放課後。
今週は橙耶たちの班がトイレ、恭介と郁美たちの班が教室という分担での掃除の週。ちなみにどうでも良い事だが、廊下は教室の班が請け負うことになっている。
「ふぅ……疲れた」
その掃除とさっき受け終えた一日の授業に対しての呟きを漏らしながら、橙耶はまだ掃除中の教室へと入り、後ろに下げられた机の群れの中にある自分の机に近付き、横に引っ掛けたままのカバンを掴み取る。
「おっ、橙耶」
と、その姿を見かけた恭介が箒を片手に掃除を放り出し、橙耶へと駆け寄ってくる。
「どうだ? 今日は週始めだろ? 久しぶりにゲーセンにでもさ」
「良いね」
月曜日は郁美が英会話とピアノの習い事があるので、恭介と二人で商店街へと繰り出すのは日課になっている。
「この前は負けちまったけど、今日は勝つぞ」
「何言ってんだよ。ボクだって家でずっと練習してるんだからね。彼女にうつつを抜かしてる恭介じゃ、またボクに負けちゃうよ」
「それこそ何言ってんだか。お前の家アーケードコントローラーが無ぇだろ? オレん家は普通にあるからな。その練習成果をお前でためさせてもらうさ」
「あっ……でもちょっと待っててくれない?」
「ん? 何か用事か?」
「うん、ちょっとね。すぐに済むと思うからさ」
「構わねぇよ。どうせまだ掃除終わってねぇしな」
「そういうこと。あなたに用事があるように、私も習い事があるんだからぱっぱと終わらせる」
会話に突然混じった郁美のその声に驚き、慌ててそちらへと振り返る恭介。
が、完璧に振り向き終わる前にブレザーの首根っこを掴まれ、その声の主にズルズルと黒板の前まで連行されてしまう。
「さて、行くか」
言い訳をしている恭介を引っ張っていくその姿に一通り苦笑を浮かべた後、掃除の邪魔にならないよう足早に教室を後にする。
いつも通りなら恭介の掃除が終わるまで待つのだが、今日に限ってはそうしない。
何故なら早く行かないと、立花が帰ってしまうから。
いつも彼女と待ち合わせている場所には、恭介と遊ぶのが日課になっている月曜日には集合しないことになっている。
それが約束だから。
しかもランニングまで休みということになっているので、もし月曜日に彼女に用があるのなら、直接彼女の教室に行かねばならない。
幸いにも彼女と橙耶の掃除当番はまったく一緒。
だからすぐさま駆けつければ追いつくことが出来る。
そう思っていた。
「……いない、か……」
でも、少しだけ遅かった。
彼女達のクラスが担当しているトイレの場所の掃除は既に済まされた後だったし、教室にも寄ってみたが姿は無かった。……まぁ避けられている時点で、橙耶も少しだけそのことは予測できていたのだが……それでもこれ以外で会う方法が思いつかなかったのも事実だった。
「行動に移そうって覚悟を決めるのが昼休み前だったら良かったのにな……」
呟くようにそう自分を自虐するも、それは既に過ぎたこと。今は出来ることをしないといけない。過ぎた時間を悔やんでも仕方が無い。
それは橙耶自身も分かっているのか、いないだろうと確信に近い思いがあるにも関わらずいつもの集合場所にも駆け足で向かってみる。
……が、彼の確信通り、そこにも彼女はいなかった。
……やっぱり先に帰ったのかな、なんて思いながら、校舎を出て校門へと向かっている生徒達の後姿を見つめる。
でもやっぱり、その姿の群れにも立花はいなくて……やっぱり避けてるから走って帰ったのかな、なんて考えが過ぎる。
「……ま、仕方ないか」
誰にでもなく呟きながら、校舎を出る。
恭介の掃除が終わるのを待たなかったときは、いつも校門前の芝生に腰掛けて待つのが当たり前になっている。それは向こうも同様だ。
だから校舎を出て、その場所へ向かって歩き出す。
「……ん?」
ふと、何の気無しに校舎を見上げる。もしかしたらこの中にまだ立花がいるのかなとか、そんな考えの中、真下から見ているせいで校舎のてっぺんが空へと届きそうなその高い建物のてっぺんを、本当に気紛れで見つめ続ける。
……脳裏を、ある映像が過ぎった。
それは高いところから飛び降りる、立花の姿。
昔――何処かは思い出せないが、とても夕陽がキレイな場所で、小さな彼女と二人でいた。
子供の頃、一緒に遊んでいた頃の彼女と、その場所に一緒にいた。
その場所は、結構な高さがある場所で、飛び降りれば間違いなく死ねる場所で……そこから飛び降りる、今の立花の姿が、脳裏を過ぎった。
瞬間、イヤな予感に駆られる。体がゾクリと震え上がる。
……さっきの映像のせいもあるが、立花のことが頭から離れない。
昨日の、病室で心から弱っていた立花の姿。
あの姿を思い出すと……彼女がこのまま帰ったとは、到底思えなかった。
一昨日、飛び降りるまで弱った彼女が、このまま普通に帰ったとは、思えなかった。
それはもう、長年一緒にいるからこそ分かる、ある種“勘”のようなものだった。
……もしかして……!
校舎を見上げていると、橙耶の中でイヤな予感が形を成す。
……杞憂で終わればいい。
そう思いながら、橙耶は自分の中のイヤな予感を否定するために、校舎の中へと全力疾走で戻っていった。
◇◆◇◆◇
六階もある校舎を瞬く間に登りきり、屋上へと繋がる階段前にあるコーンバーを飛び越え、踊り場で勢いを殺さぬよう階段を駆け上がったその先。
そこには極々普通のノブ式のドアがあった。……この向こうはもちろん、この校舎の屋上となっている。
基本的に鍵は掛けっぱなしのその先は……フェンスの無い屋上。もし……もしこのドアの向こうに立花がいた場合……それはもう、手遅れになっているということ。
何て言葉を掛けるだとか、掛けた言葉を信じてもらうために行動に移るだとか、そういうのがもう、通じない段階にきているということ。
それ程までに、彼女の精神が追い詰められてしまっているということ。
死ぬことを前提としてここに来ているということ。
だからこの先には、どうか立花はいないで欲しい。
「…………」
そんな決心の元、ノブを回す。
ここで鍵がかかっているのなら、もうその心配は無い。
ただ自分が勝手に心配して、勝手に階段を駆け上っただけで済む話。体の中に疲労を残すだけで済む話。
ただ、それだけの話で終わるんだ。
「っ……!」
でも、そうはいかなかった。回したノブには鍵なんて掛かっておらず、少しだけ屋上の地面が顔を覗かせる。
……でももしかしたら、偶然にも先生が何かの用事でここに来ているのかもしれない。
そもそも立花がここの鍵を持っているはずがないのだから、その可能性の方が高いと言える。
「…………」
だから、その開いた隙間を盛大にあけ、ドアの向こうに屋上の世界を広げる。
そして一歩、踏み出す。
どうもこの出入り口は屋上の中心にあるようで、おそらく遠くにある別の建物から見れば、コンクリート広場の真ん中にポツンと、簡易トイレが建てられているような構図になるだろう。
と、その目の前の地面。
そこに日光を反射し、銀色に輝く何か小さいものを見つける。
「……まさか、ここの鍵……?」
ドアノブから手を離し、銀色に輝くソレへと近付いてしゃがみ込み、手に取る。……やはりそれは、小さな何かの鍵のようだった。
……妥当に考えるに、屋上へと通じていたあのドアへのカギだろう。
鍵穴のサイズも考慮すると、そうとしか考えられない。
でも軽く周囲を見渡しても、立花の姿は無い。
……やはり杞憂……?
……いや、違う。開いていたということは、誰かがここにいるということ。カギが目の前に落ちているということは、先生などの類ではないということ。
ならば立花でなくとも、先生以外のだ誰かがこの屋上に居るということ。
ならば……何処に?
「っ!」
そう考えたところで、また自分が冷静でないことに橙耶は気付く。
……そう、この出入り口は広場の中心。コンクリート広場の中心にある簡易トイレのようなもの。
なら、出た先の視界に誰もいないのなら――
「京田さんっ!」
――出入り口の影に隠れている、後ろの広場に彼女の姿あると言うこと。
慌てて立ち上がってそちらへと向かいながら大声を上げると、やっぱりそこには、この屋上の淵へと静かに向かっている、立花の姿があった。
「……とー、や……?」
橙耶の突然の登場に驚いているのか、振り返って橙耶を見つめるその瞳は驚愕の色。
不謹慎ながらも彼女以外の誰かで居て欲しいと思っていた橙耶の心も、同時に驚愕の色に染まる。
だが今は驚くよりも早く、落胆するよりも先に、彼女を捕まえるために一気に距離を詰めないと……!
「来ないでっ!」
そんな思いの中駆け出そうとした橙耶の身体はしかし、彼女の大声で静止する。
「…………」
その声でもう、迂闊に近寄ることは出来なくなった。立花の心がすでに不安定なことが分かっているだけに、尚更だ。
しかも現実問題、既に彼女は後一歩後ろに下がるだけで、膝裏辺りの高さまである、大地と空の境目とも言える区切りの上に、足を乗せることが出来る。
どう考えても、駆け寄るよりも早く、下へと落ちられてしまう。空へと向かわせてしまう。
いまだ広場の真ん中付近に立つ橙耶では……とてもじゃないが、間に合わない。
「また、死のうとするの?」
だから、言葉を掛ける。
死ぬのを躊躇わせるために、言葉を投げ掛ける。
「ボクには京田さんが必要なのに……またキミは、死のうとするの?」
心の底から助けたいという思いを込めたその言葉に、立花はただ、諦めたように瞳を瞑り、首を振る。そこには、悲しそうな、諦めきったような、そんな雰囲気。
「なに言ってるの、とーや。あなたはあたしなんていなくても、生きていけるでしょ? あたしなんていなくても、あなたの居場所は沢山の人に用意されてるでしょ? あたしとは違うんだから、あなたは」
「何言ってんだよ! ボクの中にも京田さんの居場所はあるよ! ちゃんとした特別な居場所が、京田さんのためだけの居場所が、ボクの心の中にはあるんだよ! だからさ、お願いだから死なないでよっ!」
「そんなの、他の誰でも埋め合わせが利くでしょ? あたしじゃなくたって、その居場所には他の誰かを埋めることぐらい、とーやなら簡単でしょ? だからもう、あたしのことは放っておいて。誰の特別にもなれない、誰にも必要とされていない、そんな中で生きていくのは、もう疲れたから」
「っ……!」
何度言っても、伝わらない。何を言っても、分かろうとしてくれない。自分の中でそうだと決め付けて、誰かの話を聞こうともしない。
少し聞いて、考えれば、今の苦しみから救われるのに……そのことにも気付かずに、ずっと他人の意見を否定し続けている。
「なんで……! なんでそんなことを、いつまでも言うんだよっ!」
そんな、ある種の勘違いをしているだけのような状況に、自分の気持ちが相手に伝わらないもどかしさに、ついに橙耶がキレた。
怒りの形相で、自らが出せる精一杯の声を張り上げる。
おそらくは、今まで生きてきた中で初めての怒り爆発。
幼馴染の立花でさえ、あまりのその光景に表情が固まる。ただ呆然と、目の前の出来事に理解が追いつかないとばかりに、瞳を丸くして彼を見つめてしまう。その怒りに染まる顔を見つめ続けてしまう。
そんな彼女の瞳を、今まで見たことも無い鋭い瞳で睨みつけ、怒りと悲しみの両方に肩が震えるのも構わず、橙耶は続ける。
「だいたい、ボクがどうとか以前に、親がお前を必要としていないはずが無いだろ! 親がお前を不要だと言うはずが無いだろっ! 帰ったら直接本人たちに聞いてみろ! そしたらお前がどれだけ恵まれてるか分かるはずだ! 自分がどんだけバカなことを言ってたのか分かるはずだ! ボクだってそうだ! お前が必要で、お前がいないと不安で、お前がいないと心にぽっかりと穴が開くんだ! その居場所を誰かで代用できる? そんなことない! ボクにとって、ボクの心の中のお前の居場所は、お前しか埋まらないんだ! お前以外が埋まったって、お前がいたおかげで広がった穴が埋まることなんて、絶対に無いんだ! 似た形を埋めたって、たくさんの人で心を満たしたって、お前のいた場所は、お前以外が入ることなんて絶対にできないんだ! 絶対に、心の中に……穴が開いたままになるんだ……! ……あぁ、くそっ! 変なこと言わせんな! 死のうとなんてするな! そんなこと言われたら……っ、死ぬとこを想像しちまって、涙が出てくるだろ……っ! こんな情けない姿っ……! 誰にも……っ、見られたくっ、無いのに……っ!」
いつの間にか怒りだけが霧散し、残った悲しみを表すかのように、頬に幾筋もの涙を滑らせる。
「……ありがとう」
……そして立花は、口からそんな言葉を漏らした。
涙を流す橙耶に向かって、柔らかな笑みを浮かべて、そんなお礼の言葉を漏らした。
「あたしのために泣いて、あたしを必要と言ってくれて、ありがとう」
心の底から嬉しそうな表情を浮かべ、心の底からのお礼の言葉を、彼に伝えた。
だから橙耶は、安心した。
もう死ぬことは無いんだと思い、安心した。
「……でも……」
そんな言葉が、聞こえてくるまでは。
「でもそれは、とーやが優しいからでしょ?」
「……えっ?」
袖で涙を拭い、彼女の瞳を見つめる。どういうことかと訊ねるかのように。
するとそこには、さっき嬉しそうな言葉を発したとは思えない、諦めたような、達観したかのような、そんな表情。
「あなたは優しいから……誰に対しても優しいから、そんなことを言ってくれるんでしょ? 別に、あたしが特別とかじゃない。あなたにとってはこんなこと、誰にでも向ける優しさなんでしょ?」
その言葉を受け、今度こそ橙耶は心に直接の衝撃をうけた。
……諦めた訳じゃない。いくら言っても聞いてくれないことに絶望した訳でもない。
ただ、気付いてしまったのだ。自分の言葉が届かないほど、彼女の心には孤独の壁が積み重なっていたのだと。
それほどまでに長い年月、ずっと、それこそ毎日のように、彼女は孤独を感じていたのだと。
そのことに、気付いてしまった。
自分は何も気付いてやれていなかったのだと。
長い年月をかけて積み重ねていた、その壁の存在を。
……なら自分は、どうすれば良い?
言葉では、彼女の孤独の壁を壊すことも、超えることも出来ない。
だから……そんなものじゃ、彼女の心まで言葉を届かせることなんて出来ない。
なら……自分の気持ちを伝えたいなら、どうすれば良い?
伝えたくても伝わらない想いは、どうすれば良い?
こんなに高く分厚い壁を越えて伝えるのは、どうすれば良い?
「それじゃあね、とーや」
答えを模索している間にも、彼女は一歩、後ろに下がる。
少しの段差を上り、後一歩で空へと向かえる淵へと、歩を進める。
「行かないでくれよっ! 頼むから!」
そんな橙耶の悲痛な叫びにも、彼女は柔らかな笑みを浮かべるのみ。
「――ごめんね」
ただ一言、風に乗せられて聞こえたその小さな呟きの後、彼女はゆっくりと振り返る。
落ちるための方向へと、体を向ける。
「っ!」
瞬間、橙耶は駆け出した。立花を助けるために、無我夢中で走り出した。
彼女のその体を、淵から向こうへと持っていかせないために、彼女に向かって駆け出した。
……だがやはり、間に合わない。
そのことは彼女も気付いているのか、近付いてくるその足音の中でも、ゆっくりとした動作で、首だけを橙耶へと向ける。
「バイバイ」
そしてそう、無理矢理作った笑顔で一言だけ告げると同時、首を再び前へと向けると同時、彼女の体は淵の向こう側へと向かって、大きな一歩踏み出していた。
落ちていく体。淵の向こう側へと飛んでいく、立花のその体。
地面に吸い寄せられるように消えていく、立花のその姿。
「っ!」
そうなる前に、彼女が一歩を踏み出した瞬間、橙耶はヘッドスライディングの要領で姿勢を低くし、前へと飛び込む。
そして落ちていく立花のその体を、両腕を伸ばして腕を取ることで何とか繋ぎ止める。
……間に合った。落ちる前に、彼女の手を取ることが、出来た。
「ぐっ!」
「えっ?」
段差の角と根元に打ち付けた胸と膝の痛みで悶える橙耶の声と、落ちるのが止まったことに動揺する立花の声が同時に上げられる。
「うっ……!」
塀として存在する段差から上体を投げ出すように身を乗り出し、落ちていこうとする手を何とか握り締めているこの状況。
右手で彼女の手を繋ぎ、左手で彼女の腕を取った。腰から上全てを向こう側に曝け出してしまうほど身を乗り出した、そんな不完全な体勢で、何とか空へと向かう、大地へと向かう彼女の体を、繋ぎとめることが出来た。
……いつ根負けして、手を離してしまってもおかしくない。しかも体勢が不完全すぎる故、彼女の体を引き上げることも出来ない。ただ、日頃鍛えていたおかげで何とか今支えていられているに過ぎない、そんな体勢で、繋ぎとめることが出来た。
「どうして……どうしてそこまでして助けるの!?」
驚きの表情を向けながら表情通りの声を投げ掛けてる立花を見つめながら、どうすれば良いのかを、冷静なもう一人の橙耶が考えている。
どうすれば彼女を助けられるのかを、必死に考えている。
そんな中、校門へと向かっていた生徒の何人かがこの状況に気付いたのか、下ではこちらを指差しながら軽い騒動になっているようだった。
ザワザワとした雰囲気が遥か上のこちらにまで伝わってくる……ような気がする。
……もしかしたら、このままずっと堪えていれば、彼女を助けることが出来るのかもしれない。
消防隊とかそういう類のものを呼んできてもらい、助けることが出来るかもしれない。
「っ……!」
そう思いつくものの、いい加減腕が痺れてきた。自分の身体の限界だ。いくら鍛えていようとも、消防隊の類が来るまでというのは難しい。このままだと二人が落ちてしまうことになる。
何とか彼女だけでも助けられないかと……――
――……そこまで考えた時、橙耶は閃いた。
と言うより、気が付いた。
どうすれば良いのかを。どうすれば彼女を助け、彼女のことをどれだけ大切に思っているのかを知ってもらえるのかを。
「……そうだりっちゃん……ボクがさ、どれだけキミの事を特別に思ってるのか、証明してあげようか……?」
問いかけるような言葉だが、なんて答えようとも実行に移す。
そのことが伝わる、覚悟を含めたその言葉を告げると同時、掴んでいた彼女の手と腕を強く握り締める。
「えっ?」
「こんなの、大切に思ってる人じゃないと、さすがのボクもやってやれないよ……?」
驚きの中、疑問を口にする彼女のその腕を、一言付け加えると同時に引き上げる。
不完全な体勢で、引っ張り上げられないはずの彼女の体を、放り投げるように引っ張り上げる。
そのせいで、自分の体が淵の向こう側へと持っていかれる。
でもそんなこと、気にもしない。
体を反転させるその勢いを使って、無理矢理にでも彼女を引っ張り上げるつもりだったから。
「えっ……?」
何が起きたのか理解できないのか、驚くような立花のその声。
そんな中、二人の位置が、入れ替わる。
上と下、塀のこちら側と向こう側、大地と空、地面と空中、生き行く者と死に行く者……。
橙耶と、立花。
二人の位置が、入れ替わる。
橙耶が下に、立花が上に。
橙耶が向こう側に、立花がこちら側に。
橙耶が空に、立花が大地に。
橙耶が空中に、立花が地面に。
橙耶が死んで、立花が生きて……。
その一瞬の光景の中で、橙耶と立花、二人の視線が合う。
そして橙耶は、静かに笑みを浮かべる。
これが何よりの証明だよと言わんばかりの満面の笑みを、その顔に浮かべる。これから死ぬとは思えない、身代わりになって死ぬことになったとは思えない、その達成感に満たされた静かな笑み。
そんな表情を見て、立花は今更ながらに、気がついた。
自分の愚かさに。
彼の本当の、暖かさに。