「あ……」
彼のその暖かさを実感した途端、忘れていたことが、思い出されていく。
彼女の中で忘れられていたことが、記憶の中で再生される。
それは、子供の頃の、彼との約束。
昔も、今と同じようなことを、彼に言った。
彼は優しいから、特別な感情じゃなくて、優しさでそんなことを言ってくれているのだと、そう言ったこと事がある。
すると彼は、あの、一昨日飛び降りたあの場所で、夕陽がキレイに見える真っ赤な、それでいて彼の名を表す透き通る橙色の世界の中、言ってくれた。
『それだったら、ずっと一緒にいる! ずっと一緒にいるから、どんなことになっても近くにいるから。それが、ボクがりっちゃんのことを、特別に扱っている、何よりのしょうこだよ! だからりっちゃんも、ボクから離れないでねっ。りっちゃんからどっか行っちゃったら、さすがのボクも、捕まえられないから』
そう、言ってくれた。
その言葉を、今――今更、思い出した。
「……っ!」
引き上げられ、重力に逆らっていく感覚の中、ようやく気付いた。
彼はずっと、約束を守っていたのだと。
中学時代、思春期時代の頃、立花はただ恥ずかしいという理由だけで橙耶のことを遠ざけていた。
その頃から『りっちゃん』ではなく『京田さん』と呼ばれるようになり、『とーや』ではなく『筧くん』と呼ぶようになっていた。
それほどまでに、他人行儀な接し方をしてきた。
……でもそれも、結局は彼女が望んだことだったから。
しかしそれでも、橙耶は立花に接することをやめなかった。
どれだけ遠ざけようとしても、だ。
だから今のような関係が、ずっと続いている。
続けることが出来ている
それはまさに、この約束をずっと守ってくれていたからだったのだ。
……でも、気付くのが、遅すぎた。
全てが遅すぎたのだ。
だって彼は、自分の代わりに、落ちて死のうとしてしまっているのだから……。
◇◆◇◆◇
落ちていく視界の中、空気が裂ける音が耳をつく中、橙耶は瞳を閉じ、死ぬ覚悟を決める。
立花を無理矢理助けようとしたのだ。
これぐらいは当然だろうと、そう覚悟を決める。
そして静かに、瞳を閉じる。
さすがに、迫る地面を凝視できる自信は無かったから……。
「橙耶くんっ!」
不意に、自分を呼ぶ声が耳をつく。
空気が裂ける音の中、その声だけがイヤにはっきりと聞こえた。
「っ!」
無意識の行動だった。
呼ばれた声の方向に、腕を伸ばしたのは。
「え?」
パシッ! とその手が取られる感覚。
伸ばした自分の手を誰かが掴み取る、その感覚。
思わず呟きが漏れる中、慌ててそちらへと視線を向けると、落ちていく自分の手を握ってくれた生徒会長――奈弦の姿が、そこにはあった。
「くっ!」
苦しそうな表情を作りながらも、伸ばした片腕を、両手で必死に掴んでくれているその腕。放せば楽なのに、放すまいと力を込めていることが分かるその表情。
落ちることで勢いが増し、とんでもない力が必要になっているであろう自分の体を、痛む自らの腕を無視してまで、手放した方が遥かに楽になるのに助けようとしてくれている、彼女のその姿。
その瞬間、覚悟した死は霧散した。
迫る校舎の壁。
このままだと体を打ち付けるソレを、身を捩じらせ、腕を掴まれていない方の肩でその衝撃全てを受け止める。
「がっ!」
「っ!」
とんでもない痛みと衝撃が走ったけど、カエルが潰れるような醜い声を上げてしまったけど、掴んだ手を放さないように何とか堪えきる。
それは奈弦も同様だった。
「奈弦先輩……」
「まったく……行動しろとは言ったけど、死ねとまでは言っていないはずだけど……?」
苦しそうにしながらも、僅かな笑みを携えながら言われたその言葉に、苦笑いを浮かべてしまう。
「……ほんと、助けてくれてありがとうございます」
「良いのよそれぐらい。でも、さすがにもう限界かな……? 橙耶くんの体、軽いんだけど、さっきの衝撃のせいで引っ張り上げられないや」
「じゃ、オレが引っ張り上げますよ、会長さん」
その返事をしたのは、橙耶の親友こと黒江恭介。
「あなたは……?」
「橙耶の親友ですよ。……オレからもありがとうございます。橙耶を助けてくれて」
「……良いのよ、別にね」
ただそれだけの会話をすると、恭介もまた窓から身を乗り出して橙耶の腕を掴む。
そして奈弦が手を離すと同時、その窓から校舎の中へと橙耶を引っ張り上げた。
「ふぅ〜……ありがとう、恭介」
「なぁに、これぐらい当然だろ? 親友なんだからさ」
校舎の下から聞こえてくる歓声の中、二人はそう言って微笑み合った。
◇◆◇◆◇
引き上げられ、塀の向こうに転がる体。
打ち付けられて痛みが走るその体を無理矢理起こし、擦り切れて血が流れている頬もそのままに、慌てて塀に駆け寄る立花。
遅すぎることはわかっている。でも、見ずに入られなかった。
もしかしたら、助かってくれているかもしれないと思ったから。
……だから、覗き込んだ地面には何もなかった時は、どういうことかと頭を悩ませた。
血に染まる土も、橙耶の体も、何もかもが無かった。
だからもう少し身を乗り出して、校舎の方へと視線を向ける。
そこにはなんと、手を掴まれ、校舎の壁に体を打ちつけ、ぶら下がったままの橙耶の姿があった。
「助かってる……?」
死んでいない橙耶のその姿を覗き見て、とりあえず安堵の息を漏らす立花。
「……良かった」
「何が良かったんですか?」
安心して漏らしたその呟きに返ってきた後ろからの声に、慌てるように振り返る。
するとそこには腕を振り上げた美咲が立っていて……そのことを理解した瞬間、パシィン! と乾いた音を屋上に響かせた。
「…………」
頬を引っ叩かれたのだと、しばらくしてからようやく気付いた。
その熱を帯びてきた頬に触れることで、ようやく。
「なにしてくれんのよ!」
「それはこっちのセリフですっ!」
叩かれたことに怒りをぶつけようとした立花に対し、それ以上の怒りをもって立花へと食って掛かる美咲。
「なにが良かったんですか! 橙耶先輩が死にそうになったんですよ!? それの何が良かったって言うんですかっ!」
「だから、助かって良かったって言ってるのよ!」
「殺そうとした本人がソレを言いますかっ!」
「っ……!」
「橙耶先輩を殺したくないんなら、あなたが死のうとしなければ良かっただけの話ですよね!? それなのにどうして死のうとなんてしてるんですか!」
「それは……! ……あたしは、誰にも必要とされてないと思ってたから……」
「……ということは、今は違うんですね? 今は、橙耶先輩に必要だと思われてることを、気付いているんですね?」
「……うん……」
その言葉を聞きたかったのか、美咲はさっきまでの剣呑を放り捨てるように、一つ大きなため息を吐いて続ける。
「……だったら良いです。もう死のうとしないなら、もう橙耶先輩を殺そうとしないなら、それで良いです。でも今度、同じようなことしようとしたら、本当に怒りますからね」
指をビッと突きつけて一方的に言い放ち終えると、美咲は立花の返事も待たずに屋上の出入り口に向かって大股で歩き去った。
「大人しそうな雰囲気してるのにな……」
無意識的に、そんな呟きが口をつく立花。
始めて会ったその時から牽制をしてきたが、まさかここまで大胆な行動をして立ち去るとは思ってもみなかった。
まさか、言いたいことを一方的に言ってそのまま立ち去るだなんて、考えても見なかった。
だからだろうか、立花は美咲と入れ替わるように現れた教師陣に囲まれるまで、ただ呆然としていることしか出来なかった。
◇◆◇◆◇
「ふぅ〜……にしても奈弦先輩、本当にありがとうございます。よく飛び降りそうなことに気がつきましたね?」
「当たり前でしょ。あんなに衆人観衆が集まってたんだから……ま、あなたの方が落ちてくるとは思わなかったけど。
廊下の上で倒れこむような体勢のまま、二人はそんな言葉を投げ掛け合う。
「ははっ……にしても奈弦先輩……その、大丈夫ですか? 腕」
「えぇ、大丈夫よ。ちょっと腕に力が入らないだけだから」
屋上から落ちてくる人一人分の重さを、五階から両腕で受け止めたのだ。無事で済むはずが無い。
「でもそんなにダランと下げて……もしかしたら脱臼とか骨折とかしてるんじゃ……!」
「大丈夫だって。この感触だと、たぶんちょっと痛めただけだから。一週間ぐらいで痛みなんて引くわよ」
力なく垂れ下がる痛々しい腕だが、もし力が入ればパタパタと顔の横で振って大丈夫だと示していたかもしれない。それほどまでに彼女の顔色は良好だった。
「それよりも橙耶、お前こそ大丈夫なのか!? あの高さから落ちて、その衝撃が右手一本に集中したんだぞ!?」
隣に立つ恭介のその言葉に、橙耶は大丈夫だよと返す。
「ボクも右手に関しては痛めたぐらいだろうし、後の怪我は左肩と胸を強く打ったのと、膝が擦りむいちゃったぐらいかな?」
「おいおい! それじゃあさっさと保健室に――」
「そうなんだけど……その前に奈弦先輩、二つほど聞きたいことがあるんですけど」
「なに? どうかした?」
「今回の場合、京田さんはどういう風に処罰されるんですか?」
「……そうね……あの子の場合だったら、親御さんも加えた三者面談の結果にもよるだろうけど……最低で一週間の停学、最高でも一ヶ月の停学、ってところかしらね」
「……三者面談があるんですか……?」
「そうだけど……それがどうかした?」
奈弦のもう一度の問いにも答えず、橙耶は必死に思考を巡らせる。
そしてついに、思いついた。
ようやく、思いついた。
彼女を……立花を、殺さずに済む方法が。
◇◆◇◆◇
「そろそろ出てきても良いんじゃないですか? 神様」
部屋に帰って来た橙耶のその言葉に、私はようやく姿を現す。
とは言っても、彼の前に姿を現さぬようにしていた期間は一週間にも満たないが……。
「珍しいわね……日課をこなす前に私のことを呼ぶなんて。いえ、むしろ初めてかしら?」
「そんなことはどうでも良いんです。ボクが聞きたいことはただ一つ、あなたがどうして立花を殺そうとしたのか、ですよ」
相も変わらない力強い瞳を見つめ返しながら、もう話しても良いかと思い、私は口を開いて真相を話し始める。
私がしようとしていたことの全てを、話し始める。
「私の狙いはただ一つ、あなたに恋愛ごとに対して臆病になってもらおうとしたのよ」
「……?」
「あなたの身近にいる女の子が、あなたのせいで死んだとなれば、あなたはきっと誰にも恋愛感情を抱かなくなるでしょ?」
「まさか……そのためにりっちゃんを……!」
「ま、その通りよ」
「……あんた、ボクの周囲の人には被害を被らせない、って言ってなかったか?」
「言ってたけど、でも今回の場合はその方が手っ取り早かったし。これからのことも安心できるしね。私としては最善の手のつもりだったのよ?」
「何が最善の手だよ……! 人一人が死んでるんだぞ!」
「綺麗な花を咲かせるために雑草を除去する。……人間のしていることに例えると、そんな感じかな?」
「っ!」
その言葉が引き金になったのか、橙耶がベッドの上に座っている私に向かって殴りかかってくる。
……が、それが当然といわんばかりに、彼の体は私をすり抜けたのみ。
「無駄よ。私に触れようだなんて、たとえ主人公のあなたでも無理なことなのよ」
「くっ……!」
私は部屋の中心にクルリと回りながら移動し、ベッドの上に倒れた橙耶を見つめながら言葉を続ける。
「それに、何だかんだであなたを助けてあげてのも私なのよ? それなのにいきなり殴りかかってくるなんて……」
「ボクがいつお前に助けられたってんだよ!」
「校舎の下に人が集まったでしょ? そのきっかけを作ったのは私なのよ」
「それのどこが――」
「まだ分からない? 奈弦も恭介も、その状況を見たおかげで、あなたが落ちそうになっていることに気付いたのよ」
「っ!」
「ね? だからあなたは、結果的に私に助けられたの。ま、あなたが死ねば世界が終わっちゃうから、仕方無しに助けたんだけど」
まさか彼があそこまでして立花を助け出そうとするだなんて、正直思ってもみなかった。
もし保険のために下に人を集めて、奈弦たちを橙耶を助けるために向かわせていなかったら……今頃この世界は終わっていた。
「だから、一方的に怒るのだけはやめて欲しいのよ」
「……あぁそうかよ。だったら良いよ、もうあんたには殴りかからない。でもな! もうボクの前に姿を現すな! 環境操作でも何でも勝手にやって良いから、もうボクの前に来るな! 話しかけるな!」
「……ま、しょうがないわね」
肩をすくめてそう言ってみせると、私は彼の前からあっさりと姿を消した。
……分かっていたことだから。橙耶が助かったのなら、こうなることぐらいは。