瞬間、背中から蟲が広がっていくような悪寒。
何の武器も持っていない敵がこちらの間合いに入ってくる。
……それだけなのに、どうして?
だがその内から湧き上がる疑問に答えを出すよりも速く、オレは大きく後ろに跳び退いた。
「へぇ……」
そんなオレの行動に、目の前の女生徒が感嘆の声を上げる。
どういうことだ……?
そんな疑問が再び脳裏を過ぎるが、その答えを導くよりもさらに速く、女生徒が腕を大上段に持ち上げる。
がら空きの腹へと槍の一撃。
瞬時に浮かんだその考えを実行に移そうとした矢先、再びさっきの全身を駆け巡るイヤな予感。
その内からの予感に反射的に従い、振り下ろされる腕の直線軌道から上体を逸らす。
「っ!」
顔の横に何かが過ぎったような風圧。
だがそれが何かを考えるよりもさらにさらに速く、さっきから何度も全身を駆け巡ってくるイヤな予感。
再び後ろに大きく飛び退く。
その直後、オレがさっきまで立っていた空間の前を横に薙ぐような腕動作。
そして飛び退いたオレを追いかけるように、再び摺り足で迫ってきての攻撃。
避ける。
追撃。
避ける。
追撃。
大きく飛び退く。
……ただそれだけを繰り返す。
何やらイヤな予感が全身を襲い続けているせいなのか、精神的な疲労が半端じゃない。この額に浮かぶ滝のような汗は、イヤな予感だけを頼りに動き続けているせいなのか……。
と、狭い廊下の終わり。通路のための道が終わり、少しだけ広めに取られた場所にまで追いやられる。さっき上の階で紅先輩達が顔を覗かせていた場所だ。
その場所だと把握できた瞬間、オレは逃げるように横に飛び、転がり、その女生徒から大きく距離を取る。
幸いにも追撃は止み、オレはしゃがみ込むように、彼女はオレが先程まで立っていた場所で構えを解き、対峙する。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
特に大きく動いた訳でもないのに大きく息が上がっていた。
全神経を集中させていたからだろうか。
膝も激しく震えて立ち上がるのも困難だ。
「どうしたの? 強いんじゃなかったの?」
構えを解き、バカにするような瞳で見下しながらのバカにするような女生徒の言葉。
いつもなら苛立つところなのだが、今はそんなスタミナすら残されていない。
「武器を手に持つだけで、反撃すらしてこないしさ」
その指摘に、ハッとする。
今の今までオレは、右手に収められていた槍の存在が、頭の中から抜けていた。
予感だけを頼りに“何か”を避け続けるのに必死で、一度も反撃出来なかった。
武器を握っていたという事実を、本当の本当に忘れていた。
「ああ……なんだ、あんたは弱いんだ」
「誰が……弱いだって……?」
何かに気付いたように発せられたその言葉に辛うじて反論するも、言葉に反して相変わらず膝が震えて立ち上がることも出来ない。
それでも無理矢理に立ち上がろうと、震える足に力を込める。震えを止めて立ち上がるために。
「くっ……!」
が、その無理が祟ったのか、無様に尻餅をついてしまった。
「ぷっ! くっ、ははっ……! なんだ、あんたもうダメなんじゃん」
噴出し、喉の奥から笑い声を漏らし、憎たらしい笑顔をこちらに向けてくる。
「ダメじゃ、無い……! オレは、強いから……すぐに、立って、お前を……!」
何とか言葉を口から出しつつ、立ち上がるために再び足へと力を込める。
だが力を込めれば込めるほど、膝が笑って余計に震えて立ち上がれない。
一度尻餅をついてしまったせいだろうか。まるで腰を抜かしてしまったような、立ち上がること自体を体が拒否しているような、そんな感じがしてしまう。
そんなオレの様子を、冷ややかな瞳と小バカにするような笑みを貼り付け、女生徒は真正面から見下すように眺めてくる。
「あんたさぁ、もしかして膝が震えて立てないの?」
「それが……何だってんだ……! こんなスタミナ切れ、すぐに解消して――」
「スタミナ切れじゃないんじゃない?」
「は?」
「あんた自身気付いて無いのか……ううん、気付いていながらも否定したいのか、その膝の震え方、絶対スタミナ切れ何かじゃないわよ」
「なんで……お前なんかにそんなことが……!」
「あたし、これでも剣道部。そしてあんたがそうなる理由も、あたしが試合前に一度なったことがあるから分かる。それ、相手に恐怖して立ち上がれないのよ」
「んなっ……! ……んな訳あるかっ! オレは強いんだよ! それが……たった一度攻められ続けただけで、すぐにビビるかってんだ!」
「そうやって強がって、自分の弱い部分を誤魔化そうとするところまで昔のあたしにホントそっくり。……そういう時ってさ、自分自身に『強い』って言い聞かせてないと、ホント自分を保てないのよね」
と、言葉の後半で目の前の女生徒は、どこか懐かしむような優しい表情になる。
まるで昔の自分を思い出し、今の自分の成長を喜んでいるような……。
「お前に……何が分かるってんだよ……」
そんな表情を見せてくるもんだから、思わず戸惑ってしまう。
怒りは相変わらず燻っているのに、声を荒げることが出来なくなってしまう。
だってその表情に、どこか自分と似通っている部分があると、そう思ってしまったから。
「今のあんたが昔のあたしに少しだけ似てる。少なくともそれだけは分かるわ」
「何が似てるってんだ。お前とオレは、どこも似てなんてない」
「そう……それじゃあんたは、本当にあたしに勝てると思ってるの?」
「当たり前だ。負けるわけが無い。なんせオレは強いからな」
「それじゃ、あたしの妄想能力が何か分かる?」
……分かる訳が無い。
ただ漠然と、見えない“何か”を振るっているであろうことは予測できたが。
「……それが何の関係がある?」
「苦し紛れな言葉ね。でも残念なことに、関係はあるわよ。……あんたの能力が何か、あたしは分からない。でもあんたは、自分の能力じゃあたしの能力に勝てないって分かってる」
「っ! んな訳が――」
「無いって言い切れる? 本当に、あんたの妄想能力で、あたしの妄想能力に打ち勝てるって、本当に言い切れる?」
「っ……! …………」
その言葉に、口をつぐんでしまう。
だって……見えない攻撃に対して、オレはどうすれば良いんだ……? いつの間にか倒されるかもしれないのに、どうやって戦えって言うんだ……?
向こうの武器は見えない。それなのにこちらの武器は見えてしまう。
それはもう、向こうの攻撃は避けることが出来ないのに、こちらの攻撃は避けられてしまうのと同義。全ての攻撃を食らってしまうのに、全ての攻撃を食らわせらない。そう言ってるようなものだ。
そんな一方的な……まるで力を得る前のイジメられてた時のような、無力感と絶望感を味わってしまう状況なのに、恐怖せずに戦うことなんて、オレは出来ない。
何か勝つための方法や希望が無いと、とてもじゃないが無理だ。
「言い切れないでしょ? そりゃそうよね。もし言い切れるんなら、今のあんたはそんな状態じゃないはずだし」
そう言うと彼女は、無警戒にこちらへと歩いてくる。
そして、オレの目の前で立ち止まる。手に握る槍の間合いに、余裕で入っている。
右手を振るう。それだけで彼女を倒せる。そんな距離だ。
……それなのにオレは、振るうことが出来なかった。
……何故か腕すらも、力を込めて武器を持ち上げようとしたら、震え始めてしまったから。
「あんたの本能は気付いてる。自分の能力じゃ、あたしの能力に勝つことが出来ないって。だから震えてる。……怖くて。勝てない相手と戦わなくちゃいけないことが怖くて。でもあんたの理性はソレを認めたくなくて、自分は強いと言い聞かせちゃって、でもやっぱり本能で恐怖してるから体は動かなくて……今のあんたは、そんなところよ」
「……オレが、ビビってるってのか……?」
目の前で話してくれた彼女の瞳を見上げながら、声を上げる。
自分でも無自覚に震えてしまっていた声を上げ、訊ねる。
「ええ。……少なくとも、あたしはそうだった。試合前に見た決勝の相手。その圧倒的な強さを目の当たりにした時は」
――あなたが強いんじゃない。あなたが手に入れた力が強いだけよ――
ふと、頭の中に麻枝の言葉が蘇る。
――あなたは偶然に得た力を、偶然にも制御出来ているだけ。
制御できる範囲で、がむしゃらに振るっていることにも気付いてない。
そんな、力に溺れ、寄り縋って、本質を見抜けていないあなたは、まったく強くなんて無い――
初めて会った、自己紹介をされる前にかけられたその言葉。
……今なら、分かる。
どう足掻いても自分の力で勝てない相手と対峙したからこそ、分かる。
麻枝の言っていたことが正しかったのだと。
あの時は怒りと苛立ちで自分を見失っていた。
でも今、自分と同じ気持ちを味わったことのある、目の前に立つ女生徒の言葉で、そのことに気付いてしまった。
偶然手に入れたこの力が通じないと無意識のうちに気付いてしまったその瞬間から、オレは戦う気力を失った。
だから、膝を震わせるだけで、立ち上がることが出来なかった。腕を震わせるだけで、攻撃することも出来なかった。
それはつまり、溺れるためのものが無くなって焦り、寄り縋るものが無くなって動揺し、ただ恐怖に体を震わせているだけの存在だということ。
力の本質を見抜くことも出来なかった、本当に強くない存在なのだと。
……もしかしたら目の前の彼女も、オレと同じでイジメられ、とんでもない無力感と絶望感に苛まれ、その相手を激しく憎んだことがあるのかもしれない。
だからさっき、どこか似通っている部分があるのではと感じてしまったのかもしれない。
感じてしまったからこそ、こんなにも彼女の話に聞き入ってしまっているのかもしれない。
「あなたは弱い」
すぐに苛立つはずのその言葉が、何故かスーッと心の中に入ってくる。
いつの間にか燻っていた怒りがなくなっていたことに、今更ながら気付いた。それだけ彼女に心を許してしまっているのだろうか……。
……でも……こうして話してくれている彼女の言葉を、オレは全て受け入れて良いのだろうか……?
だって彼女は……本当は敵なのだから……。
「昔のあたしと一緒で、強くない」
だからこの言葉は……オレを貶めるための言葉なんじゃないだろうか……?
だって敵であるオレに、こんなに親身になって言葉をかけてくるなんて、ありえない。
だからこれは……この言葉はきっと、オレを戦わせないようにするための言葉。
この戦いが終わっても、もう二度とオレが戦わないようにするための、心を壊すための言葉。
「でも、それを恥じることは無い」
そもそも、オレは弱くなんて無い。
強いんだ。
弱いと言われたけど、強く無いと思ってしまったけど、それは間違い。
オレは、強いんだ。
確かに、彼女よりかは弱いだろう。それは認めざるを得ない。
でもその原因は、あくまで妄想能力の有利不利のせい。
火で風を止ませることが出来ないのと同じ原理。水で草木を枯らすことが出来ないのと同じ道理。
だから、彼女に負けるのは必然だったんだ。
それなのに、実力で負けていると言い包められそうになった。
それがたぶん、彼女の方法。
「そのことに気付いたのなら、段々と強くなれば良い」
そこまで言うと彼女は身を翻し、左手にある廊下――紅先輩達が使った一番奥の階段へと歩を進める。
駆け出して仲間の元へと向かわないのは、すでに手遅れなのを悟っているからだろうか……。
その後ろ姿を、相変わらず震えた膝で座り込んだまま、静かに眺める。
ふと、去っていくことに安心している自分がいた。
まぁ当然か。だってこれで……アイツと戦わずに済むのだから。
強いオレが、弱いオレに感じてしまうことが、無くなるのだから。
……紅先輩に頼られ、結局役目を果たすことは出来なかった。
でも……それも仕方が無い。
だって、相性が悪かったんだから。
強いオレを打ちのめす、力あるオレと相性の良い妄想能力を、向こうが持っていたんだから。
……そう、本当にただ、運が悪かっただけだ。