「それじゃあボクも行ってくるよ! お母さんもパート、気をつけてね」

 

 奥からの行ってらっしゃいの言葉に背中を押され、クロのTシャツの上に白のシャツを羽織っただけの私服姿で家を出て行く橙耶。

 

 午前の授業を終えた土曜日、昨日今日と放課後になって現れない立花をさすがに心配した橙耶は、直接彼女の家へと向かおうとしていた。

 別にこれが特に何も無い日常なら、橙耶も気を遣わなかっただろう。でも今は、例の自称神様のこともある。

 何より一昨日、夜に言われた言葉が気になっていた。

 

「一昨日に、明日になれば分かる、って言ってたんだから、間違いなく京田さんのことだよね……?」

 

 一昨日に明日……それはつまり昨日のこと。そして昨日は、立花が放課後に待ち合わせ場所にいなかったこと以外は、極々普通の日常だった。

 ならば神様の言っていた「起こした行動」とはこれのことだと見るのが妥当だろう。鈍い橙耶でも、さすがにここまで言われたら違和感に気付く。

 

「……んむぅ」

 

 それに、彼とて何も考えていない訳ではない。直感力や洞察力に疎くても、考えれば分かることはある。だから昨日、彼は必死に考えた。

 

 立花に何かをさせることで、自分を幸せにさせないようにしようとしている。それが神様の意思だ。でもこの世界で神様は、あくまで主人公である自分――この筧橙耶は動かせない。

 動かせるのは、主人公である『自分』以外のみ。それはつまり、自分だけがその何かされようとしている立花を、助けることが出来ると言うこと。

 

 だったら……自分がやるべきことは一つ。誰かと付き合いたい自分がするべきことは、ただ一つ。神様の思惑から外れるために、立花を助けること。

 ソレを建前にして、自分の大切な幼馴染を助けること。自分の不幸せのために犠牲になりかけている、大切な幼馴染を救うこと。

 

「難しいけど……今ボクが出来るのはコレぐらいだ。……絶対に、あの人の手のひらでなんて踊ってやるもんか」

 

 一人意気込むように呟きながら、胸の前で両拳を握りこむ。それだけで何故かやる気が出てくるから不思議だ。

 

「さぁ……がんばるぞ」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「さぁ……困った」

 

 出たやる気はあっさりと消沈していた。

 立花の家を訪れたまでは良かった。が、まさか留守だなんて誰が思おうか。

 

「はぁ……上手くいかないもんだなぁ……」

 

 呟きながらも、近くの商店街へと足を運ぶ。橙耶に応対してくれた立花の妹曰く、近くの商店街に買いたいものがあるから出掛ける、と言っていたらしい。だからまだ諦める気の無い橙耶は、この商店街に足を運んでいた。

 

「でも……ここで見つけられれば済むだけの話だ」

 

 とは言っても、この商店街は結構広い。

 比較的田舎に分類するこの地域には、全てが揃うデパートなんてものが近くにない。行こうと思えば電車で二十分ぐらいの時間を有してしまう。だから地元の人達や学校帰りの生徒達は、大抵この商店街を利用する。

 なんせスーパーもあればCDショップもあり、ファーストフード店もあればゲームセンターや映画館もある。しかも橙耶が今立つ出入り口の反対側付近では、昔懐かしい八百屋や小型の電気店、駄菓子屋など趣のある店もあったりする。そうした二つの色が均等にあるおかげか、この商店街に限っては「廃れている」なんて言葉は似合わない。今でも現役、最新製の商店街なのだ。

 

「はぁ……でもホント、結構大きいんだよね、ここって」

 

 自分もよく利用するだけにその長さは身に染みている。だからこうして入り口に立ち、歩いている色々な人の中から目的の一人を見つけないといけないことを思うと、ちょっとだけ気が沈む。

 でも……諦めたくないのなら、気を奮い立たせて頑張るしかない。

 

「ふぅ……よしっ」

 

 再び胸の前で両拳を握りこみ、気合を入れる。そして橙耶は商店街の中を、立花一人を探し出すために闊歩し始めた。

 

「……ん? あれは……?」

 

 と、探し始めたところで見知った後姿を見つける。スーパーから出てくる、私服姿の一人の女性。

 毎日顔をあわせていたその人に向かって、橙耶は声をかけるために駆け寄った。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「困った……」

 

 一人、筧家の玄関前で呟く私服姿の立花。パンツルックのボーイッシュな格好をし、ポケットの中に親指を突っ込んだその表情は本当に当惑していた。

 家を出て、橙耶の家に来たまでは良かった。が、家に誰もいないとは誰が予測しただろうか。

 近くの商店街に買い物に行って来る、なんて嘘をついてまでここにきたのに……これでは無駄足だ。

 

「う〜ん……とりあえず、商店街にでも行ってみようかな……」

 

 考えを纏めるように一人呟きながら、とりあえず商店街目指して歩みを進める。

 別に、無計画に商店街へ行こうとしている訳ではない。橙耶の父親が出張中なのは下校道で聞いていたから知っているし、母親がパートに行っている事も聞いているので知っている。まさか今日出勤だとは思っていなかったが……。

 妹の優衣ちゃんは何処に行っているのか知らないが、友人と遊びに行っていると見て間違いない。それで肝心の橙耶は、もし誰かと遊ぶ約束をしていれば商店街にはいないだろうが、もし気紛れで出掛けたのなら、十中八九商店街にいるとみて間違いない。

 何故なら用事が無く彼が出掛ける時というのは、買い物以外に有り得ないからだ。それで近くで買い物できる場所は……あの大きな商店街しかない。

 

「子供の頃からあそこに良く行ってたしねぇ……」

 

 少ないお小遣いを握り締め、商店街の中にある駄菓子屋に行ってたなと、そんな懐かしいことを思い出す。

 ……思えばその頃から、立花は橙耶のことを想っていたのかもしれない。好きだという気持ちに、心が支配されていたのかもしれない。

 

「…………」

 

 そのことに立花自身も思い至ったのか、一人勝手に頬を赤くする。……まぁ、それもムリは無いのかもしれない。

 そんなことに思い至ってしまったり、思い至って照れてしまうのは、仕方が無いのかもしれない。

 

 だって彼女が橙耶のもとを訪れたのは、この自分の気持ちに決着をつけるためだったから。

 

 一昨日、橙耶と仲良く話す二人の女性を見て、気持ちが揺らいだ。橙耶を取られるのではという焦りと、自分の居場所を奪われるのではと恐怖で、気持ちが大きく揺れた。昨日、その自分の気持ちにどう決着をつければ良いのかを、必死に考えた。橙耶の近くという自分の居場所を奪われないためにはどうすれば良いのかを、必死に考えた。

 そして今日、そのことに答えが出た。一人帰る放課後の道すがら、その答えに辿り着いた。

 

 その答えが、自らの気持ちを伝えること。橙耶の最も近い場所に自分の居場所があるのか不安で仕方が無いと、その想いを伝えること。

 そして伝えた後は、その答えを聞く。そのために立花は、橙耶の元を訪れようとしていたのだから。

 

「…………」

 

 商店街まであと少しというところで、少しだけ憂鬱になる。あの大きな商店街を思い出しただけで、ちょっとだけ憂鬱になる。あの大きくて、休日だからただでさえ人で賑わっているところから、橙耶一人を見つけないといけないことに、ちょっとだけ挫けそうになる。

 ……でも、彼女の心は、挫けない。だって日にちを置いてしまえば、せっかく答えを聞こうと思って覚悟したのに、その覚悟が風化してしまいそうな気がしたから。

 だから何としても、今日中に橙耶を見つける。

 

「って言っても、そもそも商店街に絶対にいるって保障もないんだけど」

 

 そう独り言を呟いた後、それでも、と心の中を奮い立たせる。諦めるのは精一杯足掻いた後でも良いじゃないかと、奮い立たせる。

 そうすればまだ、覚悟の風化が起きないような気がしたから。

 

「……よしっ」

 

 商店街の入り口が見えてきたところで、そんな気合の呟きが一人勝手に漏れ出る。自然と歩く速度も早くなる。

 

 その覚悟の中立花は、橙耶を見つけるために頑張ろうと、そう思っていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「朝霧さん?」

「えっ? あれ? 橙耶先輩?」

 

 スーパーから出てきた、重そうな買い物袋を二つぶら下げた見知った女性。それはこんなところで会うのも予想外な、優衣の妹にして自分の後輩、大きな胸を隠すような上着にロングスカート穿いた朝霧美咲だった。

 

「どうしたの? スーパーに買い物になんて来て……しかもこんなに大量に」

 

 別に買い物に来ることがおかしいとか、そういう意味じゃない。確か彼女は今日、妹の優衣と一緒に遊ぶ約束をしていたはずだ。今日の登校路でそんな約束をしていたのを橙耶は聞いていたのだから間違いない。

 

「優衣は? 今日は一緒だって聞いてたんだけど……」

「あ、はい。一緒ですよ。ただそうですね、今は私の家でくつろいでます」

「……え? 朝霧さんの家なのに、優衣が朝霧さんの家にいるの? それって防犯上危ないんじゃ……」

「え? どうしてですか?」

 

 本当にキョトンとしているその表情は、優衣を心底信頼していることの証明だった。

 

「いやだって、朝霧さんの部屋のもの、物色されちゃうよ?」

 

 その妹が信用されていることが嬉しかったので、自分の中の妹も他人のものなんて取らないなと思い、とりあえず冗談めかしてそんな風に答えておく。

 

「……まぁ、それも仕方ないんです。罰ゲームですから」

「罰ゲーム?」

「はい……ちょっと、人生を知るボードゲームで負けちゃいまして……」

「……なるほどね」

 

 その中睦まじさに自然と頬が緩む。

 

「じゃ、ボクも手伝ってあげるよ。朝霧さんの家まで荷物持ちとしてね」

「えっ? でも先輩、用事があったんじゃ……」

「用事はあるけど、もっと大事な用事が出来たからね。後輩の荷物持ちっていう」

「いえでも、そんなの悪いですよ!」

「悪くない悪くない。ま、妹と仲良くしてもらってるお礼、ってことで。妹には内緒だよ?」

 

 そうして口元に立てた人差し指を持っていき、シーッと動作をする。そのどう反応して良いか迷って動揺している隙に、彼女が手に持つ買い物袋を一つ奪い取り、商店街の出口向かって歩き出す。

 

「あっ、そんな先輩! 待ってください!」

「待たないよ。でもボクより前に行ってくれないと、朝霧さんの家が分かんないから困りはするかな」

「いえでも、本当に悪いですって」

「気にすることは無いよ。……まぁ、そうだね。正直時間を潰してからもう一度家に行った方が良いとも思うしね」

「え?」

「闇雲に探すのは効率が悪い、って話だよ。だからさ、これはボクの時間潰しの一環だと思って、無理矢理で悪いんだけど付き合ってもらっても良いかな?」

「あっ……その、ありがとう、ございます」

「お礼を言うのはボクの方だよ。だから、このまま荷物持ちをさせてね」

「……はい」

 

 俯き、お礼を言う彼女のその顔がとても赤い。この橙耶の優しさこそが、美咲が彼に惚れている理由の一つなのだろう。

 

 ……もっとも、この彼の行動のせいで一人の女性が逃げ出すように走り出したのだが……当然誰もがそのことには、気付く由も無かった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 走る。

 ただひたすらに、目の前の事実から逃げるように走る。

 

 商店街で橙耶を見つけたまでは良かった。

 でも、そこであの後輩の女の子と、仲良しそうに話しているのを見たのが、いけなかった。

 あんなに柔らかく微笑んで、幸せそうに話している彼を見るのが……辛かった。

 彼の一番近い居場所は、あたしではなく彼女なのだと分かってしまうその姿を見るのが、辛かった。

 心が揺れた。壊れそうなほど、震えて響き渡った。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 無我夢中で、ただひたすらに走り続ける。日頃のランニングのおかげか苦しくは無い。

 ただ苦しく無いせいで、頭の中は常に何かを考え続けてしまう。どうして自分が居場所に立てなかったのかとか、どうして自分ではなく彼女なのかとか、そんなことをずっと考えてしまう。

 どうしてあの頃……中学時代は彼と距離をとってしまったのかとか、ずっと考えてしまう。

 

「はぁっ、はぁっ……くっ、はぁっ……はぁ……」

 

 そうして彼女は、そんなことばかり頭の中を駆け巡りながら走り続け、スタミナが無くなった訳でもないのに、ある場所で自然と足を止めていた。

 その場所とは、小さな公園。取り壊される予定のまま放置された五階建て市営住宅地にある、滑り台とブランコしかない、本当に小さな公園。

 休日のお昼頃なのに、小さな子供一人もいないのがその小ささを示してくれる。

 

 でもそこは、子供の頃の思い出詰まった、大切な場所。

 橙耶と共に遊んだ、大きな思い出の詰まった小さな場所。

 

「…………」

 

 無言で見渡すそこをとても懐かしいと思う反面、本当に懐かしむ場所はここじゃないなとも思う立花。

 ……本当に懐かしむべき場所……そこはこの公園の隅っこにある、屋根つきの自転車置き場の柱を登って、近くにある倉庫の上に飛び移り、そこから手を伸ばして届く壁に備え付けられた梯子を掴んで登りきった先にある、住宅の屋上。貯水庫しかない、フェンスも何も無い、遠くにあるマンションとマンションの隙間から顔を覗かせる夕陽がキレイな、橙耶と二人だけの秘密の場所。

 そここそが、本当に懐かしいと思う場所。

 

「……行かなきゃ」

 

 無意識の行動。例の考えが頭の中を支配している中の行動。

 ただフラフラと自転車置き場に近付き、腕を伸ばして柱を登る。昔は力を込めても大変で、よく先に登っていた橙耶に助けてもらっていた。今はもう、最大限まで腕を伸ばすのを二回繰り返せば、容易に登ることが出来る。

 倉庫の上に飛び移るのだって、昔のように勇気を出してジャンプしなくても、跨ぐように足を開けばあっさりと届く。

 梯子にだって、手を思いっきり伸ばしていたのに、今では肘を曲げながらでも余裕がある。

 

 そうして、昔は登るだけで勇気を振り絞って苦労したその場所に、五分にも満たない時間で、あっさりと辿り着いた。

 

「……着いた……一人で辿り着けたよ、とーや」

 

 打ち上げ花火の残骸や、どうやって辿り着いたのかが分からないタバコの吸殻が所々に落ちてある汚らしいその場所。

 昔は秘密基地のような気がして嬉しかった、その懐かしい場所。その唯一の人工物ともいえる貯水庫の太いパイプ――昔の自分の指定席に向かって、フラフラとした足取りで歩き出す。

 

『こんなとこぐらい、一人で来れるようになれよなっ!』

 

 そんな、子供の頃橙耶が言っていた言葉を思い出しながら、歩いていく。

 

 そして辿り着いたその自分の指定席に、服が汚れるのも構わずドガッと腰を下ろす。

 ……その場所から眺める明るい景色を見つめていると、さっきの言葉以外の思い出が、頭の中に蘇ってくる。

 小学校低学年、いまだ異性を異性と意識していない頃一緒に橙耶と遊んでいた、昔のことを思い出す。

 

「…………」

 

 それは、母親が再婚した時のこと。

 自分が生まれてすぐに父を亡くし、五歳の時に新しい父親が出来た時のこと。あの頃からずっと、子供心にもしかして自分はいない方が良いのではと、考えていた。自分がいなければ、お母さんはその新しい父親とすぐに結婚が出来て、後に生まれる妹を長女として育てていけるのではと、ずっと考えていた。

 そんな、ありきたりなのに幸せに満ちた家庭を築いていたのではと、ずっと考えていた。

 もちろん大人に近付いている今でも、ずっとその考えは拭い去れない。こればかりは、どんだけ悩んでも答えが出ない。いくら考えても答えを導き出せない。

 

 ……そんなことを子供の頃から思っていたなんて、もしかしたら妙にマセていたのかもしれない。……でも……女の子は子供の頃から女性としての一面があると言いう。ならきっと、その感情部分こそが、子供の頃からの女性としての一面なのだろう。

 

 だからなのだろうか。親が妹を贔屓している気がして、妹を泣かせて、そのせいで怒られて、逃げ出してしまったのは。

 もしかしたらあの時から、この悩みに押し潰されそうになっていたのかもしれない。だから妹を泣かせるなんてことを、したのかもしれない。

 悩みの元凶の一つを取り除こうとするかのように。

 

 あの時も確か、今日みたいに必死に駆け出した。

 ただあの時は今日と違い、何も考えず、無我夢中で走っていたような気がする。

 そうしてあの時も、ここに辿り着いていた。無意識のうちに。後は今日みたいに、一人で頑張ってこの場所に来て、今では思い出せない何かをずっと一人で考えてて……心がボロボロになってくるのが分かってきて、自分なんてあの家族にはいらないと思えてきて、あの家族に必要とされてないのなら誰にも必要となんてされてないと思えてきて、だったら死んでも良いのかなとか、思えてきて……。

 

 そんな時に、声が聞こえてきたんだ。親と一緒に探してくれていたとーやの――

 

「りっちゃんみぃつけた!」

 

 耳をついたその声に慌てて振り返る。とーやのその、当時とまったく変わらない呼び方に、嬉しさと驚きの心情の中、慌てて振り返る。

 

 でもそこには何も無くて……あぁ、幻聴だったんだな、と気付いて、余計に悲しい思いが募ってきて……。

 だって、そんな幻聴が聞こえるということは、ずっと望んでいるんだ。昔みたいに、昔と同じ今みたいな状況の中、自分を探して見つけてくれることを。この懐かしい場所に自分がいると、本能的に分かって来て欲しいと、そんなことを望んでいるんだ。

 昔みたいに、今の自分を助けてくれることを。

 

「でも……そんなの無理だよ……」

 

 昔は見つけてくれた時、私に訊いてきた。りっちゃんのお母さんから聞いたんだけど、どうしてそんなことをしたの? と、隣に座って訊いてきてくれた。

 だからあたしは、自分の思いを全て打ち明けた。親のことも妹のことも、自分の居場所のことも、その全てを打ち明けた。

 

 すると彼は、静かに全てを聞いてくれた後、当たり前のように言ってくれた。

 

『りっちゃんがいないと、ボクが泣いちゃう! いないとボクが悲しい! だからボクの近くに、りっちゃんの居場所はあるんだ! だから、いない方が良いなんてことは、絶対に無い!』

 

 自信満々に、一片の迷いも無く、そう言ってくれた。

 それがとても嬉しくて、その言葉を支えにして、今まで生きてきた。

 

「…………」

 

 でも、今の彼は商店街で、例のカワイイ後輩と一緒に楽しんでいる。嬉しそうに彼女の横で微笑んでいる。楽しそうに自分の横で笑わせている。

 だからもう、彼の近くにも、あたしの居場所は無いんだ。彼の近くにはもう、その後輩がいてくれてるから。あたしの代わりは、既にいてくれてるから。

 だからそこはもう、あたしの居場所じゃない。

 

「……やだなぁ……」

 

 そんな感情がないと言えばウソになる。でももう、仕方が無いんだ。

 ……遅すぎたから。もう色々と、遅すぎたから。

 

 気がつけば、夕陽がキレイに射し込む時刻。

 昔橙耶と見て、キレイだねと言い合って、二人だけの秘密基地にしようと誓い合った、その場所から見るキレイな夕陽。昔と同じで、遠い場所に建ってあるマンションとマンションの間にある、そのキレイな夕陽。

 

 ……そう言えば昔も、こんな夕陽の中迎えに来てくれた。橙耶の字を表したかのようなキレイな橙色の世界の中、このキレイな景色の中、彼はあたしを必要だと言ってくれた。

 ……でももう、彼は迎えに来てくれない。当たり前だけど、迎えになんて来てくれない。

 もうあたしは、誰にも必要とされていない。

 

「…………」

 

 少しだけ涙で滲む視界の中、太いパイプから立ち上がる。

 そして、この秘密基地の淵に向かって、歩き出す。

 

 自転車置き場の屋根や倉庫、梯子を伝って登れる場所とは言え、五階建て住宅の屋上はそれなりに高い。地面との距離は、下から見上げるよりも結構ある。現にこうして淵に立ち、見下げる地面との距離はかなりある。とても遠い地面までの場所。

 ……でも……遠い方が、彼女にとっては良いのかもしれない。

 

 死のうとしている彼女にとっては、この方が良いのかもしれない。

 

「誰にも必要とされないのなら……あたしは、皆の邪魔者になる前に、いなくなることにする。皆の記憶の中に、悪いあたしが植え付けられる前に、いなくなることにする。……だってもう、疲れたよ。誰にも必要とされない中で、生きていくのはさ」

 

 誰にでもなくそう呟くと、彼女は涙で滲む瞳を閉じ、大きく前へと跳ぶ。

 まるで目の前には大地が広がり、ちょっとした大きなスキップのつもりで踏み出したかのように、自然と。まるでこれからも、自分が生きていくことを疑っていないかのような、本当に自然な足取りで。

 

 彼女はその、自らの命を刈り取る空間に、足を踏み出した。