っ!」
後ろからかけられたその突然の言葉に、慌てて体をそちらへと転がす。
「あっ……蒼莉さん」
「うん、蒼莉ちゃんだよ〜」
敵かと一瞬警戒してしまったが、そこには膝を立ててオレの顔を覗き込み、手をヒラヒラとさせている蒼莉さんがいただけだった。
「ふぅ〜……敵かと思って驚きましたよ」
なんて答えながらふと、視界の真正面に映る彼女の足へと視線が向かう。
黒のソックスで覆われた細い脚と顎を乗せたひび割れ一つ無い綺麗な膝。制服のままであるが故スカートの中が見えそうででも足で完璧に塞がれて結局大事な部分は見えないのに真っ白で綺麗で柔らかそうな太ももの裏側が見えちゃってたりっておっとぉうっ!
「……どうかしたの〜? なんか、いきなり向こう向いちゃったけど〜」
「いえ……別に。気にしないでください」
さすがに「スカートの中が見えそうだったのでついつい集中的に見てしまいましたが、ガキの自分には刺激が強くて途中で視線を外してしまいました」なんて言えないわ……。
っつか麻枝もそうだが、この人も結構羞恥心が足りないよな……しかもこの人の場合、一歳しか違っていないという真実を疑ってしまう程魅力的な体つきしてるからな……。余計心臓に悪い。
……まぁ麻枝とは違いこの人は、見られても構わないんじゃなくて素に見えそうな状況だって気付いてない可能性がデカイけど。
「んんん〜〜〜〜〜……? それじゃあ気にしないから、こっち向いてくれても良いんじゃないのかな〜?」
「いえ、それは、その……とても難しい状況で……」
スカートの中が見えそうです。ってこの場合は伝えるべきなのか……?
「どうして難しい状況なの〜?」
「えっ……と……」
背中からかけられるいつも通りの声。
それなのに何故か背中がめちゃくちゃ汗で濡れてきている。まったく思考がまとまらない。
「ねぇ〜えぇ」
「うおっ!」
突然、逆さになった蒼莉さんの顔が間近に現れた!
「どうしてなのかなぁ〜?」
上から覗き込んできたからか、その長い髪が地面へと垂れ下がっている。所々の寝癖が目立って特別綺麗なはずはないのに、何故か扇情的に映る。
そんなピンピンとはねた黒糸の持ち主は、少しだけのイタズラっ子の笑みと、本当に答えを待ち望んでいるのが分かる瞳とを表情に宿らせ、じっとオレの目を見つめてくる。
頬を中心とした顔に体温が集中し、色が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
逆さに向けられる彼女の視線を真正面から見れない。でも近くに顔がありすぎてどう視線を逸らしても、その美しい顔の輪郭や艶やかな髪が視界の中に映ってしまう。
「あ……う、ちょ……」
ちょっとだけ離れてください。
それだけを言うつもりだったのに、口の中がカラカラで言葉が喉に痞(つか)えて出てこない。
「ん〜? どうしたの〜? 顔が真っ赤だけど〜?」
「い、その、えっ……と」
そんな質問にも言葉が詰まって答えられない。
……さっきの戦いよりも緊張してるのが自分でも分かる。
と言うかそろそろ離れてくれないと、この辛うじての冷静部分も崩壊しそうなんだが……。
「ん〜……? ……ん? 俊哉くん、その右手、どうしたの?」
右手?
話題が逸れるなら何でもいい。
そんな安直な理由で、目の前にぶら下げられている藁に縋ってしまった。
彼女が指差す、自分の右手の甲へと視線を向ける。
冷静な状態なら、そんな藁では助からないと気付けた。
見送り、こうして溺れている状況を、自分でどうにかして切り抜けようと思えた。
でも今は、冷静じゃなかった。思考が正常に機能していなかった。
だからこうして、日常では絶対に見ることの無い場所へと、自然な動きで、視線を向けてしまう。
それが失敗だと、頭のどこかで気付き始めながらも、止まらずに。
だってここには――
――そこには、火傷のせいで皮膚が醜く剥がれ落ちた、とても痛々しい傷痕があるから。
指の付け根から肘にかけて、今までずっと包帯で隠し自分の視界の中に収めないようにしていた、恐怖と憎悪の塊ともいえる傷痕があるから。
「あ……あぁ……!」
顔に集まっていた熱が、全てどこかへいく感覚。
今まであった体温全てが無くなり、寒さに震えてしまう感覚。
ゾワゾワと気味の悪いナニカが、身体の中心から広がっていく感覚。
「どうかしたの? ねぇ、俊哉くん。顔が真っ青だよ? 大丈夫なの? ねえ」
誰かが自分に声をかけてくる。
でも、その言葉がどこか遠い。
“ボク”の体をゆすりながら何か言ってきているが、誰が何を言っているのかもう、理解できない。
――誰が……――
理解できないなら、今は考えなくてもいい。
今はただ、この右腕の痛みをどうにか出来ればそれで良い。
見ているだけで痛々しい火傷の痕。
視線を逸らして両目をつむり、闇を瞳の中に満たしても、頭の中でその映像が何度も何度も映り続ける。腕がこうなってしまった時の光景が脳内でフラッシュバックされ続けてしまう。そのせいであの時の痛みがシクシクと蘇ってくる。手の甲しか見なかったのに、記憶にある腕全ての醜い火傷の痕が蘇ってくる。
こんなんじゃ、目を閉じても全く意味が無い。
――誰が……――
それは分かってるのに、閉じ続けてしまう。
目を開ければ誰が喋りかけてきているのか分かるだろうに、それでも閉じ続けてしまう。
それはたぶん、この不快な痛みのせいで目を開けることが出来ないんだ。この、心が直接掻き毟られるような、右腕にある火傷の痕がジリジリとジワジワとゆっくりと剥ぎ取られ毟り取られていくような、身の毛がよだっていくおかしな痛みのせいなんだ。
――誰が……――
この感覚はイヤだ。
イヤだから、今まで包帯で覆って見えないようにしてたんだ。
それなのに……それなのに……!
早く……! 早く右腕から意識を外さないと! 包帯で覆ってたときみたいに、まったく気にしないようにしないと! ボクはずっとこの暗闇の中にいるままだ!
何も聞こえない何も見えない、ただ恐怖と苦痛ばかり与えられる暗闇の世界の中で痛みに怯えて震えて恐怖して痛がってっ……!
――誰が、ボクのことを――
怖い! 痛い! 疼いて気持ち悪いっ!
いつもそうだ! いっつもいっつもこうだ! 何も出来ずただずっとこの世界の中にい続けてしまう! 痛みが引くまで気が狂うまでこの痛みを味わって気を失ってっ!
そこまでしないとこの世界から抜け出せない! 衰弱しきるまで、ボクをこの世界から出してくれないっ!
誰か! 誰か何とか……してくれよぉ……っ!
――誰が、ボクのことを、呼んでるんだ……?
……ボクのことを、呼んでいる……?
疼く右腕。
そこに繋がれた手の中に、ナニカ、強く握り返してくれている小さなモノ。包み込んでくれている、ナニカ、暖かなもの。
この痛くて怖い真っ暗な世界の中、ずっとずっと、自分を繋ぎ止めてくれてるモノ。
そして、そんな自分のことを呼ぶ、音のような声。
……誰が? この真っ暗な何も聞こえないはずの世界で、一体誰が……?
(俊哉くんっ! 俊哉くんっ! 俊哉くんっ! ……)
……この声……聞いたことがある。
これはそう……“オレ”がまだ弱かったときに、強くなるきっかけをくれた声……。
「あ、おり……さん……」
その声を聞いたからか、それともその声に勇気付けられたからか。
何とか、キツく閉じていた瞳を、開けることが出来た。
声も、上げることが出来た。
「あ……。……もう、大丈夫なの?」
声も、聞くことが出来た。
いまだボヤける視界。オレの手を握ってくれている感覚の中、蒼莉さんが返事をしてくれる。
相変わらずのノビノビとした声で。
でも、だからこそ、今の今まで気付かなかった。
「その……落ち着くっ、ために、少し……話して……」
「うん、良いよ。でも、何の話しようか〜」
「オレを、強くしてっ、くれたのって……あなた、ですよね……?」
「……うん、そうだよ」
彼女こそが、あの時頭の中で聞こえた声なのだと。
弱かったオレを、叱責してくれた声なのだと。
「でも、よく気付いたねぇ〜……あたしって、頭の中だと早く考えられるのに、口に出す時どうしてもトロくさくなっちゃうからさ〜」
だからこそ、オレも気付けなかった。
こうして痛みに疼き、何もかもが見えなくなって聞こえなくならなかったら、気付けなかった。
あの暗闇の世界で、ただ必死で一途なその声でオレを呼び続けてくれなかったら、全く気付けなかった。
「ありがとう、ございます……」
「それって、どれに対するお礼〜?」
「色々、です。強くなれたこととか、色々」
「なぁんだ。そんなの、お礼なんていらないんだよ? だってわたし、なぁんにもしてないし。ただねぇ、強くなろうとした俊哉くんの背中を、少しだけ押しただけ。だから、強くなれたのは俊哉くんの実力。わたしは、特別なことなんて、なぁんにもしてないの」
「それでも、ありがとうございます」
気が付けば、視界はすっかりと晴れていた。
右腕の痛みも、無くなっていた。
額から流れる汗が気持ち悪い。繋がれている手が恥ずかしい。そんな普通の気持ちも蘇ってきた。
……どうも、元に戻れたようだ。今までみたいに精神を疲弊しきらずに。
「それじゃ、みんなの場所に、帰りましょうか」
まだ多少息は切れてるが、これぐらいならどうってことはない。
「ん〜? もう大丈夫なの〜?」
「まぁ、立ち上がるのに、手さえ貸してくれれば、何とか。……なぁに、大丈夫ですよ」
一年しか変わらないという真実を疑ってしまう程に大人びた顔が不安に染まったので、無理矢理に見えても構わないので笑みを浮かべる。
「こうして、火傷の痕を、見えないようにしてくれてれば、さっきみたいには、なりませんから」
そう言ってオレは、恥ずかしいという気持ちが強くなるのも構わず、包み込むように握ってくれていた彼女の手を、ギュッと握り返した。