「結局京田さんには会えなかったか……」

 

 荷物持ちを終えた後、もう一度立花の家を訪ねたのに出会えなかった橙耶は、商店街を二時間以上捜索した後帰宅し、疲れきった言葉を漏らしながらベッドにダイブした。

 部屋にはすでに夕陽が射し込んでおり、昼には家を出た彼がどれだけ彼女を探していたのかを如実に知らしめてくる。

 

「もう行ってない場所は無いの?」

「無い! ……と思うんだけどなぁ……」

 

 私の問いにも疲れきった声音で答え、そのまま「う〜〜ん」唸りながらベッドの上をゴロゴロと往復する。

 

「京田さんが行くと思う場所も全部回ったし、行かないと思う場所も全部回った。こんなにしてまで会えなかったらもう避けられてるとしか思えないよ……ってまぁ、あんなに広い商店街で会おうとするのが奇跡に近いのかもしれないけどさ」

 

 誰にでもなく呟きながら、あぁ〜、と仕事から帰ってきたオヤジのような似合わない声を上げる。

 

「こんなことなら、迷惑とか考えないで、帰りにもう一回京田さんの家に行っとけば良かったかなぁ……」

 

 どうやら今日の行動を反省し、明日に生かす気みたいだ。言葉の後に何かをブツブツと呟きながら、深く思考に潜り始めようとする。

 

 そんな彼を見据えながら、あたしは告げた。

 

「橙耶くん、私しばらくの間、あなたの前に現れないから」

「……え? どうしてですか?」

 

 思考を一時停止し、私に向き直って言葉の真意を確かめようとしてくる。そんな彼の瞳を静かに見据えながら、続ける。

 

「どうして、って言われてもね……理由はまぁ、そろそろ分かることになるわ」

「理由が分かることになる?」

「そ。ま、現れない期間は、色々と悶着が終わるまでの間、かな? まぁ環境操作は続けさせてもらうから、結局あなたが誰かと付き合えるとかじゃないんだけど」

「……じゃあ、どうしてわざわざそんなことを言ってくるんですか?」

「言っといた方が、あなたに無駄なスタミナを使わせないからよ」

 

 そこまで告げたところで、下の階にある家電話の音が鳴り響く。今は家に彼しかいないので、彼が取りに行くしかない。

 

「あっ、ちょっと待っててください。詳細は電話の後にでも――」

「いいえ。もう、出て行くから。気にせず電話の対応でもしてて」

 

 その電話でどうしてあたしがいなくなるのか分かることになるだろうけど、なんて言葉は呑み込み、一人勝手に窓から外へと飛び出す。

 後はそのまま、この空の上を浮くように飛び去る。

 

 ……彼の元へと掛かってきた電話。あれはそう、立花の母親からの電話だろう。

 今日だけで二度、橙耶が訪れたことを妹から聞いた母親は、間違いなく彼に連絡を入れる。病院から来た連絡を、そのまま彼に伝える。彼女が起こした行動の原因を知っているのではと思い、連絡を取ろうとする。

 昔から懇意にしていたのも手伝って、絶対に……。

 

 ……立花が飛び降り自殺をしようとした、その内容の電話を。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 翌日のお昼過ぎ。橙耶は電車を乗り継いで、ある場所へと向かっていた。それは昨日、立花が入院していると教えられた病院。二駅ほど乗れば見えてくる、近くにある大きな病院。

 

 昨日、立花の母親からかかってきた電話。その話によると、立花は飛び降り自殺を試みたものの、どうやら命に別状は無いらしい。

 風に流された体は近くの木へと向かい、そのおかげで衝撃を吸収しながら落ち、しかも近くに住む人が立花の飛び降りる姿を見かけたらしくすぐさま救急車を手配してくれたので、目立った外傷は無いとのこと。

 強いてあげれば全身を強打したぐらいで、今回の入院もあくまで念のための検査入院らしい。もし昨日行った精密検査で異常が無ければ、今日の夜にでも退院するらしい。

 

「…………」

 

 橙耶自身も何度か来たことがあるおかげか、場所は把握してある。後は受付で部屋番号を聞き、そこを訪れるだけだ。

 

「…………」

 

 八階の六号室。そこに入院されていると教えてもらった橙耶は、受付の人にお礼を言った後エレベーターへと一人で乗り、八階を押す。

 そして持ってきた二千円ほどの花束を大事そうに抱えたまま、ここにくるまでの間ずっと考えていたことを、再び考え始める。

 

 それは昨日、神であるあの人が目の前から消えたこと。当分の間現れなくなると宣言したこと

 。その時に、すぐにそんなことをする理由は分かると言った、あの言葉のこと。

 それらのことを彼は、昨日からずっと考えている。

 

 そうして導き出される結論は、結局のところ一つ。

 行き着くところは、何度考えても一つだったのだ。

 

 彼女こそが、立花を飛び降り自殺へと追い込むように環境操作をした。

 その一つのみだった。

 

「……ボクに不幸なことはしないはずだったんじゃないのか……?」

 

 でもその結論に達するたびに、その言葉が頭の中で再生される。

 だからこそずっと、一つの結論に辿り着くのに、考えているのだ。彼女の行動の意味は何なのかを。

 

「……ホンット、神様の考えることは分からないよ……」

 

 ため息を吐きながら、コツンと、エレベーターのドアに額を当てる。そうすることで答えが閃くわけでもないのだが、とりあえず気持ちの切り替えはすることが出来た。

 

 チンっと、八階に着いた音が静かに鳴り響く。

 気持ちの切り替えが出来ていたおかげか、ドアから出て来た彼の表情に迷いは無い。

 せっかくお見舞いに来たのに暗い顔をしていてはダメだ。だからこそのさっきの気持ちの入れ替えなのだから。

 

「失礼します」

 

 六号室の閉まったドアをノックし、改まるようにして病室の中に入る。八階は個室部屋ばかりだったのはこの部屋に来るまでに気付いていたので、もし部屋の中に立花の家族がいた場合のことを配慮しての行動だ。

 

「…………」

 

 だがその配慮は無駄で、病室の中にはポツンとしたベッドの上に座り、ドアをスライドさせた橙耶を静かに見つめる病衣のままの立花がいるのみだった。

 

「あれ? ……京田さん、一人?」

「うん。良ければ入って」

 

 いつもより覇気の無い声に促されるように部屋へと入る。

 

「座って」

 

 言葉とは裏腹な命令口調でないその言葉に導かれるように、小さく指差されたベッドの横に置かれているパイプ椅子へと、自然と閉まっていくドアのスライド音が響く中歩いていく。

 

「…………」

「…………。……えっと……」

 

 座ったは良いものの、向こうもずっと無言なので気まずくなる。

 と、今だ手に花束を持ったままなのを思い出す。

 

「そうだっ、これ、お母さんからお見舞いの花束。活けるから、花瓶とか――」

「大丈夫。どうせ今日帰るつもりだから。そのままもらって帰るよ」

「そ、そう……」

 

 また無言になるのがイヤだったので、何とか必死に話題を探す。

 

「……そ、そう言えば個室なんだ」

「うん。お母さん達が、一日だけなんだから満喫しなさいって、わざわざ個室にしてくれたの」

「そ、そうなんだ」

「……まぁ本音は、死のうとした心の整理でもして欲しいんだろうけど」

「あっ……」

 

 あえて触れようとしなかったことに、立花自身が触れてきた。

 思わず気まずくなって視線を逸らしてしまう橙耶に、立花はむしろ余裕のある笑みを作る。

 

「筧くんも、そのことを訊きに来たんでしょ? どうして、あたしが死のうとしたのかを」

「…………」

 

 お見舞いが一番の理由だけど、聞きたくないと言えばウソになる。そのことに対してどう答えて良いか分からず、思わず無言になってしまう。

 

「良いよ、教えてあげる」

 

 その無言を肯定と取ったのか、立花はどこか疲れを感じさせる笑みを浮かべたまま、自らの心情を吐露し始める。

 

「……アタシってね、子供の頃から誰にも必要とされてないの。お母さんにも、あの父親にも、妹にも友達にも……皆、あたしのことなんて必要としていない。そりゃアタシは、何か特別なことをした訳でもない。だからそれは当然のことなんだけど……でもね、子供の頃からずっとその真実を突きつけられて生きていくのが、もういい加減疲れてね……しんどいの。辛いの。だから、死のうとしたの。もう、こんなこと考えなくて済むように。考える必要なんてなくなるために」

「そ、そんなこと無いよ! だってボクは、京田さんのこと必要だって思ってるし、きっと他の皆だって……!」

「……筧くんならそう答えると思ってたよ……だってあなたは、優しいから」

「……えっ?」

「優しいから、誰も死んで欲しくないから、皆を幸せにしたいから、そんな優しい言葉を投げかけてくるんだよね?」

「そんなこと――」

「無い、って言い切れるの? 言い切れないでしょ? ただ、目の前で困ってる人を助けたいからそんな言葉を投げかけてるだけだって、ホントは気付いてるんでしょ? 本心からの言葉じゃなくても、その人が助かるなら良いって思ってるんでしょ?」

「…………」

「……別に、それが悪いことだなんて思わない。目の前で困ってる人を助けたいと思うのは、何よりも優しい証拠だもの。そのことを責めるつもりは無い。むしろあたしとしても、ずっとそのままのあなたで生きていって欲しいもの。その、優しいあなたのままで」

「…………」

「でも、その優しさに縋って、生きる目標にして、ずっと頑張って生きてきたのに裏切られたら、もう生きていけないよね?」

「えっ……?」

「あなたの最も近い居場所は、アタシじゃない。あなたにとってアタシは、あくまで友人と同じ位置づけにいる大切な人。だから、あなたに最も近い場所には、アタシの居場所なんてない。……そんなことも気付かないで、アタシはずっと、あなたに最も近い場所こそがアタシの居場所なんだと思って生きてきたの。そう思うことこそが、アタシが唯一縋れるものだったの。……だから……違うって気付いちゃったから、もうアタシは、生きていけない。ただ、それだけなの」

 

 つまり彼女は、ただ誰かの特別になりたいだけだったのだ。誰かに必要とされるための居場所にいたいだけ。親でもなんでもいいから、誰かの大切な、特別な、必要とされる人になりたいだけだったのだ。

 そのための居場所にいたい。ただ、それだけだった。

 

 それらのことに気付いてやれなかったことに、橙耶は今更だなと、後悔する。でも同時に、今更だと気付けた今だからこそ、取り戻すことも出来ないのかと、そうも思う。

 

「でもボクにとって、立花は特別なんだよ! 小さい頃から一緒に遊んでたし、ずっと一緒にいたし、だから立花は、ボクにとっては特べ――」

「でもそれは! 友人という囲いの中で特別に囲われた場所なだけでしょ!?」

 

 言葉を遮る、その涙を浮かべながらの立花の叫びに、思わず声を止めてしまう。

 

「アタシが欲しいのはそんなのじゃない! アタシの欲しい居場所は、そんな囲いの中じゃないっ! アタシだけが存在する、ただアタシのためだけの特別な居場所が欲しいの!」

 

 子供の頃から、誰にも必要とされていないのではという脅迫概念に駆れていた彼女だからこその、その願望。親から無償の愛を受けているという、その思いに満たされていないからこその、その願い。親から無償でもらえる、「子供」という特別な居場所をもらえていないと思っている彼女だからこその、その望み。

 

 ぽっかりと、心の中に空いている愛情を受け止める受け皿。その空っぽな中身を満たして欲しい。特別な存在として、満たして欲しい。

 それが今の……昔からの、彼女の想いだった。

 

 でも、いつまでも満たされないから、受け皿を差し出し続けるのに疲れた。

 だからもう腕を降ろして、静かに朽ち果てよう。要は、そういうことだったのだ。

 

「……――って」

「え?」

「帰ってって言ったの! もう良いから! そんな優しさ、もういらないからっ!」

 

 自分の内情を吐露し、それでも尚自分を助けようとしてくる橙耶。

 あくまで平等な優しさで、特別な優しさを向けることも無く助けようとしてくるその態度に、さすがの彼女も限界がきたのだろう。

 ただでさえ死のうとしてしまうほどの、危うい精神だったのだ。今まで保てただけでも良かったほうだ。

 

「でも……」

「良いから! もう良いからっ!」

 

 さらに何かを言おうとした橙耶の言葉を、浮かべていた涙を撒き散らしながら遮るその言葉には、さすがに従わない訳にもいかず……橙耶は静かに立ち上がり、その病室の中を立ち去った。

 

「うっ……! うっ、うっ……!」

 

 部屋に残されたのは、涙を止めようと必死になる、一人の少女のみだった。