翌日の朝になっても、自分がとるべき行動が分からない。

 

 彼女を助けたいがためにかけていた言葉が、結果的に彼女を絶望の淵へと追いやった。縋っていたその言葉が何かは分からないが、何かしらのキッカケでソレが取り除かれてしまったのは確か。

 

 ならば今、どうすれば彼女を助けられるのか……?

 ……分からない。

 もしその縋っていた言葉と同じような言葉を投げ掛ければ、再び取り除かれてしまうのではという恐怖が心の中を燻って、今までと同じように縋ってはくれない。

 もし別の言葉を投げ掛けて縋ってくれたとしても、また何かしらのキッカケで取り除かれてしまったら……今度こそ彼女は、生きてくれないかもしれない。

 

 だから、その場だけの言葉じゃダメなんだ。行動を起こして彼女を助けないといけないんだ。

 ……でも……その前に、彼女自身がまた死のうとしてしまうかもしれない。

 昨日のあの叫び方から察するに、既に精神は限界に来ている。

 あれだとまた、いつ同じ行動を起こしても、おかしくはない。

 でも、今すぐ行動を起こしても、彼女の精神崩壊よりも早く助けられる保証なんて……まったく無い。

 

 いやそもそも……ボクのこの優しさ自体が、彼女にとっての負担になっているのでは無いだろうか……?

 言葉を投げ掛けること自体、間違えているのでは無いだろうか……?

 

「……どうかしました? 橙耶先輩?」

 

 登校路にも頭を悩ませていたのが読まれたのだろう。隣を歩く美咲から訊ねられる。

 

「いや、別に。ちょっとね」

 

 でもここで相談して美咲に気を遣わせるのもなんだし、何より立花個人の悩みを本人の許可無く喋るのは気が引けるので、とりあえず誤魔化しておく。

 

「朝霧さんが気にするほどのことでもないよ」

「ちょっと……ですか……良ければ、話してくれませんか?」

「いや、その、ホントに大したこと無い内容なんだ」

「もし本当に大したことの無い内容なんだったら、話してくれても良いんじゃないですか?」

「あ〜……その、あれだよ。あまりにも大した内容じゃないから、話すほどでもないってことだよ」

「でも橙耶先輩、本当にそれだけ大した内容じゃないのなら、今頃悩んでいないんじゃないですか?」

「……あ〜……う〜ん……でもねぇ……」

「お兄ちゃんの負けじゃないの?」

 

 と、今度は反対側を歩く妹からの声。

 

「良いから、相談してみりゃ良いじゃない。せっかく聞いてくれる人がいるんだからさ、一人で抱え込まないの」

「でも……」

「それに、あたしはあんたの抱えてるものを一緒に抱える気無いのよ? だったら、抱えてくれる人が買って出てくるんなら、少しでも抱えさせてあげなさい。それもまた優しさだったりするのよ」

「……そうかなぁ……」

「ま、あんたの優しさとは方向性が違うかもしれないけど」

 

 妹からのその言葉に、人物を特定されないような相談なら大丈夫かな、なんて気が起きる。

 相談しても気を遣わせないのなら話しても良いかな、なんて思いが過ぎる。

 ……いやそもそも、悩んでいることは自分がどう行動すれば良いのかであって、それなら別に立花のことを話さなくても相談できるじゃないかと、ようやく思い至る。

 ……そんなことにも気付けないほど悩んでいたのかと気付き、それだけ悩んでも答えを出せていないのかと思い、そもそもこのまま一人で悩んだままで答えが出なかった時の方が一番ダメだということに至る。

 

 だから深呼吸をし、頭の中を整理しながら、それじゃあ聞いて欲しいんだけど、と美咲に話しかける。

 

「今ちょっとね、自分がどうしたら良いのかがよく分かってないんだ」

「自分がどうしたら良いのか、ですか?」

「うん。ちょっと……友達がとっても悩んでてね、それで、ボクなりに励ましたんだ。でもその子にとってその励ましは苦痛でしかなくて、その痛みが限界に達したから、死のうとしちゃったんだ……」

「ただでさえ頑張ってる人に“頑張って”って言っちゃったようなもんですか?」

「まぁ、そんなところかな」

「…………」

「だから、どうして良いのかが分からない。言葉を投げ掛けるのがダメなのなら、言葉を投げ掛けなかったら良い。でもそうなると、またその人は死のうとしてしまうかもしれない。なら行動を起こせば良い。その人が死なないために、言葉を投げ掛けても無駄に終わるのなら、死なないために行動すれば良い。……それは分かってるんだけど……でも、何をしたら良いのかがまだ分からないんだ。何よりわかったところで、もう既に手遅れだったら話にならない訳で……」

「なるほど……」

 

 橙耶の説明に対して顎に手を添えてそう呟いた後、すぐさま、とりあえず、と一本指を立てて告げてくる。

 

「無駄だと思っていても、言葉は投げ掛け続けてください」

「えっ? でも朝霧さん、それが向こうの死ぬ原因にもなるんじゃ……」

「励ましの言葉とかどうして死のうとしたのかとか、そういうのが分からないんで何とも言えないんですが……でもとりあえず、橙耶先輩の言葉で死ぬなんてことはないと思います。もし言葉を投げ掛けて死んだ場合……その時はたぶん、言葉を投げ掛けなくても死んでると思いますし」

「どうしてボクの言葉なら死なないだなんて思うの?」

「正直言うと、なんとなくです。今までずっと、こうして橙耶先輩と一緒にいるからこそ思うだけな、ある種の身内贔屓みたいなものです。でも……言葉を掛け続けたほうが良い、って言うのには、ちゃんとした根拠があります。早々に行動を起こさないと死ぬかもしれない、って橙耶先輩が言うほどその人が追い詰められてるなら、きっと言葉を掛けても掛けなくても無駄なんだと思います。でも、言葉を投げ掛けていれば、もしかしたら死のうとするのを躊躇ってくれるかもしれないじゃないですか。言葉を掛けていないと確実に死ぬのに、言葉を掛けているだけで生きてくれるかもしれない可能性が出てくるじゃないですか。たとえ“頑張れ”って言葉で相手を傷つけるとしても、言葉をもらえる程度には自分のことを意識してくれているってことになるんですから」

「…………」

「何もしないよりかは何かをする。そうでしたよね? 橙耶先輩」

 

 問いかけるような美咲のその言葉に、橙耶は心の中に広がる懐かしさを感じた。懐かしさという暖かさが広がってくるのを、静かに感じていた。

 何故ならそれは、美咲と初めて出会った時にかけた、橙耶自身の言葉だったから。

 人見知りが激しくて、誰かと仲良くなれる自信が持てなくて、中学時代と同じ、友人のいない高校生活を思い描いてしまっていた彼女にかけた、橙耶の言葉だったから。

 

「それに橙耶先輩なら、きっと言葉を掛けてそのままってことは無いですよ。言葉を掛けて、もしその人がちゃんと生きていくと約束しようとも、あなたはその後に、その人を助けるための行動に移る。一時的な助かりで止まったりなんてしない。言葉だけ投げ掛けて後は放って置くなんてことはしない。……私もそうして、優衣ちゃんと仲良くさせてもらってるんですから」

 

 それは、橙耶に励まされ、橙耶と友人になった後の話。

 自分が友達になると言った後、彼は自分の妹を連れて紹介してきた。あくまでも、友人なのだから妹を紹介するのは当たり前、といった感じの空気で。

 ……それがお節介だと言う人もいるだろう。でも美咲にとってそれは、とても嬉しいことだった。自分のことを気にかけてくれている、上辺だけの言葉で済まそうとしていない、その何よりの証になったから。

 

「だから橙耶先輩、まずは言葉を投げ掛けて続けてください。最初にすべき行動は、たぶんソレのはずです。そしてその後に、どうすればその人を助けることが出来るのかってことを、考えてください。……まぁ、さすがにその答えまでは、もっと詳しく事情を聞かないと私には答えられませんが」

 

 言って、微笑んでくれたその表情には、頑張ってください、と励ましてくれているような気がした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 とりあえず、言葉を投げかける。

 それは良い。

 その言葉を足止めにして、行動を起こすための時間を稼ぐ。

 美咲の言う通り、それで良い。

 でも問題は、その言葉を信じてもらうにはどうすれば良いのか、だ。

 

 言葉を投げ掛け続ければ良いのは分かっている。

 でもその効果が無ければ、結局彼女を死なしてしまうことになる。

 だから、少しでも効果的な言葉を投げ掛けるべきなんだろう。死を躊躇させる言葉を投げ掛けるべきなんだろう。

 でも……今まで彼女はずっと、ある一つの言葉に縋ってきた。

 しかもボクの、だ。

 その彼女が縋っていた言葉以上の言葉があるとは、到底思えない。

 ボクが発して効果が現れるとは、到底思えない。

 じゃあ結局、どうすることも出来ないのか……?

 何もしないよりかは何かするけど、効果が出ないんじゃ意味が無いんじゃ……。

 

「こぉらっ」

「いたっ」

 

 と、考え事をしていた橙耶の額に小さな衝撃。

 視点を少しだけ上げてみると、そこにはデゴピンを放った後の形をした手があった。

 

「食事中に考え事なんて……らしくないわよ」

「……すいません」

 

 手を下げながらの奈弦の言葉に謝りながらも、結局はまた授業中と同じで、同じ考え事に思考を張り巡らせる。

 

 時刻は昼休み。考え事をしているとあっという間に過ぎ去った四時間分の授業。

 その時間の大切さを噛み締めながらも、昼休みになっても相変わらず答えの出ない思考を橙耶は続けている。

 

「ふぅ……その調子だと橙耶くん、今日の授業集中して聞けなかったでしょ?」

「えっ?」

 

 再び掛けられたその横からの言葉に、お弁当を食べている奈弦へと首を向ける。

 

「どうして分かるんですか?」

「分かるわよ、少し考えればね。でもそんなに集中して何かを考えるなんて、あなたにしては珍しいじゃない。なに? 悩み事?」

「……まぁ、そんなところです」

「ふ〜ん……良かったら相談に乗るけど?」

「いえそんな……大したことじゃないので……」

「大したことじゃないのにそんなに悩む訳ないでしょ……なに? 私に気を遣ってるの?」

「いや、そんなことも――」

「あるのね、その反応だと」

 

 気付かれたことに橙耶は内心驚くものの、表情には出さないよう平常を保とうする。

 

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「橙耶くんの反応見てたら分かるわよ。表情に出していないつもりでしょうが、他の場所でウソついてるって分かるもの」

「そんな訳ありませんよ。ボクは至って平常です」

「橙耶くんがウソついてる時ってね、右足でビートを刻――」

「刻んで無かったですよね!?」

「――んでない。そう、ビートなんて刻んでない。ホントはね、薬指をブヨブヨになるまでしゃぶ――」

「しゃぶってませんっ!」

「――って無い。そう、しゃぶってなんて無いよね」

「一体何がしたいんですか!」

「あなたの悩みをほんの一時でも良いから忘れさせたかったのよ」

「えっ……?」

「どう? 少しは心の中、風通しが良くなった?」

「あ……」

「ま、一つのことばっか悩んでるのはダメなことよ。それだけ悩んでるってことは時間にも迫られてるんだろうし、気分転換ってのも無理なんでしょうけど……でも、こうして誰かと話して心を入れ替えてみないと、見えるものも見えなくなるわよ。これ、会長からのアドバイス」

「あっ……ありがとう、ございます……」

「じゃ、お礼を言ったところで態度で示してもらおうかな。私に気を遣うとか遣わないとか、そんなのを抜きにして、何について悩んでるのか話してちょうだい」

「……それは……」

「気を遣ってること以外にも言い辛いことがあるのなら、その部分も省いて大丈夫。ただ、あなたが何について悩んでいるのかを教えてちょうだい」

 

 ここまでされては話さない訳にはいかない。

 橙耶は諦めたようにため息を吐き、言葉を整理しながら続ける。

 

「どうも自分の行動のせいで、ボクの言葉を信じてもらえないみたいなんです。でも信じてもらえないと、その人は死んでしまうかもしれない……そんな状況です、今は」

「死ぬかもしれないって……それはまた穏やかじゃないのね」

「はい。だから悩んでるんです。ボクの言葉を信じてもらうのはどうすれば良いのかな、って」

「う〜ん……そうねぇ……」

 

 箸を握った手を人差し指を立てて顎に当て、天井を見つめながら少しだけ唇を尖らしている、そのいつもより子供っぽい仕草の中何かを考える奈弦。

 でもそれも一瞬で、橙耶が見惚れる間もなく腕を降ろし、自分のお弁当のおかずを箸で摘んで一つ口に運ぶ。

 

「とりあえず、言葉を信じてもらえないなら行動するしか無いんじゃない?」

「行動、ですか?」

「そ。行動ね」

 

 咀嚼し終えた口の中を洗い流すようにお茶を一口飲み、続ける。

 

「自分の言ってる言葉が本当だと信じてもらうために行動を起こす。それが一番手っ取り早く、かつ一番信じてもらえる方法じゃないかしら」

「行動って……具体的には? そもそもそれがよく分からないんですが……」

「あら、そうなの? と言っても、具体的って言っても簡単なことよ。大切だと思ってるなら抱きしめれば良いし、助けたいと思ってるなら手を繋げば良い。ただそれだけよ」

「それだけ、ですか?」

「そ。それだけ。言葉を信じてもらえないなら、そういう簡単で直接的な行動のほうが分かってもらいやすいものよ」

「でも……それって結構、恥ずかしいですよね?」

「まぁね。でも、それぐらいしてでも助けたい相手なんだとしたら楽勝でしょ? 本当に死んで欲しくないんなら、それぐらい跳ね飛ばさないと」

「……確かに、その通りですね。ありがとうございます。ちょっと、やるべきことが見えてきました」

「ま、私はあなたの言葉のおかげで歩むべき道を見つけられたからね。その恩返しみたいなものよ。お礼を言われるほどのことじゃないわ」

「それでも、ありがとうございます」

「……ま、お礼を言うのは自由だから受け取ってあげるけど、いい加減お弁当を食べ始めたら? 開けてから一口も箸をつけてないんだし」

「あっ、本当ですね。と言うか、結論が出たらお腹空いてきました」

「それじゃあ早く食べなさいな。時間、無くなるわよ?」

 

 照れたように言った橙耶の言葉にそう返事をしつつ、窓の外を眺めることでお礼を言われて赤くなった頬を誤魔化した。