同校の生徒達に紛れて電車に乗ること四駅分。終点一つ前で降りてから十分ほど歩くと、その建物は見えてくる。
郊外……と言うよりも田舎と表現した方が良いかもしれない場所にあるその校門。おそらくその塀に囲まれた総合敷地は、平均的な大学の広さを裕に超えているだろう。
それもそのはず。何故なら彼らの通う高校は、俗に言う中高一貫の私立校だからだ。親の都合などが無い限りはそのままエスカレーター式に繰り上がるため、同じ敷地内に中学生用校舎と高校生用校舎があり、共同施設でもある図書室や部室棟専用の共同棟と呼ばれる場所もあり、グラウンドや講堂などは仕切りを解くと中高全生徒が納まっても余裕があったりする。
橙耶たち三人も中学からの繰り上がり組だ。
ちなみに、中学生時の制服は今とは違い学ランとセーラー服だったりする。
「それじゃあまたね、優衣、朝霧さん」
高校生用校舎に入り、真正面の階段を一階分上ったところで二人と別れる。一年生は二階、二年生は三階がそれぞれの教室になっているからだ。
「うん、お兄ちゃん。また家でね」
「はい、橙耶先輩。今日もよろしくお願いします」
それぞれの挨拶を聞き届け、階段を上って自らの教室に足を運ぶ。
この学校は基本的に、去年度の学年末テストの結果によってクラス分けがなされている。学力によってAクラスからFクラスにそれぞれ分けられる仕組みだ。Aクラスに近ければ学力が高く、逆にFクラスに近ければ学力が低いという形になる。
別にクラスによって教室内の設備に変化があるわけでも、勉強の教え方に変化があるわけでもない。ただ生徒達に危機感を煽らせたり、同じクラスに同レベルの人達を集まらせることでライバル意識を燃やさせて互いに高めさせたり、先生達の学力目安を立てやすくするためだけが目的だ。あと他にもFクラスに近ければ先生の危機感の煽り方が半端なく高まるらしい。
……らしい、と言うのは他でもない。橙耶自身はFクラスを体験したことが無くて知らないからだ。
と、橙耶は自らのクラス――Bクラスの中に入る。
「皆おはよ〜」
黒板側から入ると同時にしたその挨拶に、皆がそれぞれの挨拶を返してくれる。その挨拶返しに再び挨拶を返しながら、窓際の前から三列目、その自分の席に向かう。
そして机の横にありきたりな革色の手提げかばんを引っ掛けて席に着くと同時、彼の元に二つの人影が歩み寄ってきた。
「おはよっ、橙耶」
「おはよう、筧くん」
威圧感のある雰囲気を纏った男子生徒と、メガネをかけた大人しそうな女子生徒。
「あ、おはよ、恭介、石崎さん」
友人であるその二人の登場に、挨拶を返す橙耶の頬も自然とほころぶ。
「久しぶりだなあ、五日ぶりか」
「そうだね、今年のゴールデンウィークは長かったし」
橙耶の机に腰掛けながら男子生徒――黒江恭介が話しかけてくる。
「んで、ゴールデンウィークはどうだったよ、橙耶」
「う〜ん、どうって言われてもね……ほとんど家でゲームして過ごしてたかな」
「なんだよそりゃ。それなら俺でも誘ってくれりゃ、一緒に遊んだってのによ。脱衣麻雀とか」
「男同士で!? そんなの分かってたら絶対に呼ばないよっ!」
「冗談だって。まぁ、一緒にゲームぐらいはマジだったんだがな。後は出された宿題を一緒にやったりとかさ」
「でもそれじゃあ、いくらなんでも恭介と石崎さんに悪いよ。二人とも、ゴールデンウィークはほとんど一緒だったんでしょ」
「それがよぉ……こいつさ、ゴールデンウィーク全部家族旅行に費やしやがったんだよ」
「仕方ないじゃない。二日目だけこっちに戻ってくることも出来ないんだし」
と、恭介に親指で指された女子生徒――石崎郁美は、ため息交じりに腕を柔らかく組んで続ける。
「なんだったら、恭介もついてきてくれて良かったのよ?」
「いや、さすがに家族水入らずのところに入る度胸はねぇよ」
「じゃあ文句言わない」
「ヘイヘイ。わかりましたよっと」
と、座っていた机から降り、二人の下を立ち去ろうとする恭介。
「どこにいくの?」
「便所だよ、便所。すぐ戻るさ」
郁美の問いに手をヒラヒラとさせながら答え、そのまま教室を出て行った。
その後姿を見送った後、郁美は軽くため息を吐いた。その表情はどこかしらショックをうけているようにも見える。
「……どうかしたの? 石崎さん」
その様子に気付いた橙耶の言葉に、郁美は小さく首を振る。
「なにも……ただちょっと、きつく言い過ぎたのかな、って……もしかして怒ったから、トイレだなんて誤魔化してここを離れたのかも……」
「大丈夫だよ。恭介は怒ってないって。本当にトイレに行っただけだと思うよ?」
「そう……かな? 私が無理言っちゃったから、呆れてどっか行っちゃったとか……」
「ないない。恭介に限って、そんな小さなことで呆れたり怒ったりなんて無いよ」
それだけは間違いない。
一年近く親友をやってきた彼が言うのだから、きっとそれだけは、間違いが無い。
「付き合いたてで不安なんだろうけど、石崎さんの好きになった人でしょ? だったらもっと信じてあげないと」
「そう……だよね、うん。ありがとう、筧くん」
続けて言った橙耶の言葉に、少しだけ表情の翳りを消して微笑む郁美。
もっとも日頃から表情の変化が乏しい彼女のその一連の変化に気付けるのは、おそらくこのクラスの中では橙耶と恭介ぐらいなものだろうが……。
「いえいえ、どういたしまして。にしても、相変わらずの惚気っぷりだねぇ〜」
苦笑いを貼り付けながらのその橙耶の言葉に、今度は一転、頬をほのかに染める郁美。
「仕方が無いじゃない……あなたの後押しのおかげで付き合えたけど、まだ二月経とうかってほどなんだし……その、迷惑ならやめるけど……?」
「まさか。親友同士の仲睦まじさを間近で聞けるんだから、迷惑だなんてとんでもない。にしても、その様子だと一緒に来て欲しいってのは本音だったんだね」
「……まぁ、ね……その、結婚する前だから、間違いが起こさないってのが条件だけど……」
「ま、恭介に限ってそんなこと無いよ。彼も見た目に反して純情だからね。って言うか、そのことを知ってるから付き合ったんでしょ?」
「……うん……」
「ははっ……またお惚気になっちゃったね」
さらに苦笑いを深めながら橙耶が話を締め括った途端、予鈴が鳴り響いた。
「ゲッ! なんだよもうそんな時間かぁ……」
そんな教室の入り口からの恭介の嘆きに、二人で軽く笑みを浮かべる。
「それじゃあ筧くん、私恭介のところ行ってくるから」
「うん。まぁ気にするほどじゃないと思うけど、もし気になるなら謝ってみれば。気にするなって言われるだろうけど」
「うん、そうする」
そのまま軽く手を上げて、郁美は机の間を縫って恭介の元へと向かっていった。
◇◆◇◆◇
何事も無い、極々平坦な日常。知らないことを教えてくれる授業を終えれば、十分間恭介や郁美と他愛も無い話しをし、そしてまた五十分の授業を受ける。たまに移動教室があって移動することもあるが、その時もまた三人でつるんでいる。
でもそれはお昼休みまでのこと。お弁当の時間になれば、橙耶は一人教室を出る。別に恭介や郁美に気を使っているわけでも、クラスの中で他に友達がいない訳でもない。
ただ、一緒に食べ続けることをある人と約束したから、その約束の場所へと向かうだけ。一年生のある時期から、学校がある日は毎日果たしている、その約束の場所へと向かうだけ。母親が作ってくれたお弁当を片手に。
「ふぅ〜……」
お弁当を持っていない方の肩を回し、首を倒し、肩甲骨を反って授業中の「コリ」をほぐす。授業自体は楽しいし、休み時間の会話も楽しい。
だからだろうか、精神面的な疲労は無いに等しい。でも逆にそのせいで、肉体面での疲労を忘れてしまっている。橙耶の悪い癖だ。だからこうして人通りが減って一人になった途端、その疲労を思い出してしまう。
つまり四時間分の授業中の疲労が、一気に体に襲い掛かってきてしまうということ。
「……休日に結構疲れが取れたと思ってたけど……まだ疲れてんのかなぁ……」
見た目の幼さに反したその体のガタが気に食わないのか、不機嫌そうにそんな言葉を漏らす。
と、目的地に着いたのか、ある教室のドアの前で止まった。
高校生用生徒会室。その名の通り高校生代表陣とも言える生徒会のメンバーが放課後に会議を行ったりするその場所。共同棟の二階にある、普通の教室よりも少し広めに取られた、その場所。
そこに彼を呼びつけている女生徒の姿がある……はず。普通の教室とは違いドアにガラスが貼り付けられておらず中を覗くことが出来ないので確実ではないが……いつも通りなら確実にいてくれている。
「ふぅ〜……はぁああ〜……」
そのドアの前に立ち、大きく深呼吸。別にやましい事をしているわけでもないのだが、この部屋の前に立つといつも妙に緊張してしまう。連休明けなんて特にそうだ。だから吐き出した息を少しだけ吸い戻して腹に溜め、気を張ってから目の前のドアをノックする。
「失礼します」
慣れた手つきで向こうの返事も待たずに開ける。するとそこには、一人の長身の女性が席に座り、書類を片付けている最中だった。連休明けに久しぶりに見たせいか、橙耶はその美しくも真剣な横顔に、一瞬息を呑んでしまう。
腰まではあろう黒いサラサラの髪、横顔から分かる整った顔立ちとキレ長の瞳、目を通して一つ二つ書き込んだ書類を横によけるその動作一つ一つが優雅で優美。まるで彼女――桐沢奈弦を含めたこの教室全てが、侵してはいけない聖域のような気がしてしまう。
「あの、奈弦先輩」
でも過去に見惚れていて怒られた経験からか、橙耶はその女性に意を決して声をかける。
連休前はいつもしていたことのはずなのに、いつも見ていた姿なのに、今は初めてのことのように、初めて姿を見てしまったかのように激しく緊張してしまっている。でも何とか今まで通りの言葉を出し、声をかける。
その声でようやく来訪者が来ていたことに気付いたのか、目の前に座る女性は黒い髪をサラリとなびかせ、橙耶の方へと顔を向ける。
「あら、来たのね。ちょっと待ってて、キリの良い所まで終わらせたら昼食にしましょ」
中に入っていてという言葉に導かれ、橙耶はドアを閉めて彼女の隣の椅子を引き腰をかける。
声をかけてもらったおかげか、今まで通りのように自然と接せるほど緊張の糸は解けていた。
「何の書類ですか? それ」
と、追記事項のように一つ二つを書き込んでいる書類を覗き込みながら橙耶が訊ねると、奈弦はその手を止めることもせず平然と答える。
「ああ、これ? ちょっと仕事してるフリしてるだけよ」
「なんでそんなことしてんですか! さっさとお昼ご飯食べましょうよ」
「出来る女、ってのを見せたいじゃない? 連休明けだから、私の評価を上げたくて」
「今なんかとてつもなくボクの中で評価は下がってるんですけど……」
「ふふっ、冗談よ」
そういうと彼女は微笑を携えながら、横によけた書類とさっきまで処理していた最後の一枚をまとめ、トントンと机の上を叩く。
「一応守秘義務があるからね、答えられないの」
「それじゃあもっと隠しましょうよ……ボク普通に横から覗いちゃいましたよ」
「一応、って言ったでしょ? “不本意ながらも”横から覗かれたんじゃ、私じゃどうしようも出来ないしね」
イタズラっ子のような微笑みを浮かべてそう言葉を締め括ると、傍らに置いてあったシンプルなデザインをした自分の鞄からファイルを取り出し、その書類を綴じる。そしてそのファイルと大きなお弁当箱を鞄の中で交換し、机の上にドンっと置く。
「じゃあ、食べましょうか。待たせたお詫びに、おかずを一つ持っていっても良いわよ?」
「いえ、良いですよ。ボク小食ですから。と言うか、そのこと知ってて言ってますよね?」
「まぁね。私は、橙耶くんには健康でいて欲しいからね」
なんて会話をしながら、互いにお弁当箱を開ける。
橙耶は男性の割りに小さな二段弁当を。奈弦はお重箱のようなお弁当を。
「……相変わらず良く食べますね……」
「まぁね。これぐらい食べないとどうも満足しなくて」
橙耶の言葉に返事を返しながらお重を解体していく。一段目には肉を主体としたおかずが彩りよく敷き詰められ、二段目にはタマゴとトリのそぼろご飯。三段目にはデザートとしてかリンゴがウサギの形で入れられていた。
「それだけ食べても太らないなんて……妹が知ったら発狂しますよ」
「あら? それはセクハラ発言じゃない? 橙耶くん」
サッと、腕で平坦な胸を隠す動作をする。
その動作が何の意味を持っているのか理解したのか、途端に頬を赤らめる橙耶。
「そ、そうですね。すいません……」
よほど恥ずかしかったのか、開けたお弁当箱の中身をかっこむように食べ始める。そんな彼の姿に、奈弦は苦笑いを浮かべる。
「なによ、そんなに恥ずかしがることは無いのに。話を振っちゃったのは私でしょ? 気にすることは無いわよ」
「いえ……まぁ、ボクが勝手に恥ずかしがってるだけですから……」
「ホントカワイイわね、橙耶くんは」
「その、奈弦先輩。カワイイはその、やめて欲しいなって……」
「ふふっ、そう言えばそうだったわね。あんまり言い過ぎると、私もあなたにカッコイイだなんて言われちゃうもの」
それだけは勘弁してほしいわ、と続けた後、お弁当の包みから箸を取り出して中身をつまみ始める。その食べる動作の一挙一動全てが、これまた優雅。一緒に食べ始めた最初のころは思わず魅入ってしまってたな、なんてことを、お弁当を食べながら横目でその姿を眺めつつ橙耶は思う。
「なに? どうかした?」
その視線に気付いたのか、橙耶へと視線を向けながら訊ねる奈弦。
「あっ……! いえ、その……」
見ていたことがバレたことに緊張しながらも、見ていた原因がバレてはいけないなと何故か思ってしまい、咄嗟の言い訳を必死に搾り出す。
「……あの、ほら! 奈弦先輩はゴールデンウィークどうしてたのかなぁ、って」
我ながら悪くない咄嗟の質問だな、と橙耶は思うも、奈弦のその苦笑いを浮かべた表情を見る限り、咄嗟に思いついた質問だとバレてはいるようだ。……もっとも、橙耶はその奈弦の表情には気付いていないようだが。
「どうしてたって言われても……家でのんびりと過ごさせてもらっていたわ」
でもそのことを指摘することも無く、表情をそのままに続ける。
「特に何かすることがあった訳でもないしね……正直、橙耶くんが誘ってくれればいつでも出掛けられたぐらいよ」
「そうですか、そんなにヒマだったんですね。でもボク、奈弦先輩の連絡先なんて知りませんしね」
「……まぁ、そういえばそうだったわね」
む〜、とうねるように咥え箸をして少しばかり考える奈弦。でも何を考えているのか橙耶はわからないのか、首を傾げるのみ。
「どうかしたんですか?」
「いえ……ただそうね、そろそろ私も携帯電話でも持とうかなって思ったところ。あったら便利だしね」
「でも確か、父親が反対してるんじゃ……」
「そうよねえ……そこがネックよねえ……。……ねえ橙耶くん、もし私が持ったら、あなたは嬉しい?」
「へ? う〜ん……そうですね、持ってくれたらいつでも連絡できますし、嬉しいですよ」
「そっか……じゃあちょっと真剣に考えてみようかな……」
「でも、ボクと連絡取れても嬉しくないでしょ?」
その橙耶の言葉に、連絡取れるだけで嬉しいのに、なんて思いが奈弦の中で駆け巡る。
別に、そのことに気付いてもらえないことに対して怒りが沸いてきたわけではない。彼が色々なことに対して鈍いことを、彼女はよく知っている。
だから別に、何か特別な感情を抱いたわけではない。
でもさっきの言葉に少しだけ……本当に少しだけ、この幼い見た目の少年を困らせてみたいな、なんて考えが過ぎっただけだった。
「そうでも無いわよ。だってメールアドレス知ってたら、メールをあなたに送ることが出来るでしょ? ……夜中の三時とかに」
「なんと言う迷惑メール!」
「大丈夫安心して。内容は空メールにしておいてあげるから」
「余計に性質が悪いですっ」
「でも奥底に一文だけ残しといてあげる。……祝いの言葉を」
「呪いじゃなくて祝ってくれるんだっ!」
「まぁ頑張って見てくれようとしたってご褒美で。限界最後のところに」
「絶対途中で挫折しますよ……」
「仕方ないわねえ……じゃあスパムメールにしといてあげる」
「今までのがスパムで無いとでもっ!?」
なんて、奈弦のからかい半分の会話を(主に奈弦自身が)楽しみながら、昼食の時は静かな場所で賑やかに過ぎ去っていった。